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ちょっとだけスパイシー

雲南省旅行記(24)

2006-09-27 | 雲南省旅行記
ロープーウェイ・バスと乗り継ぎ。
高いトーテムポールを屋根に作った建物まで戻ってきた。
バスから降りるとお土産売り場を通って外に出るようになっているのだが、
一番出口に近いところで、アイスクリームと、
加工牛肉の売り場があった。
ガイドの張さんは
「ここの肉は凄く美味しい!!!
 ここに寄った時は、必ず家族の為に買って帰る」
と言って、中国風生ハムのブロックを買った。
私たちは、サラミと生ハム、ビーフジャーキーを(?)
中国風にブレンドしたような牛肉を干したものを買った。

夏さんはすでに出口で車を止めて、私たちの帰りを待っていた。

ここから妻にバトンタッチ(^^♪

玉龍雪山から車は甘海子に着きました。
張さんは
「春の時季、ここは一番綺麗な所ですよ、
 広い原野で色んな花が一斉に咲き競います」
と説明しましたが、
花の国、日本から来た私たちにとって、このような風景は珍しくないです。
玉龍雪山の高原反応(高山病)もまだ残っているので、
車を降りずに窓から甘海子を眺めました。
甘海子は麗江市から約25キロメートルの所で、海抜2900メートルです。
もとは高山の氷湖でしたが、雪線の上昇に伴って、
溜まった水が減ってだんだん涸れてきた。
そこで「甘海子」と呼ばれるようになりました。
現在の甘海子は、三方を山に囲まれた草原です。
視野はきわめて広くて、環境は静寂で、さながら世外の桃源のようです。
この美しい大草原でちょっと昼寝したいなと思ったのですが、
何も言わず車が去っていってしまいました。
残ったのは夢だけです・・・
甘海子から5キロ、草原から松林の風景に変わったところに、
白水河という玉龍雪山から流れ込む、冷たい河が目の前に現れました。
私たち車から降りて小道に沿って、白水河の近くまで、歩いきました。
河の水は雪山の積雪が解けた後に、岩石層を通って濾過されて、
最後に湧き泉から河になります。
たとえ夏季だとしても、裸足で河に入ると、水の冷たさは骨身までしみる。
それは雪山の泉水の水質です。
白水河の水質はとても清浄で、全然汚染されていません。
河の水に洗い流れた玉石が澄みきっていて底まで見えます。
白石が河の底に敷きつめられていて、水がその上を流れているので、
水の色は更に明るくてきれいで、白水河の名前が付きました。

張さんは「白水河の水で洗眼したら、目がもっときらきらします」と言いました。
私は両手で水をすくって、洗眼しました。
「冷たい~」と言って、嬉しい顔になりました。
私はその話しを信じていました。
夫も片手で水をすくいました。同じように
「冷たい~」と言って、嬉しい顔になりました。
清らかな水が道路を横断して、人工的に水を堰き止め、
トルコのパムッカレのような景色を作っています。
堰きの所でチベット族の人がヤクを連れて観光客相手に商売をしていました。
ヤクの背中に観光客を乗せ河を渡ったり、写真を撮ったりしています。
チベット族は今まで見たナシ族とは、
雰囲気が大きく異なっているように感じました。
白水河は橋の下流からずっと東へ流れていくと、
雪山から流れたもうひとつの河と合流します。
この河の水も雪山の積雪が解けて河になったものです。
この河は水中の玉石は黒色が多く、水の色が黒く見えるので、
黒水河と言われるようになりました。
白水河と黒水河が合流する所で、黒白水河になります。
雪山は万年積雪で黒、白水河を生み出しました。
黒水河と白水河は自然の川、愛情の川として、納西民族に愛されています。
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雲南省旅行記(番外編)

2006-09-25 | 雲南省旅行記
今、妻が前回の続き雲南省旅行記(24)を書いているところです。

「せっかく二人で行ったのだから、
 少しはあなたも書きなさい!」

と言う私の横暴によるものです。

理由は、
① 中国語の分からない私より、
  ガイドから、私より詳しく案内や説明を聞いている。
② 中国で育った人間が、雲南省旅行をどのように感じたか?
③ 妻の方が文章的センスがある
④ 日本語の練習
の四つからです。

次の投稿を、ご期待下さい。

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雲南省旅行記(23)

