18切符も、今日でスタンプ欄はいっぱいになる。
首尾よく期間内に5枚使い切ることになりそうだ。
今日は東へ。
ということは車で向かう先は共和駅やね。
最後のスタンプを押してもらい、東海道本線乗継の後、何度目かの藤枝駅下車。
何だかすっかり目に馴染んできた風景だけど、予定通りなら今日が見納めだ。
しずてつジャストラインのバスに乗換、前回の終了地点は「丸子橋入口」なんだけどね、得意の下りをちょっと駆け足で走っちゃったこともあって、何となく気になるからね、その手前、道の駅「宇津ノ谷峠」すぐ前の「宇津ノ谷入口」停留所で降り、ここから走り出すことにした。
4km弱、重複になるのかな?
まぁ、走ればたいした時間じゃないしね。
前回よりスローペース、キロ6分ぐらいでのんびり周囲を見ながら、前回のゴール地点、丁子屋に到着。
江戸から続くとろろ汁の名店中の名店なだけに、多くの街道ウォーカーが食事休憩を兼ねて立ち寄ってるんだけど、トレーニングとして走っているコスモタイガー、残念ながら食の楽しみはゴール後に取っておく。
ということで今回も丁子屋は寄らず、素通り。
やがて左側に、丸子(まりこ)宿本陣跡。
信号の手前に丸子一里塚跡の小さな石碑。
そのまま交差点を直進。
少し進んで右に静岡銀行丸子支店があり、交差点で左右に分岐しているけれど、ここは左を選択。
つまり県道208号線をそのまま進む形やね。
「佐渡」交差点で国1に吸収されるけど、次の「手越原」という五叉路の交差点で再び左斜めに分岐。
どんどん住宅や店舗が増えてきて、確実に市街地に入ってきていることがわかる。
右側に「高林寺」があるのが目印かな。
庭の手入れが行き届き、綺麗なお寺だ。
安倍川橋を渡る。
ここに橋が架かったのも明治になってから。
人足が基本だったらしい。
橋を渡り終わってすぐ、「安倍川義夫の碑」。
戦前の小学校の教科書には掲載されていたらしい、正直な人夫さんの話。
財布を落とした旅人を追って、宇津ノ谷峠まで追いかけ、旅人に返したってことだそうな。
「落とした本人に返しただけのこと」と、礼金を固辞し続けた人夫さん、お礼ができず困った旅人さん。
仕方なく?奉行所が人夫に褒美を与えたとさ。
せめて宇津ノ谷峠往復の手間賃ぐらいありがたく戴けば良いのにね。
ここから宇津ノ谷峠まで追いかけるなんて、かなり大変だったろうに。
そしてまた、お礼ができないからと奉行所にいちいち届ける旅人さんもつくづく律儀な人やね。
なーんて考える俺の心は汚れちゃってるね。
すぐに右側に何やら古めかしいたたずまいの商店が。
「甘味処石部屋(せきべや)」。(写真)
あの有名な、あべかわ餅の、老舗中の老舗で、創業は1804(文化元)年。
これまた寄りたいのは山々だけど、今、真面目に走ってる最中です、はい。
楽しいことだらけの旧街道ランだけど、難点があるとすれば「食」に関してはあまり楽しめないことかな。
一応、練習の一環だしね。
ランの途中でガッツリ食べるわけにいかないし。
それに汗だくの状態で飲食店に入るのも失礼な気がする。
走り終わって着替え兼休憩してからじゃないと、のんびり食事(軽食含)できる心境にはなれないのさ。
石部屋の前で道は分岐してるけど、広い県道を「本通り」、狭い旧道を「新通り」と呼ぶらしい。
東海道は狭い旧道の方。
この新通りをしばらく直進。
前方に人だかり。
またまたお祭りに出くわした。
ついこの間、島田宿で遭遇したばかりなのに…。(旧東海道編22参照)
良く会うね~。
そういえばさらにその前、浜松宿でもたくさんの山車を見たような。
どうしたことか、妙にお祭りに遭遇するね~。(旧東海道編12参照)
祭りをまたまた搔き分け、新通りをひた走る。
「梅屋町」に入ってきた。
すでに間違いなく府中宿に入ってるね。
府中の「府」は言うまでもなく、駿府のこと。
文字どおり、駿河の国の中心だね。
「静岡」は明治以降の呼称だ。
城下町でもある府中宿、ご多分にもれず右折左折を繰返し、少々ややこしい。
左にタクシー会社があるからそこを右折。
2本目を左折。
七間町の交差点を直進。
伊勢丹の大きな建物があり、この交差点に「札の辻」の大きな石碑がある。
ここを右折するのが東海道だけど、ちょっと寄り道。
直進し、静岡県庁を見に行く。
大通りの向こう側に県庁、ふと脇を見ると「駿府町奉行所跡」。
再び札の辻の交差点に戻って東海道へ復帰。
今度は「呉服町」の交差点を左折。
するとすぐに「江川町」という、バカでかい五叉交差点に出る。
右側角に、某電話会社のビルがある。
ここを右折なんだけど、鋭角に曲がって某電話会社ビル前の広い道を行くのは×。
1本左の、若干狭めの道が東海道らしい。
左手にショッピングセンタ-?のような建物があるから、それが目印。
この道は、現代では伝馬町通りと呼ばれているらしい。
ビル街に埋もれるように「西郷・山岡会見碑」がある。
幕末の時代、ここで西郷隆盛と山岡鉄舟が会見し、後の江戸城無血開城につながったわけだね。
