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コスモタイガー漂走記~旧東海道編(39)追記

2016-05-26 | 旧東海道run!!
旧東海道編39、のルート地図を作成しました。(ここをクリック

本編末尾からも入れます。
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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(36/最終回)

2016-05-16 | 旧中山道run!!

2011年7月26日。
今日は平日だ。
でもコスモタイガーは、代替で、今日は休み。

朝から曇天で、暑さは若干和らいでいる。
さぁ、中山道も残り約25km!
今日こそ、ラストランとしようか!

もう「鉄旅」の楽しみはないのも前回と同じ。
まずは毎度の前後駅に車を置き、名鉄→新幹線→京浜東北線と乗継、浦和駅に降り立ったのは13時少し前。

すぐに前回のゴール地点、「浦和駅西口」の交差点に移動。
5分も経たないうちに到着。

大都会の繁華街、というだけで、特筆すべきものは何もないけれど、記念にシャメだけ撮影。
といっても、前回のゴールとほとんど同じアングルだけど。

目の前のメインストリートは、国道463でもあるけれど、国道としてはここを右折して西へ向かう。
もちろん中山道はそのまま直進で、このまま県道213号。

まだ汗もかかないうちに、左に大きな森が出現。
都会の中のオアシスといった感じで、素敵な空間だ。

調(つき)神社。
「調」ってのは、今で云う税金のこと。
大化の改新によって、朝廷により新しい税制が敷かれねそれを租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)としたんだよね。
学校の歴史の授業なら、1学期の内容だったはす。
その調を奉納するための場所ってことなんだろうね。

そしてもう1つの特徴は、神社なのに鳥居がないということらしい。
だから予備知識がないと、お寺と勘違いしてしまいそうだ。

手を合わせて、無事の完全走破を祈願しておく。

ただ道なりに走ってるだけなんだけど、いつの間にか片側1車線になり、県道からもはずれたらしい。

右手に南浦和小学校を見ながら、下り坂となる。
焼米坂と名が付いているらしい。
江戸からだとかなりの登りになり、かつては茶屋が多く並んでいたとされている。

そのまま道に沿って走ると、「六辻」の交差点で、国17と交わる。
名前の通り、ややこしい交差点で、そのまま国道を横断し、すぐに左折するのが中山道。

いかにもクネクネとカーブしてるから、久し振りに街道らしさを感じ取れたりする。

国道298に出た。
その上を、東京外環自動車道という、名古屋人には馴染みのない高速道路が通ってるから、その下を潜って直進。

潜ったすぐの団地の片隅に建っているのが、一里塚の碑。
辻一里塚と称されたらしいけれど、今は碑が残るのみ。

前回から続いたさいたま市をようやく脱出。
蕨市に入ってすぐ、左手に春日神社と宝蔵寺が並んでいる。
江戸から近いにも関わらず、ここには明治政府の、神仏分離令の影響はなかったのかな?などと思ったりする。

そしてここからは県道79号線。
「錦町3」の信号で再び国17を横断。
その渡ったところにあるのが蕨宿上方木戸跡。
要するに、ここから蕨宿ってことさ。

道なりに右にカーブし、南進する形。
国17に添う形となった。

次の信号の名前が「中山道蕨宿本陣跡」
丁寧かつそのまんまの判りやすい名前だね。

で、その名の通りの史跡がすぐに出現。
蕨宿は本陣が2軒あったとされるが、こちらは一の本陣と称された、岡田加兵衛本陣跡。
その隣は歴史資料館となっている。

残念ながら、反対側(左手)にあったとされる二の本陣(岡田五郎兵衛本陣)は、現在残っていない。

そのまま道なりに走る。
「錦町1丁目」で国17に合流。
ここが蕨宿江戸方木戸跡。
ここで宿場は終了ね。

200mも走れば、そこはもう戸田市との市境。
あっけないね、蕨市。

しばし、国道run。
ここは見どころもなく、徒歩旅なら単調だろうなぁ。

1.5km弱。
「本町」の交差点。

多くの資料は、このまま国道を走れとなっているけれど、コスモタイガーのリサーチした資料の中には、この交差点の手前、左斜めの狭い道を指示するものがあった。
現地に来て、ここはその左斜めを信じたくなった。