2006-09-24 | 雲南省旅行記
四方街に行く途中のお土産物屋で、携帯電話のストラップを見つけた。
『ヤク』の角で作ったストラップでウサギにトラ、竜など
たくさんの形をしたものがある。

今晩には昆明に戻り、明日は広州、明後日は日本に帰ってしまう。
日本へのお土産は今日しか買う日が無い。
私たちにとって、お土産のウィンドウショッピングは楽しいのだが、
いざ買うとなると予算や、どうやって持って帰るか、
など難問がたくさんある。
妻が子供多文化共生サポートのボランティアをしているのだが
小学校のクラスみんなにお土産を買ってくると言ってしまったらしい。
それだけでも80個のお土産が必要だ。

ストラップは1個13元(約200円)と書いてあった。
妻とふたりで頑張って値切ってみた。
なんとか10元にまで値切ることに成功した。
80個で240元。日本円で3500円ほどの得をした。

気分良く、四方街に行ったがまだ張さんは来ていない。
確かに約束の時間にはまだ10分ぐらいあって、
とやかく文句を言う必要はないのだが、
サボってガイド仲間とお喋りしていても、
旅行会社からの日給か時間給かは知らないが、
その分は、報酬をもらっているのである。
なぜ、そう思ったかと言うと、四方街の南の方にある喫茶店で、
若い女性が5人でお喋りをしている。中には民族衣装を着ている人もいる。
その中に、張さんも交じっているのが見えている。

「ゆっくり楽しむことが出来ましたか?」

若く綺麗な女性は得である。
一言ぐらい、何か文句を言ってやろうと思ったが、
言葉が出てこなかった。

携帯で、運転手の夏さんを呼んでいるようだ。
四方街の南東にある食堂で昼食を取り、
玉龍雪山に行く予定だと言う。
道路に面した部分はすべてオープンになっている食堂で、
左端の4人用のテーブルに私と妻。
右端のテーブルに張さんと夏さんが座って昼食を食べだした。
私たちのテーブルの出入り口側にも、4人用のテーブルがあり、
若い女性がふたり、食事を食べていた。
彼女たちが楽しそうに食事を食べている途中、
物乞い(乞食)が近寄ってきて、すぐ横に立ち、
じっと料理を黙視している。
彼女たちふたりは、物乞いの類の人には慣れているようで、
話が途切れることなく、無視して料理を食べていた。
物乞いが諦め、私たちのテーブルに近寄り始めたとき、
妻が店員の女性を呼んで
「彼は日本人です。中国の嫌な部分を見せたくないので 追っ払って下さい」
と言った。
女店員は顔色が変わり、奥の厨房にいた店長だろうか、
呼んできて、すぐに物乞いを追い出した。

店の態度から思うに普段から、その物乞いは良く現れるのだろう。
見て見ぬ振りをしていたに違いない。
日本人には、妻の言うとおり、嫌な部分を見られたくないのだろう。
何故か、女性ふたりもそわそわして急に出て行ってしまった。

中央には、木の大きな10人ほどの人が座れる丸テーブルがあった。
私たちが食事を終わりかけたとき、まだ椅子が足らないらしく、
他のテーブルから空いている椅子を持ってくるぐらいの大家族が入ってきた。
張さんがそろそろ出ましょうと言い、に来たとき
妻が後ろに座ったお婆さんに話しかけだした。
20年ほど前に、北京で暮らしていたときに、近所に住んでいた人だと言う。
大理でもそうだったが、日本から旅行に行った妻が、
中国で知人に出会うなんて、偶然が2度も続いたことになる。
偶然には違いないのだが、中国の雲南省旅行者が、
相当の数に及んでいるという事だろう。
そして『文化大革命』の残したものは、何だったのかを考えさせられる。

