cosmotiger発信!!

日本一脚の速い「鉄ちゃん」を目指します!
時刻表検定1級
10km33:04、フルマラソン2:46:31

コスモタイガー漂走記~旧中山道編(12)

2013-12-26 | 旧中山道run!!

もう梅雨に入ったのかな?
朝から小雨がぱらついている。
もっとも、天気予報によると、午前中には止むらしい。
まぁ、夏の暑い日差しをまともに受けるよりは、これぐらいの方が走りやすいかな?

2回に渡って利用した「ドニチエコ切符」も、(旧街道ランとしては)前回で終了。
帰路も考えると、鳴海駅まで自転車が良さそうだ。

雨が止むのを待ち、少し遅めに家を出る。
名鉄を乗り継ぎ、今日も広見線の旅を楽しみつつ、「御嵩」駅に到着したのは、13時近かった。

前述(旧中山道編11)の通り、ここまでの中山道、「摺針峠」(旧中山道編5)「うとう峠」(旧中山道編10)など、局所的な峠越えはあったけど、全体的に平坦だった。
でもここからは、一気に山岳路となるようだ。
自販機もない山の中を、延々と上って下ってを繰り返すらしい。

しばしお付き合いいただいた名鉄も、この御嵩でお別れ、ここからの交通機関は、地域循環バスが部分的に走る程度で、事実上無しに近い。
この先、主要交通機関と巡り合うのは、ここ御嵩から30km以上離れた、JR中央本線(西線)「恵那」駅となる。

平坦ならちょっと頑張って恵那(中山道的には大井宿)まで走ろうと決断できるけれど、何せひたすら起伏の連続で、しかもトータルでは上っていることになり、かなりハードな道程が予想される。

とりあえず恵那まで行くつもりで、途中でコースアウトすることも想定してリサーチしておいた。
旧街道ラン初の給水対策(といっても、500mlのペットボトルをリュックに入れただけだけど)をし、いざトレーニングスタート!

駅前をそのまま直進するのが中山道。
「願興寺」は前回訪問済みだから省略し、先へ進む。

前回見学した「中山道みたけ館」。
併設の図書館には中山道関連の書籍も多く揃い、ぜひ再訪したかったけど、出発を遅らせたことも考慮し、ここも省略。

すぐ先には本陣跡。
その隣はかつての旅籠、「竹屋」が資料館として保存されている。

1つ1つ丁寧に見て回りたい気持ちは山々なんだけど、頭の中には「恵那まで30km超」があるからね、先を急ぐことにする。
それに、今、まじめにトレーニング中だから!(出た!毎度のセリフ)

案内表示も整備されているし、一応、この道は県道341号にも指定されているようだから、この県道に沿って走れば問題はない。

表示に従い、県道に沿って左折。
やがて国道21号に合流し、そのまま右に折れて走る。

しばらくは国21を走る。
「長岡」の信号もそのまま直進し、道なりに進む。
(※2013年現在、21号可児御嵩バイパスが完成し、この先「井尻」の交差点で合流するようだ)

やがて左側、あぜ道のようなところから少し奥に入ると、「和泉式部廟所」。
平安時代の代表的歌人だけど、ここに眠っているらしい。
もっともこれまた諸説あり、和泉式部の墓とされる場所は全国各地にあるんだけどね。

小さな川を渡り、県道358を左折。
さぁ、いよいよここからが山岳路だ!
周囲は、一気に農村風景になってきた。

そしてこれが醒ヶ井宿辺りから続いてきた、国21との永遠の別れ。(旧中山道編5参照)
21号さん、長らく目安として先導してくれて、ありがとう。

この先、案内板は整備されているけれど、見落としに注意。
すぐの道を右折。
またすぐ左折。

くねくねした道の突き当たりを左に折れ、すぐに右に分岐するのが中山道。
ここから先、案内板に従うしかなく、細かな道のりを文章にするのは難しいな。

途中に馬頭観音があり、その先でまた右折し、山の中に入っていく。
道路も狭くなり、未舗装となる。
厳しい上り坂は、「牛の鼻欠け坂」。
牛車で登ると、先導の牛の鼻が欠けてしまうほどの坂、ということらしい。
もっともこれは通称で、正式には「西洞坂」だそうな。

