下北沢・駅前劇場、昼。
「コメディアン」というものはしばしば、芸を過剰にエスカレートさせて、「笑い」という効果の次元をはるか遠くまで超えて行ってしまう。シベ少の場合、以前はちょっと長めの「オチ」だと思われていたものがますます長くなって、もはや「オチ」としての機能を果さなくなっている。「オチ」は本来瞬間的に作用するものだが、延々と持続するこれはもう一種の不条理なゲーム以外の何ものでもなく、その代わりゲームの内部で果てしない悪ノリが可能になっている。切れ目のない連続的な逸脱プロセスには笑いというリアクションを差し挟む余地はない。ただ舞台とともにどんどんバカになっていくことを余儀なくされる自分を諦めるしかない。
「コメディアン」というものはしばしば、芸を過剰にエスカレートさせて、「笑い」という効果の次元をはるか遠くまで超えて行ってしまう。シベ少の場合、以前はちょっと長めの「オチ」だと思われていたものがますます長くなって、もはや「オチ」としての機能を果さなくなっている。「オチ」は本来瞬間的に作用するものだが、延々と持続するこれはもう一種の不条理なゲーム以外の何ものでもなく、その代わりゲームの内部で果てしない悪ノリが可能になっている。切れ目のない連続的な逸脱プロセスには笑いというリアクションを差し挟む余地はない。ただ舞台とともにどんどんバカになっていくことを余儀なくされる自分を諦めるしかない。