そのお婆さんは、家族で北京から来た。
下は3つぐらいの女の子から、上はお婆さんまで、
3世代、12人に及ぶ大家族旅行だ。

次の予定があるので、話しもせずに駐車場へ行く。
駐車場の横にある売店で、水を購入し車に乗り込む。
張さんが
「上に行くと寒いので、ダウンのコートをレンタルしますか。
 それに空気が薄く、気分の悪くなる人が多いです。
私も時々、気分が悪くなるときがあります。
酸素ボンベのレンタルもありますがどうしますか?」
寒さの対応は、日本から用意しているのだが、
空気の薄いところに行くとどうなるか、経験が無いので分からない。
昆明の旅行会社で、この旅行のコースを決めるとき、
妻は玉龍雪山の上まで行くのに反対した。
私が脳血管障害の後遺症を持った身体だから、空気の薄いところに行くと、
血液の酸素が少なくなって何らかの症状が出るか、
最悪の場合は、再発や死んでしまう可能性もあると言うのだ。
私は、4,506メートルを経験しないとここまで来た値打ちが無い。
山の天気に関してはガスで、まったく景色が見えないか、
もしくは雨かもしれないが、それはそれでかまわない。
とにかく、4,506メートルの標高を経験したというだけで、
日本で自慢することが出来る。
日本で一番高い富士山の標高が3,776メートル。
それより730メートルも高い所にいくのだ。
妻と、酸素ボンベは必ず持って行く。
上の展望台(4,680メートル)には、
下りで何かあってはいけないので行かない。
気分が悪くなれば、すぐに引き返す。
という、約束で行くことになった。

麗江市内で1本30元の酸素ボンベを2本レンタルし、
いざ『玉龍雪山』に出発!
途中に木で作られた料金所あった。
その前に張さんが、
「これを着ないと怒られる」
と民族衣装を取り出し、上着だけを羽織った。
そう言われてみたら、麗江古城のガイドは、みんな民族衣装を着ていた。
ちょっとムカっと来たが、ガイドたちの着ていた民族衣装はナシ族のもの。
張さんは漢民族なのだ。
どうせなら、民族衣装を着た若くて綺麗な張さんにガイドをして欲しかったが、
どこかで、漢民族のプライドがあってナシ族の民族衣装を着なかったのだろう。

この料金所でも、日本製の障害者手帳が発揮。
半額で通ることが出来た。
実は、落としたり泥棒にあったりしては困るので、
もって行ったのは、障害者手帳のカラーコピーを
プラスチックケースに入れたものである。

左手に『玉龍雪山』を見ながら、広い草原の中を走っていくと、
高いトーテムポールを屋根に作った建物が見えてきた。
ここで、専用バスに乗り換える。
運転手の夏さんとここで別れ、3人でバスに乗り込む。
ここでも日本製障害者手帳のコピーが威力を発揮し、
並んでいる人の横の、従業員用通路を通り、
バスも降りやすいように一番前の席に優先に座らせて頂いた。

細く舗装はされている道を15分ほど乗ると、ロープーウェイ乗り場に着いた。
海抜3356メートルと書いてある。ここから4506メートルの終点まで、
一気にのぼるのだ。全長2968メートル、高低差は1150メートルである。
まず、心と身体の準備の為、トイレに行って用を足し、ロープーウェイ乗り場に行ったら、
すごい数の人が行列を作っている。
張さんが、日本の障害者手帳が使えるか聞いてくると、乗り場受付に行った。
少しして、ニコッと帰ってくる。OKなのだ。
張さんは、最初は私たちふたりで行ってくださいと言っていたのだが、
障害者介護の為に同行しなければいけないそうだ。
並んでいる人の話を聞くと、10時から3時間待っているらしい。
係りの人がやって来て、従業員専用の通路を案内され、
6人用のロープーウェイに、私たち3人と中国人2人が乗り込む。

20分間の空中遊覧の旅。
妻も、同乗した中国人熟年カップルも
うわぁ~~~」「すごぉい~~~」(と言ってたと思う?)
の連発である。
7月は雪が融けてないと聞いていたが、上の方には氷河が残っている。
北半球最南端にある現代海洋氷河(詳しくは知りません)だそうだ。
山頂には、ガスがかかっているが、時おり風に飛ばされ
標高5596メートルの最高峰「扇子峰」が顔をだす。
未だ登頂に成功した人がないそうだ。

終点に到着。レストランや売店を抜け、外に出る。
標高4,506メートル初体験である。
標高4,680メートルまで、登山道が整備され、たくさんの人が歩いている。
妻が私のことを心配し、酸素ボンベの用意をし、
景色に見とれながらも、不安な表情だ。
少し先に4506と書かれた石碑がある。
そこまで歩くことにした。

やはり、身体が普通ではない。
空気が薄いより、麻痺側の手足が急な気圧の変化に順応できず、
歩くのにチカラが入らないように思える。
最悪の状態を考えて、早くも酸素ボンベを使う
やはり山は良い!
妻には悪いが、麗江などのように人間が創作し造ったものもすばらしいが、
自然界が何万年もかけて創り出したものの方に、私は憧れ、魅了される。
自然の前では、人間が造ったものがちっぽけに感じてしまうのだ。