いったんアスファルト道に出て左。
すでに周囲には、人家すらまばらな状況だ。

300mほどで「耳神社」
名前の通り、耳の病気にご利益あるらしい。

そこから400mほど先で、右に分岐し、山の中に入っていくのが中山道やね。
さらにもう一回右折し、再び山中の未舗装路に入る。

すぐに石畳となり、激しい登りは「謡(うとう)坂」。
謡坂の石畳として、整備されているんだけど、厳しい登りにさらされ、楽しむ余裕はない。
すでに汗ダクダクだ。

途中、「聖母マリア像 左」の案内板。
こんなところにマリア様?
キリスト教の信者じゃないけどさ、ちょっと気になり、寄り道する。。

石畳から左にはずれ、案内板に従って広いアスファルト道に出ると、目的のマリア像の前に出た。。
この像自体は、1987(昭和62)年製ということで、特段珍しくもないけれど。

実はここ、隠れキリシタンの墓地なのだ。
1981(昭和55)年、道路工事の際、地中からたくさんの十字架が発見されたとか。
それらの十字架や五輪塔をまとめ、記念碑として建てられたのがマリア像、ということらしい。
京~江戸を結ぶ主要街道でありながら、東海道に比べりゃ人目に付きづらい中山道。
貧しい農村で、密かにキリスト教が信じられていたんだね~。

いや~、しんどいはずなのに、楽しいなぁ。
正直、京~御嵩までは、平坦部分が多いため、どこか東海道とかぶる部分もあったけどさ。
(特に草津までは重複区間だしね~)
ここに来て、「隠れキリシタン」の影響もあってか、明らかに今までとは違う「匂い」がある。

石畳に戻り、再び上り坂を走る。
登りきって右の方に行ったところが、十本木茶屋跡。
こんな田舎にかつては茶屋が並んでいたらしい。

すぐ先には両側に「十本木一里塚」で、塚のみが復元されている。

さらに進み、広いアスファルト道に合流、すぐに小さなお地蔵さんと湧水がsetになっている。
「一呑の清水」と言われたらしいが、現在は飲用不可。

ここでアスファルト道は左にカーブするけれど、直進する形で狭い道を入っていく。
再び未舗装だけど。

しばらくは静かな山中、ひたすら登りを走る。
右側には今度は「唄清水」。
山深いながら、昔から清水が湧き出て、旅人達の喉を潤してたんだね。

ここも同様に、飲用不可らしいけれど、水質が落ちたのか?
あるいは現代の日本人が過敏すぎるのか?

突然、何やらオシャレなケーキ屋さんが現れ、ビックリするけれど、目印にはなる。

途中、御殿場跡の説明板。
皇女和宮様がここで休息したから。

休息といっても、その辺に茣蓙(ござ)敷いて弁当食べて…じゃないからね。
それは我々下々の発想。
事前にここで休息することが決まってて、ちゃんとしたお屋敷(御殿)を作ったのさ。
だから御殿場なのだ。

峠を1つ越えたらしく、少しづつ下りながら山中をくねくねと走り続け、パッと開けたところが「津橋」集落。
一応五叉路になっている。

標識に従い、左斜めのアスファルト道を選択。
現代でもこの辺りの集落を結ぶ主要道の位置づけらしく、県道65号に指定されているようだ。
しばらくは国21に代わる、旅のお供となる。

津橋集落の中心と思われる交差点に出た。
ここには「津橋北」のバス停もあるけれど、御嵩町により運航されている「ふれあい予約バス」なるもので、1日8本、利用者から予約があった場合のみ、タクシー車両によって、運航されるらしい。

興味はあるけれど、まだトレーニングとしては全然距離足りないし、本数も少ないから、予定通り素通り。

県道65は左折のようだけど、中山道はそのまま直進し、未舗装のクロカン道となり、激しい上り坂。
「ふじあげ坂」というらしい。

「山内嘉助屋敷跡」なる史跡が案内されているけれど、ごめん、誰それ?
よく分かんないからパス!