要するに、国道の1本東の道を走るだけのことなんだけどね。
左右ともに大きなマンションに挟まれる感じだ。

どっちにしてもこの辺は街道を示すものはほとんどないんだけどね。
真相は、おそらく両方の道とも正解であり、不正解でもあるんだろう。
マンション建築に伴い、随分と整地されたというのが真相ではなかろうか。
実際の中山道は、くねくねと曲がりくねっていたはずだからね。

リサーチ資料を参考に、左手の巨大マンションを過ぎたところで右折し、国道に戻る。
「本町1丁目」の交差点名が、わずかに中山道を偲ばせる。

次の「川岸3丁目」の信号を左折。
さらに次の信号「川岸」で右折。

この辺りも、若干資料によって違いはあるものの、そもそもマンションに囲まれている状況で、街道らしき雰囲気自体皆無に近く、どこをどう走っても同じような感じではある。

そのまままっすぐに南下すると、左手に大きな工場があり、そこを過ぎたら小さな川を渡る。
下を流れるのは荒川の支流、「菖蒲川」と証するようだ。

そうそう、とりあえずこの橋を渡ることだけは、どの資料も共通しているから、ここは間違いなく中山道なんだろう。

堤防道路にぶち当たると、その手前左手にある祠が「水神社」。
やっと中山道であることが確認できた。

そして堤防を上がったところが「戸田の渡し跡」。
かつてはここから目の前の荒川を舟で渡っていたんだね。

現在、ここには舟も橋もない。
右折して、堤防下の小道を走り、線路の下をくぐり、さらに階段を上がると、国17に戻る。
そこから大河となっている「荒川」を渡るんだよね。

「戸田橋」ね。
そしてここが、埼玉県と東京都の境。
そう、中山道runもついに、最後の都道府県「東京都」へ入ったのだ!

渡り終わってすぐ、左下に下りていく階段があるから、そこから降りる。
この川下の道が、旧中山道の名残らしい。
といっても、約150mぐらいですぐに国道に吸収されちゃうけれど。

すぐに「舟渡」の信号があった。
戸田の渡の対岸だからね、この交差点名は納得のネーミングだ。

ここを左折すると、埼京線「浮間舟渡」の駅は近いんだけど、もちろんコスモタイガーはゴールまで迷わず進む。

再び国道run。
1km以上続く。

「志村坂下」の信号から約100m。
左に静かに分岐する道が中山道。

首都東京にありながら、この道は意外にも静かで走りやすい。
街道らしき雰囲気を感じ取りながら、足を進める。

大きな変則交差点に出て、再び国17.
歩道橋に上がると、この先の中山道が、今度は国17の反対側に隠れるように続いているのがわかる。

この辺りの雰囲気は、旧東海道の横浜市内に似てなくもない。(旧東海道編41参照)
上り坂を駆け上がると、線路のガード下をくぐる。
都営地下鉄三田線だ。

その先、ちょっとややこしいけどもむT字路になっていて、中山道は鋭角に左折するよう、案内されている。
ここには[清水坂」の表示板があった。
京都から来たコスモタイガーは、ここは一気に上る形なのだ。

でもこのT字路、まっすぐ進む道も雰囲気ありげな道で、結構気になったりする。
地図で確認すると、このままくねくねと続いており、首都高速の志村パーキングエリアまで辿り着けるんだね。

国17に合流した地点が[志村坂上」。
地下に潜ったばかりの三田線の駅もある。

そして左右両側にこんもりした小さな塚のようなものが見えてきた。
[志村一里塚」。
中山道では都内に唯一現存の、貴重な史跡となっている。

目の前の交差点名もそのまんま「志村一里塚」。
再び単調な国道runが続く。

「本蓮沼」の駅を過ぎると、右後方から首都高が近づき、国道にかぶさってくる。
そこから左に分岐する道が中山道だ。

ここからは一気に街道の面影残す、くねくね道となった。
走ってて飽きないねぇ。

都道318号、といっても馴染みないだろうけど、要するに環状7号、そう、東京の人には環7と呼ばれる幹線道路を渡った先、約200mのところにあるのが、[縁切り榎木」。