景色を堪能し、写真を撮る。

写真1 写真2 写真3

石碑から20メートルほど行ったところに、
氷河が見やすいように展望台が作ってある。
「せっかくだから二人で写真を撮ろう」
と妻が、レンタルのダウンコートを着たロマンスグレーの男性に
「写真を撮ってください」
とお願いした。
気持ちよくOKしてくれシャッターを押してくれた。
2~3枚写真を撮ってその場を離れようとしたら、
写真を撮ってくれた人と同じダウンコートを着た女性が
「今、写真を撮ってくれたのは、麗江の市長ですよ」

知らなかった!
と言っても麗江の市長の顔など知っているはずもないのだが、
一緒に写真を撮っておけば良かったとか、
名刺を渡せば良かったとか、後で悔やまれる。

麗江市長が撮った写真

1時間ほどの初体験ゾーンを後に、
ロープーウェイで下界に戻ることにした。
私の持っていた酸素ボンベが無くなったのだ。
妻は無事、下界に帰ることが出来て喜んでいるようだった。
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雲南省旅行記(22)

2006-09-20 | 雲南省旅行記
午後6時に大理を車で出発し、3時間から3時間半で麗江に到着、
そのままホテルにチェックインすると言う予定だ。
最初の30分は、洱海と蒼山を見ながらのドライブだが、
それ以降は、広くゆったりとした高原や山道ばかりだ。
農作業の帰りの人たちが、背中に竹で編んだ大きな籠をかつぎ歩く風景や、
犬を1匹従え、山羊を何十匹も連れて家路に帰る人。
放し飼いの牛を、小ぶりの馬に乗って集めている人など、
観光地化されたものでなく、雲南の人々の日常生活に、
一部ではあるが見ることが出来た。
もちろん車の窓から見える景色のどれもがすばらしく感動的だ。
7時半を廻った頃から日が傾きだした。
山の奥のほうにまでぽつりぽつりと、
小さな小屋とも家とも呼べる建物に明かりが灯る。
夏さんに何をする為の小屋か聞いてみた。
低い声で、ゆっくりと話をしだした。
「雲南省は、漢方薬のたくさん取れる所とか、
 山菜やキノコなどが豊富にあると聞いたでしょ。
 それらを取って生活している人たちの家です。
 電気やガスも無い所で生活をしているのですよ・・・」
この辺は、イ族の男性が町から流れてきた小屋が多いそうだ。
夏さんから、現実の少数民族の暮らしを聞くことが出来た。
今でこそ雲南省は観光ブームにのり、少数民族の人たちも、
少しは観光産業に従事する人が増えたが、
若い女性や一部の男性だけである。
歳を取った少数民族の人たちは、文化レベルの違いや、
言語の違いで工場やその他の職に付く事が出来ず、
山に入って山菜や漢方薬を取る事しか出来ない人がたくさんいる。
それも、開拓や観光地化が進みどんどんと奥の方に追いやられて行く。
朝早くから夜遅くまで収穫をしても、安い値段でしか引き取ってくれない。

何処の国や世界でもよくある話なのだが、
では、日本の裕福な生活をしている人はすべて幸せなのか?
と考えたら、山奥で電気やガスが無くても幸せな人はいると思う。
ただ、現実には電気やガス、そしてお金があった方が、生活は楽だろう。

日が沈みきって街灯も対向車も無い、
真っ暗な道路を走っているとき、夏さんがぽつりぽつりとしゃべり出した。
「昔は会社でトラックの運転手をしていたが、
 7年前に倒産してしまい、
仕事を探しても見つからなく、
妻のパートだけで生活していて、
子供も大きくなってきて、
思い切って4年前、
ローンでこの車を買ったけど、
給料は安いし、
もうだいぶん傷んで来て、
ローンが終わったら、
またローンで車を買わないと・・・」

生活にまで私たちは立ち入る気は無いが、
奥さんと子供の為にがんばってるんだなぁ。
というのは分かる。

それから夏さんは、私たちが退屈しないようにか、
自分が眠たくならないようにかは分からないが、
若いころは歴史が大好きだったそうで、
雲南省の雑学的歴史の話をたくさんしてくれた。