もはや車の心配もない。
完全な林の中のハイキングコース状態で、絶好のクロカントレーニングにはなってるはずだけど。
案内表示の見落としだけは注意しないとね。

やがて3つに分かれる地点に。
ここは真ん中の道を選択。

マイナスイオンたっぷり、汗もたっぷり、こりゃ、きついね~。
どれほど山中を彷徨った?だろう。

どうやら瑞浪市に入ったらしい。
すぐに正面にゴルフ場が見え、その手前にあるのが「鴻巣一里塚」。
両側とも現存する貴重な史跡だ。

相変わらず、クロカンコースをひたすら走る。
起伏もあって距離感つかみにくいけれど、600mぐらいかな?
道は3つに別れる。

真ん中が中山道。
案内板によれば、右の道は「鎌倉街道」らしい。

瑞浪市に入ってから、少し道が広くなった気がする。
実は瑞浪市、中山道に力を入れているらしく、市域内の中山道には、案内板も比較的整備されている。
しかも変に舗装したりせず、ハイキングコースとして自然を保ちつつ、というのが嬉しい。

下りに入ると足は快調。
もともと「下り」の選手だからさ。

何やら左手に石垣のようなものが。
「秋葉坂三尊」といって、石室が3室並び、中にはそれぞれ1体づつの石仏がおさめられているとか。

県道65に合流し、そのまま下り坂を走る。
久しぶりに人家が密集した集落に出る。
平岩集落ということらしい。

県道366号と交わるところに、この辺りでは唯一の個人商店(雑貨屋?)&自販機がある。
ペットボトルのお茶にも飽きてきたから、ここで缶ジュースを購入。
うまい!!

すぐに分岐があって、ここは左の狭い方が県道65&中山道だ。
しばらくは県道65をそのまま走る。

この一帯は集落も途切れ、見所もないけれど、何といっても静かな山間の集落をのどかに走るから、実に気持ち良い。
細かな起伏も気にならない。

と思ったら、また別の集落に遭遇。
ここが中山道「細久手宿」だ。

残念ながら、本陣・脇本陣も、跡地を示す標柱が建つのみで、宿場町らしさは失われているけれど、1軒だけ、目玉がある。

左手にいかにも風格ある和風家屋が見えてきた。
「大黒屋旅館」。

元々は、旅籠だったんだけど、尾張藩が参勤交代の際、他の藩と一緒になるのを嫌い、ここを尾張藩専用の常宿としたんだね。
だから旅籠ながら別格扱いで、「尾張藩本陣」と称されるようになった。

現在も旅館として営業を続けており、宿泊して連続で中山道を歩く人などには良く利用されているらしい。

東海道赤坂宿の大橋屋を思い出すなぁ。(旧東海道編4参照)
もっとも、周囲の風景は、こっちの方が圧倒的に上だけど。

コスモタイガーも尾張人の端くれとして、いつか堂々と?泊ってみたい!
でもさ、今はトレーニング中だしね。
そもそも旧街道ランで、宿泊は考えてないのさ。(中山道編0参照)

金銭的事情もさることながら、背負って走る荷物が多くなりすぎる。
「歩く」のとはちょっと事情が違うんだよね。

200mほどで高札場跡。
ここも案内板が建つのみ。

細久手宿はこじんまりした宿場町だったらしく、この辺りで早々と人家が途切れ、右手に工場を見ながら、県道は山中に入っていく。

こんな山の中、何やら場違いな車のエンジン音が聞こえてくる。
「ブンブン」とかなり噴かしてるようだし。
実は左手、山の上の方に、「瑞浪モーターランド」という、サーキット場があるらしい。

しばらく山中を走ると、両側に大きな塚が。
「奥之田一里塚」。
ここも当時のまま現存している。

先述のように、瑞浪市は中山道を大切にしているらしく、市内にある4つの一里塚も、当時のままの姿を残すべく、保存・整備に尽力しているのだ。

2km以上、何もない山中を走る。
自分以外には誰もいない。
サーキット場の音も遠のき、静かさが戻ってきた。

小さな池がある。
「弁天池」というらしく、池の中には弁財天もある。

200mほど先で、道は2手に分岐。
実はこの辺りの中山道は、東海自然歩道とコースが同一になってるんだけど、ここで東海自然歩道は、左の小道を行くように案内している。
雰囲気的にもいかにも旧道らしいから、うっかりその表示に従ってしまいそうだけど、中山道はあくまでもこのまま県道を直進。
1kmほど走って「天神」のバス停があったら正解だ。

変則4叉路で、左側から来た東海自然歩道と再び合流。
500mほどで、再び2手に分岐。
ここで県道から外れて、左を選択する。

またまた未舗装の山道の始まりだ。
ほとんど草の道で、足には優しいけれど。
そしてもう何度目かわからないぐらいの登り坂。
「琵琶峠」の入口らしい。

すぐに石畳となった。
ここも「琵琶峠の石畳」として整備されている。(冒頭写真)

実は長い間、土に埋もれていたところ、1970(昭和45)年に発見され、見事に復元されている。
その距離約600mで、日本一の規模らしい。

視界は一面緑に囲まれ、風景に綺麗に溶け込み、見事な石畳だ!