嫁入り・婿入りの行列がこの木の下を通ると、必ず不縁になったとされる。
信仰とはいえ、気味の悪い話ではある。

でも中山道といえば、和宮様の下向。
そう、徳川将軍家に嫁する際、中山道を通ったはず。
当然、この榎木の下も通ったんだよね。

どうやら説明板によれば、その際、榎を菰で包んで隠したということらしい。
隠しても通ったことには違いない気がするんだけど。
かといって、大行列だから、迂回もままならないしね。

さらに300mほど走れば、小さな橋を渡る。
欄干が木目調になっていて、中山道の雰囲気とマッチしている。
下の小川は石神井川。

この橋こそ、[板橋」。
鎌倉時代の古文書にもその名前があるとされ、実に由緒ある橋なのだ。

そしてこの橋の名が江戸期になってそのまま宿場名となり、明治になって町名に使われ、戦後になったら今度は区の名前にもなって、現在に至っている。

橋の名前がそのまま知名に…ということなら、旧東海道の「豊橋」を思い出すなぁ。(旧東海道編6参照)
まだあの頃は、こんな大掛かりな一大事業?になるなんて思ってもいなかったんだよね。

おっとっと、話を戻すと、この辺りから板橋宿。
その中心が仲宿と呼ばれ、まさに今走ってるところ。
左側にはいくつかのお寺も建っている。

都内という立地にも関わらず、宿場の雰囲気がそれなりに残っていて、街道フリークとしては嬉しい限り。
東海道の品川宿ほどじゃないけどさ、埼玉や神奈川より、都内の方が意外に昔の物が残っているんだなぁ。(旧東海道編42参照)

国17&首都高を斜めに横切る形で中山道は伸びている。
埼京線の板橋駅を右に見て、道なりに走る。

この辺は1本道。
迷いようがない。

[滝野川」というのがこの一帯の地名(町名)らしい。
この滝野川も、コスモタイガーの心に響く地名だ。
というのも、内田康夫作品には何度も登場しているから。
主人公、浅見光彦クンにとっては、超地元ってことなんだね。

[掘割」の信号で都道305号(というより明治通りというべきか?)を超えると、[巣鴨」。

鉄チャン的にも良い気分転換になるけれど、次に越える線路は都電荒川線。
[庚申塚」駅の脇を通る。

徐々に個人商店が増えてきた。
結構人通りも多く、ちょっと昔の繁華街の様相で、まさに「おばあちゃんの原宿」の面目躍如。

左手には、巣鴨の象徴とも云える、通称「とげぬき地蔵尊」。
正式には高岩寺と称するらしいけど、多分こっちの名前はほとんど知られていないんだろうな。

その先約100mで、国17に吸収され、そのまま国道を走れば、山手線巣鴨駅前となる。

山手線だよ、山手線。
名古屋からのお上りさんにとって、山手線なんて聞くと、完全に東京の真っ只中にいる心境。
すでに残り7kmを切り、いよいよ中山道もラストスパートだ!

当分は、この国17がそのまま中山道。
しばらくは見どころもない。

「白山下」の交差点が追分のように分岐しているけれど、中山道はそのまま左の国17を行く。
郵便局を超えたところにひっそりとあるのが大円寺。
別名を「ほうろく地蔵」。

懐かしい名前に巡り逢った!
ほうろく地蔵といえば、宮の渡しのすぐ近く、東海道と美濃路の追分にあった地蔵様を思い出す。(旧東海道編5、旧美濃路編1参照)

約1kmほどはそのまま国道run。
住宅や街道が並ぶだけで、街道らしき面影はない。

やがて都道455号ゅというより本郷通りと言った方がいいよね、絶対)と合流。
ここがいわゆる[本郷追分」。

本郷通りの方が日光御成街道ということになるんだね。
そしてここに、京都からだと最後になる[追分一里塚跡」の案内板が設置されている。
さぁ、あと約4kmだ!