麗江空港の標識が見え出した。
20分ほどでホテルに着くと言う。
麗江も新市街地区と古城地区に分かれていて、
私たちのホテルは新市街地区にあると言う。
古城地区の夜景は綺麗で有名なので、これから行きますか?
と言われたが、すでに夜の10時前と遅くなったので、
ホテルに直行するようにお願いした。
ホテルには、張さんと言う、髪の毛が長く、
若い女性が私たちを待っていた。
「明日の出発は8時です。ロビーで待っていてください」
「夏さんはどうするのですか?」
返事をしないで知らん顔をしていた。
たぶん、今夜は車の中で眠るのだろう。
私たちもそれ以上は何も言わず、部屋に向かった。

約束通り、7時55分に朝食を食べ、
チェックアウトを済まして、ロビーで待っていた。
8時前に夏さんは来たが、肝心の張さんが来ない。
8時5分になってホテルに来たが、
「今から朝食を食べるので少し待って・・・」
とレストランの朝食バイキングを食べに行ってしまった。
「今日はハズレだな!」
結局、夏さんの車に乗り込み、出発したのは8時30分だった。
予定では玉龍雪山に午前中行って、
午後から麗江古城に行く予定だったが、
玉龍雪山の午前中は混雑し、バスもロープーウェイも並んで時間がかかるので、
麗江古城に先に行くことにした。
ホテルから車で10分と近い距離にある。
入り口には大小の水車が二つゆっくりと廻っていた。
その横の壁には『世界文化遺産 麗江古城』と書いてある。
水車から先は水路が3つに分かれている。
麗江は800年ほど前に木(ムー)氏一族によって開発されたと言う。
石畳や水路などこの頃に造られたという。
凄いのは、夜になると水門を閉じ、
川の水位を上げ、水を道や広場に流して掃除をするという。
西から東へ少し傾斜していて、西の川からあふれ出た水は、
東の川に流れていくと言うのだ。
それが800年前から今でも続いていると言う。

私たちは、上(北)の方から見学することにした。
川に沿って石畳の道が続き、川向こうの家々には木の橋がかけられ、
独特な雰囲気が漂っている。
トンバ文字を書いた壁を越えると、「単騎千里を走る」と書かれた橋がある。
中国での高倉健は凄い人気だそうだ。
もう少し奥の方へ歩くと『四方街』と言う広場に出た。
張さんが
「2時間したらこの場所に来てください」
と言う。麗江古城の中心になるところで、
迷う心配はないと言う。
妻と二人で今度は南の方に歩き出した。
来たときは感じなかったが、観光客がどんどん増えてくる
お土産物屋も活気が出てくるのは良いが、
家々がすべてお土産物屋か喫茶店もしくは食堂である。
それも赤いちょうちんをぶら下げたり、民族衣装を着た若い女性が
喫茶店の客引きをしたりと観光地化が進みすぎ、期待はずれだ。
残念だが、これも時代の流れだろう。
お土産物屋が並んでいる通りに、有料公衆トイレがあった。
ここでも日本の障害者手帳を出そうとしたら、
「かまいません。どうぞ」
と無料で入らせてもらった。
中国の良いところである。
裏手の細い路地に入ると、川の水で洗濯している主婦や、
壁に挟まれた水路など、まだたくさんの風情が残っている。
今度は西の方の高くなった方へ行ってみた。
日本ではあまり見られなくなった練炭に七輪で料理をしている
ナシ族のおばあさんなどを見ることが出来た。
丘の中腹で、展望台のある喫茶店に入った。
『すばらしい!』
の一言だ。
まさに『甍の波』である。
昔日本でも、このような風景があったのだろうか。
時間を忘れて眺めていた。
妻がそろそろ時間だと言うので、四方街へむかって歩き出した

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雲南省旅行記(21)

2006-09-19 | 雲南省旅行記
20分ほど車で行くと、三つの高い塔が見えてきた。
大理での一番の観光名所、『崇聖寺三塔』である。
中央の一番高く、四角形で少し膨らみを持った塔を
『千尋塔』といい836年、大理が南詔国と呼ばれていた時代に、
建てられたそうだ。16層で高さが69メートルもあると言う。
その南北には10層の8角形の塔があり42メートルと、
『千尋塔』より少し低い。この2つの塔は200年ほど後の、
大理国時代に建てられたそうだ。
車を駐車場に止め、塔の下に行ってみた。
下から見上げると、今から1200年前に、
どのようにして、こんなに高い塔を造ったのか気になったので
ガイドの楊さんに聞いてみた。
「周りに砂で山を作ったのです。塔が高くなるごとに山を高くし、
最後に砂の山を取って完成です。
造るのに40年かかったと言われています」
良く観ると、三つの塔のどれかが傾いている。
少し離れて見ると、低い二つの塔が傾いている。
この辺りは地震が多く、その為に傾いたと言う。
1978年には、大補修工事がされ今に至っていると言う。