その途中にあるのが、「八瀬沢一里塚」。
瑞浪市に入って3つ目、ここも綺麗に保存・整備されている。

登りきると、琵琶峠の頂上。
標高540m、中山道美濃路としては、最高地点らしい。
もっとも、周囲は大きな木に囲まれ、見通しは全然だけど。

今度は石畳を降りて行く形になり、高度を下げて県道に再び合流。
今度は右手に大きな建築物が。
大湫(おおくて)病院と書いてある。
名前からして、次の大湫宿が近いことがわかる。

ちょっと進むと、左手崖に沿って、大きな岩が続けざまに2つある。
それぞれ、烏帽子岩、母衣岩と云い、まとめて2つ岩と称するらしい。

すぐ、左に分岐。
でも200mぐらいでまたすぐに県道に合流。

さらに400m弱、ゆるやかに左にカーブすると、T字路に差し掛かる。
左側には、復元された高札場が見える。

実はここが大湫宿の入口。
当然、このまま直進するのが中山道。

恵那までの道のりの、ちょうど中間点ぐらいなんだけど。
でもさ、時計を見るとすでに16時近い。
ここまでで実走距離も多分18~19kmという感じかな?
でも終始、起伏ばかり走ってたイメージだし、半分ぐらいはトレイルランのような状況だったから、距離以上に足が疲れている感じがする。

途中でコースアウトできるとしたら、ここが唯一の地点なのさ。
このT字路、県道65号は右に折れ、坂を一気に下り、3.5kmほど先にある最寄り?のJR中央本線釜戸駅に繋がっている。
(ちなみに直進の中山道は、ここから県道394ということになるらしい)

一応、この大湫地区にも、瑞浪市の地域循環バスがあるらしいけれど、完全に地元民対象のダイヤで、朝の通勤通学時に1本あるだけ!で、無いに等しい。

うーむ、今から恵那目指すのは、ちょっと時間的にも体力的にも厳しいか?
それにここからの中山道の方が、さらに厳しいトレイル状態が続くらしいし。

幸い、釜戸駅周辺は、若干の土地勘もあるので、今日はここでコースアウト決定!
右に折れ、そのまま県道65を一気に下る。

車も通行する普通の舗装路ながら、一気にふもとの「釜戸駅」を目指すため、急激な下りが延々と続く。
コスモタイガーとしては、得意な状況ながら、調子に乗ると膝痛めるからね、フォームチェックしながらペースアップ!

下りきったところで中央自動車道をくぐり、すぐに国道19号に到達。
ここから「JR釜戸駅」を示す案内板を頼りに狭い生活道路を走ると、すぐに「釜戸」駅に出た。

本日、ここをゴールとする。
実走は、最後の下りも含めて、22~23kmぐらいかな?

実はここ釜戸駅、コスモタイガーにとっては、思い出深い場所で、駅舎や周辺を見るととても懐かしい気分になってしまう。
ゆっくり散策したい気持ちは山々なんだけど、電車の時刻が迫ってるし、ちょいとお疲れ状態で、体が付いていかない。
駅前散策は次回に任せて、今日はすぐの電車で帰ることにしよう。

さて、釜戸駅は、大幹線「中央本線」の駅。
快速(といっても多治見までは事実上各駅停車)に乗って、「金山」駅まで約1時間、そこで名鉄名古屋本線に乗り換えれば、鳴海駅まではすぐ。

まだ明るいうちに鳴海駅に到着できたのは嬉しいけれど、そのわりには、旧街道ラン久々のボリュームに、お疲れモードのコスモタイガーなのであった。

コメント (6)
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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(11)

2013-12-10 | 旧中山道run!!

5月末になり、夏の足音もすでに近い。
とはいえ、今日は曇天で、逆に走りやすい天候だ。

これまた前回同様、ドニチエコ切符利用で上小田井駅到着。
名鉄犬山線・JR高山本線を利用、要するに前回の帰宅ルートの反対を辿って、坂祝駅に到着したのは、正午を過ぎたころ。
最近、近いせいか、朝のんびりする癖がついちゃったね~。

駅前の静かさは、3週間前と変わっていない。
写真だけ撮り、さっそく本日のトレーニングをスタート!!