すぐ南の信号が[本郷弥生」。
ここで左側の歩道に渡っておく。
目の前には、広大な敷地を擁する立派な建物が。


そう、ここが日本の最高学府、東京大学ね。
勉強嫌いなコスモタイガーにとっては、例え生まれ変わっても縁がなさそうな学校だけどね。

勉強といえば、とにかく理数系は大の苦手。
何かの模試で、200点満点で3点しか取れず、[全部同じ数字をマーキングしても、20点ぐらいは何とかなるはず、答知っててわざと間違えたんだろう!」と友人たちに失笑されたこともあった。
逆に社会や音楽は得意だったけど。

内申はともかく、音楽は筆記試験には全くといって良いほど関係なかったし。
(一応、4歳~高校2年途中までピアノ習ってたりするんだよね、コスモタイガーは)

社会なんて、無理やり?地理と歴史に分割された上に、配点が数学の半分しかない!
若かりしコスモタイガーは、これを理不尽と感じたりしたものだ。

まぁ、どんな受験制度になろうと、どっちみち最高学府には行けなかったけど(笑)。
ただ、今でも思うのは、[地理と歴史を分けて学ぶのはナンセンス」だということ。

このブログの冒頭でも書いたけど、そもそも歴史と地理は、密接な関係があって成立しているのだ。
その地域にはその地域の特有の歴史があり、その結果として、今の発展した町がある


名産品1つとっても、それが名産品となりうるためには、様々な歴史があるはずなのだ。
長野県の名産の1つが「りんご」、静岡県なら[お茶」。
丸暗記すれば、受験としての地理では点は取れるけど、なぜ[りんご」(あるいは「お茶」)なのかを調べれば、必然として、長野県や静岡県の歴史を勉強する必要に迫られる。
急に理由もなく、りんごやお茶の木が繁殖したわけじゃないしね。

歴史の面から見ても、[関ヶ原の合戦」とか[桶狭間の合戦」とか、出来事と年号だけを丸暗記しても楽しくないし
テストの点は取れても、そもそも関ヶ原や桶狭間の場所すら知らない、なんて人もいたりする。

誰と誰が合戦したのか。
その合戦がなぜ起きたのか。
なぜその場所じゃないといけなかったのか。
単なる丸暗記ではなく、「なぜ?」「なぜ?」を繰り返していけばいくほど、地理と歴史が密接に絡み合っているという当たり前のことに気付くのだ。

鉄道を語る人が、鉄道だけ忽然と詳しくなることは考えにくい。
自然と、都市名や県名を覚えることになるし、駅名だって[信濃大町」(大糸線)や、[飛騨古川」(高山本線)のように旧国名が入ってれば、自然と頭の中で県名と旧国名がリンクしてくるようになる。

東海道本線が、東京~神戸間と覚えるのは簡単だけど、そひの敷設ルートの大半が、旧東海道に沿っているのに、名古屋以西は、むしろ中山道に沿っている事実に、偏屈なコスモタイガーは疑問に思ったりする。
そしてそれを追求し始めると、必然的に鉄道の歴史、街道の成り立ちを知ることになる。

東海道本線に限らず、その町・そのエリアに鉄道が敷設されるには理由があり、自ずと旧街道の存在を知ることとなった。
まさに鉄道と旧街道は、表裏一体、無関係には語れないことに気付いたのさ。

おっとっと、勉強嫌いの言い訳が長くなってしまった。
中山道もあと少し!
先へと足を進めよう。

東大に沿ってそのまま南下。
すぐに朱色に染まった風格ある門に出会った。

これぞ[東大赤門」!

まさに東大のシンボルの1つなんだけど、歴史的には、旧加賀藩前田家上屋敷跡ってことになる。
そして赤門は、11代将軍家斉公の息女、溶(やす)姫が前田家に嫁した際に建立されたものだ。

そして広大な東大キャンパスをようやく通り過ぎ、[本郷三」の信号を渡ると、国17はそのまま左へカーブ。

右手やや奥まったところにある大きなビルは、順天堂大学病院。
続いて現れるのが、東京医科歯科大学と、その付属病院。
都心にもかかわらず、大きなキャンパスが並んでいるなんて、不思議な光景だ。