三塔の裏手から電動バスに乗り『崇聖寺』に向かった。
天気が良く、三塔・洱海との景色がすばらしいので
途中から階段で上ることにした。
崇聖寺は戦乱や地震などで破壊されていた為、
最近になって、新しく造られたらしい。
凄く大きく、立派なお寺である。
「こんど来る機会があれば母も連れてこよう。絶対に喜ぶぞ!
 でも階段は無理かな? そのときはバスもあるし・・・」
などと、妻と話をしながら階段を登った。
階段も横に20~30メートルもある石段で、
大きな門がいくつもあり、その左右対称にお堂などが建てられている。
日本のお寺より、色がたくさん使われ、派手な造りだ。
あまり人気が無いのだろうか、観光客がまばらにしか見えない。
不思議と階段を上りながら、じっくりとお寺を見学しているのは、
中国以外の外国人が多い。私たちもそうだが。
その途中で、赤く大きな蝋燭(ろうそく)を買いお参りする所があった。
いちばん小さい蝋燭が3本セットで5元。それでも25センチはある。
妻と一つずつ買い、2本は左右対称のお堂に1本ずつ。
残りの1本はその上の本堂でお参りするときに使えば、
いちばんご利益があるという。
一番上の本堂まで着いた。
本堂の左手に少し小さなお堂がある。
中には黒く変色した木造の像があり、
記憶があやむやだが、このお寺を建てた人らしい。
お寺の一番うえから望む洱海の眺めは格別である。
天気が良く心地よい風が吹き、美味しい空気が、
いっそう展望をすばらしいものにしてくれる。

写真1  写真2  写真3  写真4

帰りは電動バスで帰る。
普通の人は、障害者は上りが不便と思っている人がほとんどだが、
私の足は下る方が苦手だ。確かに疲労や疲れは上りの方が辛いが、
身体機能面では下りの方がしんどい。
電動バスで崇聖寺三塔公園まで下り、
途中で池に写った三塔をバックに写真を取り、
再び電動バスで駐車場に向かった。

車で5分ほど走ると大理古城に着いた。
古い瓦葺の屋根のお土産物屋がならんでいるが、
ほとんどの屋根がゆがんでいたり、屋根から雑草が生えたりしている。
綺麗に石で敷き詰められた道路を歩くと、『五華楼』という、
大理古城の中心にあたる建物が見えてきた。数年前に復元されたが、
かっては1万人もの人を収容したこともあるという建物だ。
南の方へお土産屋のたくさん並んでいる道を歩いていると、
5メートルは城壁と、真ん中に『大理』と書かれた大きな城門があった。
門の前にはたくさんの花が植えられ、雲南省らしい雰囲気をだしている。
ここが私たち夫婦の大理観光の終着地だ。

これから、車で麗江へ向かう。
時間は夕方の5時前だ。
楊さんが携帯で、運転手の夏さんを呼んでいるようだ。
どこか近くで待っていたのだろうか、5分もかからないうちにやってきた。
大理古城から南に車で10分ほど行き、夕食を食べてから
私たちの宿泊したホテルのある大理市に行って楊さんを降ろして出発だ。
妻が名残惜しく、楊さんと話をしている。
残り時間も、あとわずかしかないので、通訳なしでふたり話をしてもらった。
後で妻から聞いた話だが、彼女は大学の観光科を卒業しガイドをしているそうだ。
そういわれてみると、私たちの観光コースの、一つひとつがスムーズに、
上手く廻っていて、小さな気遣いがよく伝わってきていた。
良いガイドと別れるのは、本当に寂しい気持ちになってしまう。

彼女の知り合いの店で夕食を食べた。
メニューは昼食と同じような感じだが
『砂鍋魚』にトマトや豚肉なども入ってとても美味しい。
大理の地ビールを1本呑んで食事が終わった。
いよいよお別れである。

店の前に止めてあった車に、ふたりで乗り込んだ。
「また今度、大理に遊びに来ます。
その時も、楊さんがガイドしてね」
妻の楊さんへの最後の言葉だった。
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