駅前の道を南下、「取組」の交差点で中山道(国21)に出た。
前回ここで打ち切った、並走する堤防道路(日本ラインロマンティック街道)に駆け上がり、続きを走ることにする。

右手に木曽川が流れる。
この木曽川が県境でね、その向こうに連なる山々は、何を隠そう、我が尾張国(愛知県)だ。
この辺り、中山道から、唯一愛知県が眼前に見える場所らしい。

500mほどで堤防道路が狭くなる。
「遊歩道」として整備されているのは、ここまでなのかな?
ここら辺りで、下の国21に降りておこう。

坂祝町役場を左に見て、すぐにガソリンスタンドがある。
ここを超えたすぐ、右手の空き地に、「取組一里塚跡」。
白く、細い木柱に、「一里塚跡」と書かれているだけ。
しかも鉄柵の奥にあるため、よほど気にしていないと、通り過ぎてしまいそうだ。

やがて左に見えてきた、大きな工場は、三菱自動車工場。
パジェロを作っているらしい。

国21runはまだしばらく続く。
やがて、国道21は、緩やかに左にカーブするけれど、江戸期の中山道は、ここは直線だったらしい。
現代では、そんな道は存在していないため、仕方なくそのまま国21を走り、歩道橋を過ぎたすぐの道(怪しげなホテルの手前)を右折し、またすぐに左折すると、旧中山道が復活するらしい。
何のことはない、さっきの堤防道路に戻った感はあるけれど。

約1kmぐらい、この堤防道路を再び走るようだ。
地元の方の散策路にもなっているようで、犬の散歩にすれ違ったりする。

帰宅後調べたところ、この辺り、かつては何度も木曽川の決壊に悩まされ、たび重なる堤防工事が行われたらしい。
旧街道らしくない光景が続くのはそのためなんだね。

道案内もなく、ちょっと不安になるし、実際随分と迷っちゃったけど、左手堤防下に神社が見えたら階段を降りるのが無難なようだ。

「深田神社」というらしいけど、その左側を通り、国21に出る。

すぐに右に分岐する道があるから、そこを右折。
やっと少しだけ街道らしくなってきた。

左手に太田小学校があり、ここがかつての代官所跡と示されている。
ちなみにここ太田宿は、美濃の領地内ながら、尾張藩の管轄だったらしく、よって、尾張藩の代官所ということになる。

国道41号バイパスが頭上に見え、その下をくぐって直進なんだけど、その直前の右側が木曽川の堤防で、そこを駆け上がると、「虚空蔵堂」。
古くから信仰を集め、太田宿の西側の入り口とされていたらしい。

バイパスの下を通り、直進すると、すぐに道は90度左に折れる。
枡型やね。

さらに200mほどで十字路になっていて、ここに道標がある。
「右関上有知 左西京伊勢」の記述。
ここから北へ行けば、関市の方に行くんだね。

この十字路を右折(東へ)。
本格的に、太田宿の中心に入ってきたようだ。

実はコスモタイガー、ここは3度目の訪問だ。
いずれも随分前に、車で途中休憩を兼ねてのもの。

飛騨金山町(現在、下呂市)でのレース(飛騨金山清流マラソン:当時は30km)の帰りに1度。

もう1回は、毎年夏恒例の某ランニングチームの合宿で、初日に飛騨金山町の30kmコースを走るんだけど、仕事の都合か何かで、初日のみ参加での帰路、ここに寄り道した記憶がある。

金山町から国道41号を南下してくると、ちょうど疲れる頃にこの辺りを通過するからさ、「それならちょっと」が2回あったわけなんだけど。
ブラブラ散歩には実に適した静かな宿場町なのだ。

その頃には41号バイパスはまだ開通してなかった気がするけれど、それ以外は当時と変わらぬ静かな家並みが佇んでいる。

まもなく左に見えてくるのが、本陣跡。
現在は、わずかに門を残すのみ。

ほんの少し先に、脇本陣林家住宅。
こちらは現在も、「林さん」が住居として利用している現役の建物だ。
国の重要文化財にも指定されているらしい。

さらに進むと、旧小松屋吉田家住宅。
こちらは無料休憩所として開放されている。

そのすぐ隣が、太田宿の象徴、「祐泉寺」。
1474(文明6)年建立ということだから、相当な歴史があるらしい。

この辺りまでが太田宿ということらしい。
しばらくはうねりを残す道に沿って走る。

「神明堂」の変則交差点。
ここでコスモタイガー、つい勢い?で直進してしまった。
すぐに気付いてここまで戻る。

よく見ると何やら道標が。
「右 東京善光寺 左 飛騨高山」。
ここは飛騨街道との分岐点、つまり追分ということらしい。

まぁ、「東京」なんて出てくる以上、道標そのものは明治になってからのものであることは間違いないけどさ。
左前方、国21から分岐する道がいかにも、らしき雰囲気だけど、これは飛騨高山方面へ、つまり飛騨街道ってことやね。
帰宅後、地図を再確認すると、なるほどこの道は、JR高山本線に沿って、延々とうねりながら続いている。

