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ダンスとか。

ランコントル・コレグラフィック~(一日目)

2004-01-10 | ダンスとか
~・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ ヨコハマプラットフォーム。横浜赤レンガ倉庫1号館ホール。
今年のランコントル、これは何が凄いかというと、幅が凄い。ルーデンスとボクデスが同列に並ぶなんて、これはダンス史の快挙だといわざるを得ない(ボクデス(という敗北主義)の快挙という意味でもなければ、ルーデンス(というアカデミズム)の快挙という意味でももちろんない)。
▼高野美和子 『匿名トリップ』
伊東歌織、河村篤則と高野によるアノニマスなトリオ。先月の「ネクスト・ネクスト4」よりも、ムードが濃厚で面白く見られた。この暗くて湿ったテイスト。この人は、江戸川乱歩の『人間椅子』をモチーフにした『佳子の部屋』という作品を記録映像で見たことがあり、それは結構面白いと思ったのだが、今回はあれを思い出した。ただいかんせん、空間もムーヴメントも衣装もアイディアも決め手を欠き、主題へと鮮やかに収斂していかない。本人の年齢不祥なヴィジュアルといい、コマ落とししたような奇怪な人形振りや機械的動作の反復といい、何かしでかしてくれそうで、まだ何もしでかしてくれてはいない。特に河村の女装というアイディアなんかは面白くなりそうなのに、どこに着地させようとしているのかよくわからずに見ていた。舞台上手で三人が足を交差させたスキップでグルグル回る場面などは、河村のもつれる足が辛うじて主張する部分。白い足が闇に浮かぶ。伊東と高野のデュオ・ヴァージョンをセッションハウスで見たときは、アノニマスな衣装は現われず、初めから二人の関係が見えやすくなっていた。『佳子の部屋』やこのデュオ・ヴァージョンに通じる演劇的な表現からあえて離れようと試行錯誤しているのか。
▼岩淵多喜子 『Be (完成版)』
前回(一昨年)ダンサーの怪我で棄権を余儀なくされたからリヴェンジという意味もあったのだろう。本当によくできた作品だし、何度見てもそれなりに面白い。太田ゆかりが声を上げて何度も倒れ、それを大塚啓一が支える、というシーンなど、あまり見覚えのないシーンがずいぶん目に付いた。互いに肩をつき合わせて前進してくるラストはちょっとミスか。二人の組み合う角度が浅すぎて、バランスが悪くなり、歩幅が大きくなって駆け込むように性急に終わってしまったような気がした。
▼岡本真理子 『ききみみ塔』
今日はこの人だけが新作を持ってきた。今年から大胆にも上演時間の制限がなくなったそうで、45分もある。例によってあまり踊りらしい踊りはしないで、小さなオブジェとかコントラバスと絡んだりするのだが、ぼくには「表現」というより「感受性の押し売り」に感じられる。面白かったのは片足だけ靴を履いて無理矢理タップを踏む場面。片脚しかない人のように見えた。
▼小浜正寛 『BOKUDEX』
6つのネタからなる。(1)「壁男」は、個人的に一番面白いと思っている瞬間、すなわちあの、縦長の映像が横長にチェンジするのに合わせて壁をガッと横に倒す動きが見られなかったのが残念至極。(2)「Watch-man」、(3)「ゲラー・ダンス」。(4)「なにかが道をやってくる」は、とにかくデタラメな思い付きとか連想とかを言葉と体を使ってハイテンションで持続させるというもので、「痛々しさ」を表現に変える趣向。前に『ラボ20』で見た武田信吾のような「オモシロ若者」的技巧の冴えがあるわけでもなく、徹底的に痛々しいのだが、そこへ何かセンチメンタルなオケがかぶさってくる。少なくとも「あぁこんなもの絶対に肯定したくない」という葛藤を呼び起こされたことは確かで、毒性は高い。(5)「shortcake」(映像作品)はその悲壮感の流れを引きずりつつ上映された。案の定、魅力は半減してしまった。(6)「蟹ダンサー多喜二」。何がスリリングかというと、蟹の脚がいつ千切れるか、というこの一点に尽きる。一種の持ち物とはいえ、扇子などと違って多関節の物体(しかも動物の死体)だから、その水気の多い弛緩した筋肉群は、およそ身体化などされず、制御不可能なままに留まり続ける。だから脚が千切れ飛ぶ瞬間は、観客の眼にはほとんど見えない(本人には蟹の関節が緩んでいくのが少し分かるかもしれない)。折角だからもう少し盛大に千切れてもらいたかった。
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