すぐそばに本陣・脇本陣跡の碑がこれまた目立たないけど建っている。
今じゃ県都静岡の繁華街の真っ只中、往時の面影は皆無に近いけど、かつてこの辺りが府中宿の中心だったことがかろうじて偲ばれる。
バスではかなりお世話になっている静岡鉄道、その御本家の鉄道線が左から近づいてきたら、国1に合流する。
「春日1」という交差点で、左側少し離れて静鉄の春日町駅がある。
ここは斜めに横切ってそのまま直進。
すぐに今度は東海道本線(&新幹線)をくぐり、左にカーブし、そのまま東海道本線に沿う形で走る。
これといった見所はないけれど、都会の中にありながら、街道らしさを残している。
すぐに立体交差する小さな橋がある。
ここで東海道は残念ながら消失。
左に緩やかにカーブし、少し先にある東海道本線東静岡駅の敷地内を通っていたと思われる。
消失ついで?に、今日はここでゴールとする。
なんやかんやで結構走ったしね。
20km弱ぐらいかな?
このまま東海道ランを続けるなら、立体交差を左に降りて、再度東海道本線をくぐり、静鉄柚木駅前を通っていく形になる。
柚木駅から静鉄利用することもかなり考えたけれどね。
静鉄は未体験だし。
でも折角の18切符だからね、直進すればすぐ東海道本線「東静岡駅」だしね。
それに旧東海道の真上にある駅構内に足を踏み入れれば、少しでも消失部分を歩いた気にもなるし。
ということで、直進し、行き止まりをコの字に迂回すれば、(走って)5分少々で東静岡駅に無事到着。
元々ここは広大な敷地を要する貨物駅だったからね、それを平成10年に新駅として開業したため、駅周辺は妙にだだっ広い感がある。
さぁ、ここからまた共和駅まで、東海道本線乗継で戻るだけだ。
※2015.2.4追記 地図、完成しました。(ここをクリック)
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/21e42fe9c038902efb1d9afd8598de20
> 静岡「西郷・山岡会見碑」・・・ここで西郷隆盛と山岡鉄舟が会見し、後の江戸城無血開城につながったわけだね。
『勝海舟』子母沢寛著に、そのときの様子が描かれていました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9943f5562f99e4825031ff23b8d15148
iinaも吉良町を訪ねています。そのときのコメント投稿で、楽母さんが次の「いろはうた」を教えてくれました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d3a37c8f6b3a1fe09723d546d86040a4
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせす
七文字ごとに区切ります。
いろはにほへと ちるぬるをわか よたれそつねな らむうゐのおく やまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
区切った末尾を拾って読み繋げると、『とかなくてしす』=『咎なくて死す』 となりますょ。
そういえばありました、そんな碑が!
この東海道を走るまで、全然知らなかった話ですが、戦前には教科書に掲載されていたとか。
こんな素敵な話であれば、まさに「義」のある話と思えます。
自分でもここまで律義になれるか、自信ありません。
「西郷・山岡会見碑」は、静岡市の官庁街の真っただ中にビルに隠れるように佇んでいたことを思い出します。
詳しく読んだことはないので、貴重なお話、ありがとうございます。
吉良の街、訪問済みだったのですね!
これは要らぬおせっかいのような話になり、失礼いたしました。
色は匂えど~、のイロハ歌に、そんな暗号?が隠されていたとは!
気付きませんでした。
でも時系列で考えると、イロハ歌自体は、11世紀初めにはあったとされているようですからね。
まさかイロハ歌の作者が、江戸中期の赤穂という一地区の「討ち入り話」を予知して作った、とも考えづらい。
でも7文字ごとに規則正しく…というのも何やら不気味ではありますね。
作者本人は、その当時あった他の事件のことを仄めかしたつもり、かもしれません。
仮名手本忠臣蔵でわざわざ引用されたということは、この7文字区切りを知っていて、「赤穂浪士達は咎なくて死んだんだ」と言いたかったのかもしれませんね。
でもそれなら、「咎なくて突然背後から襲われたのは吉良さんの方だよ」と突っ込みたくなりますけどね(笑)。
多くの方が楽しまれている「忠臣蔵」自体を否定するつもりはありません。
ドラマとして割り切ればそれなりに面白い話だとは思います。
大河ドラマにもなりましたし。
ただし、これは史実とは別物。
吉良の街で「名君」として扱われていること、そしてそれを示す史跡等もいくつかあることを完全スルーして一方的に悪者にすることなど、地元の方にも失礼ですし、歴史的な考証としてあり得ないのでは?と思ったりします。