中山道は「東京」に向かうからね、右折して堤防に再び上がるのが正解らしい。
天理教の教会を左に見て、再び堤防道路を走ることになる。

木曽川に沿って、左にカーブしつつ、堤防道路が続く。
しばし、単調だ。
これといったチェックポイントもない。

そのまま行くと、「御門町」の交差点に出るけれど。
その前にチェックポイントが1つ。
少し手前で堤防道路から河岸に降りてみる。

この辺り、かつての「太田の渡し」。
中山道はここで舟に乗り、対岸に渡ったんだね。
こんな河岸に?と不思議な気がするけれど、わずかばかり、渡し場跡の石畳も残っている。

「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくば良い」とも詠われた中山道。
激流の多い木曽川は、増水などの影響も多々あり、なかなか思ったように通行できなかったらしく、中山道有数の難所とされていたらしい。

頭上には、これから渡る「太田橋」。
この橋が完成したのが、1927(昭和2)年。
これに伴い、渡船は廃止された。

さて、堤防道路に再度登り、先を急ごう。
「御門町」の交差点経由で、太田橋を渡る。
そりゃまぁ、橋があるなら、大半はそっちを選ぶよね。
残念ながら現代では、交通量が多く、しかも歩道が設けられていないため、かなり走りにくいけど。

で、橋を渡りきると、「太田の渡し」の対岸、「今渡の渡し跡」の記念碑が建っている。
でもさ、左を見ると、かの有名な「日本ライン下り」の乗船場がある。
まさに現代版、「今渡の渡し」だ。
コスモタイガーも、中学生のころかな?
家族で楽しんだ思い出がある。

この「日本ライン下り」、始まったのは昭和初期とされている。

橋の完成は、多くの庶民にとっては万々歳!なわけなんだけど。
まぁ、いつの時代にも、この手の話には必ず裏の面もあってさ、当然、船頭さんたちは職を失うわけだよね。

いつまでも家でブラブラしてる訳にもいかないし、何とか雇用確保を!
ふと見ると、この辺り、「日本ライン」と呼ばれる景勝地。
(ネットやTV等の情報のない時代に)新聞に紹介されたり、国の名勝に指定されるなどの追い風も吹きだした。

そこで、船頭さんたちを中心とした有志により、観光を目的とした、「太田遊覧組合」が設立された。
これが現在の「日本ライン下り」に至っているのだ。

まぁ、早い話、「日本ライン下り」は、船頭さんたちの失業対策に端を発しているというわけだ。
だから、「今渡の渡し」のすぐ隣に、ライン下りの乗り場があるのは、ある意味、当然の流れとも云える。

そのまま直進すると、右からやってきた狭い道と合流する。
実はこの合流してきた道も、かつての中山道なのだ。

中山道は当初、鵜沼宿で木曽川を渡って(鵜沼の渡し)、尾張国に入り、現在の日本モンキーパーク辺りを通過し、名鉄広見線「善師野」駅近くを通り、可児市土田集落を経由し、この地点に出てたんだね。
つまり、さっき走ったばかりの太田宿はもちろん、前回走った「うとう峠」も、当初は中山道のルートじゃなかったことになるね。

中山道は「山岳路線」のため、災害等の影響を受けやすく、たびたび修築・付替を余儀なくされている。
なかには大がかりな付替工事もあり、1641(寛永18)年のそれは、この辺りのルートを一変させるものだったらしい。

この付替工事により、太田宿は正式に宿場になり、物資や人の流れも一気にこっちが主流になったことは容易に推測できるけど、それまでは土田集落が宿場だったんだね(土田宿)。

コスモタイガーもこの辺のルート選定、迷ったんだけどさ、やっぱり旧街道を語る上で、基本は「中山道69次」なわけだし、当然69次には「太田宿」が入ってるしね。
大半の資料も、太田宿経由で記述されているし。
結局、江戸中~末期の最新の?中山道を尊重することにしたのさ。

ところで、この切り捨てられた方の中山道、どうなっちゃったの?
特に土田宿の皆さん、困ったんじゃないの?
本陣・脇本陣等の体裁も整えたわけだし、維持もしていかなきゃならないし。
そう、そういうところに気付くと歴史は楽しくなるね~。
でも長くなるからその話はまたの機会やね。

「今渡の渡し」跡に話を戻すと、正確には木曽川の河原に降りたところにあったらしく、こちらも少しだけ、石畳が残っているとか。
気になるので、右折して、そのもう一つの中山道を西に200mほど走り、右折して降りていく。

左手に弘法堂が祀られており、さらに降りるとあっけなく河原に出たけどね、たいした感動もなく、さっきの合流地点に戻る。
左手に、小さな神社があるのが目印だ。

さて、ここからしばらくは、リサーチによれば、ほとんどチェックポイントはない。
郊外の住宅街を粛々と走る感じらしい。

「住吉」の交差点で、国21を横断し、そのまま直進。
そのまま走ってると、左側に大きな市場が見えてきて、その名も「加茂公設市場」の信号で、国道21号バイパスに吸収される。

実はコスモタイガー、手元に用意した資料が古かったらしく、このバイパスが存在しない。
まるっきり地図上と違う風景に、かなり戸惑う。

どうやら、元々あった道をかなり拡張したらしく、結局このバイパスがそのまま中山道だと判断し、先に進むことにした。

1km以上、つまらない国道run。
やがて道は左右に分岐。
どっちも国21らしいけど、バイパスは右。
左の国21(旧道)が、中山道らしい。

相変わらず単調な風景が続くけれど、左手に「上恵土神社」「弘法堂」が続けざまにあり、少しだけ、旧街道を思わせる形になってきた。

「上恵土」の交差点を直進。
うねった感がわずかに旧街道を思わせるものの、国道21号だけあって、それなりの交通量もあり、「静か」とは言い難い。

「伏見」の交差点に到着。
南北に交わる道も、かなりの旧道らしい。
古い道標が立つ。
 「右 御嵩」「左 兼山 八百津」。

文字通り、伏見宿に入ったらしいけれど、残念ながら、宿場を思わせるものは皆無に近い。
この辺り、中山道=国21だしね。

まぁ、良く言えば、早い時代から国道の利便性に気付き、中山道をそのまま「車仕様」にし、車社会に対応した、ということになるけれど。
今となっては、車だけがビュンビュン通り過ぎる、ちょっと寂しい感じの集落になっている。

唯一の見所は、200mほど走った所、右側に、「御嵩町伏見分館」があり、その前がかつての「本陣跡」。
石碑が眠るように建っている。

この辺りには、少しだけ古い家屋が残り、わずかながら宿場町の雰囲気を残している。

標識もないし、もともと宿場の雰囲気もないからね~、どこがそうなのか判然としないけれど、たぶん伏見宿はあっけなく通り過ぎたんだろうね。

「高倉口」の交差点を渡り、歩道橋を過ぎて100mほどで、左の小道に入っていくのが正解らしい。
視線を足元に降ろすと、小さな道標がある。
「右 御嶽宿 左 伏見宿」。
やっと、静かな道に出て、ホッとする。

すぐに小さな十字路。
ここは右折。

1kmぐらいは、この曲がりくねった小道とお付き合い。
途中、東海環状自動車道の下をくぐり、再び国21に合流。
この合流地点にあるのが、「比衣一里塚跡」。
走ってると見落としてしまいそうな、小さな碑が建っている。

途中、左手に石碑を発見!
「顔戸(ごうど)城跡」。
応仁の乱の頃、美濃守護代、斎藤氏により築かれたとあるから、随分と古い城跡だ。
奥の方に入ってゆっくり探検したいけど、中山道を優先!
写真だけ撮って先へ行く。

そこから約200m、再び左の小道に入るものの、500mほどでまた国21へ。
しばらく走ると、左手にサークルK!
何だか久しぶりにコンビニを見た気がする。

その先、ガソリンスタンドを超えると、「鬼首塚遺跡」。
説明板があり、長々と由緒書きしてある。

まぁ、要するに、この辺りには鬼が住んでて、大暴れしていたらしい。
その鬼の親分格を退治した際、ここに首を埋めたんだね。

中山道からは外れるけど、この先、国21を東にひたすら行けば「鬼岩公園」があるしね。
そこは、その鬼たちの棲み家だったとされる。

いや、もちろん伝説でね、鬼に例えただけで、実際には、強盗狼藉を働く悪党たちだったのかもしれないけど。

「中」の交差点に出る。
ここを右折。

昔、そういう名前のドラゴンズの監督、居たなぁ。
結果、ショボかったけど。

ここからは一転、旧街道の雰囲気を感じる静かな道になる。
常夜灯も残っている。

300mほど先、互い違いの小さな交差点に出る。
ここを左折。
すぐに右手に大きな建物が出現。
御嵩町役場中出張所らしい。

そのまま静かな町の中を走り、やや大きめの交差点に出る。
左手に「原写真館」があるのが目印だ。
ここを右折。

200mほどで、小さな駅に出る。
名鉄広見線の終着駅、「御嵩」駅に到着!(冒頭写真)
ここを予定通り、ゴールとする。

ここで中山道は90度左に折れ曲がり、いよいよ御嵩宿の中心に入っていくんだけど、それは次回以降のお楽しみやね。
時計はちょうど16時。

手元のSTOPWATCHによれば、のべ2時間以上走った勘定。
実走20km超というところかな?

駅前には大きなお寺がある。
「願興寺」。
御嵩宿を代表する史跡の1つだ。

ただ、この先150mほど先の中山道沿いにある「中山道みたけ館」の閉館時間が17時のため、まずはそちらを先にしよう。
ちなみにここがかつての脇本陣らしい。

入場無料で、御嵩宿の歴史を見学できるけど、閉館時間が近いからね、ササッと見学して終了。
でもまぁ、疲れを癒しつつ、良い気分転換になった。
時間あったら、次回、もう一度再訪しよう。

次、さっきの願興寺ね。
実はさっき出てきた鬼、ここで女装して出てきたところを捕えられたと言われている。
別名を蟹薬師と呼ばれ、古くから、御嵩の人々の信仰を集めてきた名刹らしい。
ちなみにこの「蟹」が、この辺りの郡や市に使われている「可児」に通じているとされる。

手を合わせて、今日の無事を報告。

さて、ここは前述(旧中山道編6参照)の通り、最初のターニングポイントだ!
ついにここまで来た!
現代の中山道run(あるいはwalk)では、1つの区切りとなる場所であることは間違いない。

なんだかんだ言いながら、ここまでの中山道は、平野部が大半で、穏やかなコースだった。
そしてここから先、これが同じ中山道かというぐらい、急激な山岳コースとなるらしい。
交通アクセスも一気に悪くなるし、場所によっては自販機すら見当たらない山中を走ることになるようだ。

特にこれから夏本番だしね~!
次回以降、しっかりリサーチし、給水対策も万全にして走ることにしよう!

さて、コスモタイガーの旅はまだ終わらない。
名鉄広見線が俺を待っている♪

広見線は、犬山駅~御嵩駅間22.3kmを結ぶ、名鉄のローカル線だ。
と云っても、中間にある新可児駅で全ての列車が乗換になってるからね、実質、犬山~新可児間の14.9kmと、新可児~御嵩間7.4kmに大別されるけど。

特に今から乗車する御嵩から新可児駅までは単線だし、名鉄らしからぬローカル色に溢れ、とても楽しみな区間だ。

当然ながら?赤字路線のため、何度も廃止の危機に陥っているが、周辺市町村の支援もあり、何とか続いてる状況だ。
(※2013年現在の情報では、2016年までの支援・存続は、とりあえず決まっているらしい)

途中の明智駅。
かつてここから出ていた「八百津線」。
可愛らしいレールパスがトコトコ走り、素敵なローカル線だったけれど、2001年に廃止されてしまった。
コスモタイガーも、随分前に乗車した記憶があるけれど、今となっては、残念たなぁ。

車窓からの風景を楽しみつつ、10分少々で、終点「新可児」駅到着。
ここで犬山行に乗換。

ちなみにここは、JR太多線「可児」駅との接続駅でもあり、駅前広場に出ると、両駅がLの字型に隣り合っている。

太多線で多治見経由も気にはなるけど、このまま名鉄を乗り通し、朝と同じく上小田井経由の方が便利だし、安いし。

犬山まで来ると、さすがに新鮮さはなく、旅行モードは実質終了。
あとは朝の逆コースでまっすぐ帰宅するのみだ。
コメント (4)
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