[湯島聖堂前」の交差点。
名前の通りの史跡が、右手前方にある。
元々は昌平坂学問所。
この辺りは昔から、学問の場所だったんだね。

道路の反対側の1本奥に入ると、「神田明神」という有名な神社もあるけれど、もう早くゴールしたいから、寄り道はやめておく。

「神田明神下」の信号も、国17に沿って右折。
すでに都内のど真中といった感じで、案内板もなく、間違えやすいけれど、むここで右折する国道から離れ、中山道はそのまま直進し、[昌平橋」を渡る。
この橋も、付け替えられてはいるけれど、元々は江戸中期に架けられたもの。

下を流れるのは神田川。
確かそんな名前の演歌があったような気がする。

渡り終えたら、大きな神田郵便局の前をすぐ左折。
100mほど、JR中央本線に沿って走り、道なりに進むと、再び国17に再会。
そのまま右側の歩道を進む。

さぁ、あとは直進あるのみ!
山手線のガードをくぐる。
頭上は神田駅。

国17はすでに街道らしさはなく、単なる幹線道路。
車がビュンビュン走ってるし、すれ違う人々は明らかにビジネスマンが多い。
平日に、首都東京の、しかも官公庁街のど真中を走ってるからね、当たり前のことなんだけど。

「室町3丁目」の交差点。
ここから国道の番号が17から4に変わるけど、中山道的にはただ直進するだけ。
もう残りは500mほどだ。

三越百貨店が見えたら、もうゴールはすぐそこだ。
前方に首都高速(都心環状線)の高架が見える。

そして…。
高架下に到着!
見覚えのある風景。(旧東海道編42参照)

そう、ここが江戸日本橋!
高速の下で薄暗い微妙な風景だけど、ここが正真正銘の中山道のゴール!!(冒頭写真)

3年前、東海道(53次)でゴールした日本橋。
今度は中山道のゴールとして、再びこの地に立つことになった。
長かった長かった中山道も、これにて完全走破!

東海道でも記念に撮影した日本国道路元標
3年前はレプリカに飽き足らず、道路の中心まで進出しちゃったけど、今日は2回目だからレプリカだけで充分。

終わった…。
長かった。
でも何だか寂しい。

時計を見ると、ほぼ想定どおり、まだ16時半を過ぎたところ。
中山道runのラストを飾るのは、東名高速バスと決めていた。
予定通りに乗れそうだ。
東京駅へと向かう。

東名高速バスと聞いて、一番最初に浮かぶのは、東京駅~名古屋駅間の特急バス。
でもそれだと車がとめてある前後駅まで戻る必要があって、非効率。

コスモタイガーの目的は・・・、その名も「知多シーガル号」。
名前の通り、知多半島の中心都市、半田市の玄関口、知多半田駅が終点の、JR関東運行の特急バスだ。
昼行1往復、夜行1往復。

昼行の下り[知多半田行」は、東京駅発17時40分。
駅弁と飲み物を買い込み、乗車。

東名高速~豊田ジャンクション~東海環状、と高速を走り、降りてからは、知立駅・刈谷駅の各停留所に停まり、その他主要停留所をいくつか停まりながら、終点の知多半田駅を目指す。

名古屋市民がなぜ知多半田行に?
そう、これも[名古屋市民だから名古屋駅行に乗る」という先入観を排除した結果なのさ。

コスモタイガーは知立駅で下車。
正確には知立駅から徒歩4へ5分ほどのリリオホール前。
目の前には、懐かしい旧東海道というシチュエーションも素晴しい。(旧東海道編1参照)

すでに22時近い。
疲れと充実感でお腹いっぱい。
まっすぐ帰ろう!

ここから名鉄名古屋本線の急行に乗車すれば、1駅、わずか5分ほどで、前後駅に到着。
朝、コインPに止めておいた車と無事再会だ。

下りに乗ったのは今日が初めてだけど、所用や観光で東京方面に行った際にも、過去3度ほど知立駅から利用した経験がある。
7時17分発で、少し早起きを要するけれど、乗ってしまえばあとはリクライニングシートに身を委ねるだけ。

この知多シーガル号、時刻表にも掲載ははあるが、途中のバス停は省かれているし、。行き先が知多半田行というのもあり、かなりの高速バス通でも意外にノーマークのようだけれど、名古屋市民でも南東部に住む人間には実に有効な手段なのだ。
もちろん時間に余裕があれば、の大前提はあるけれど。

コスモタイガーは名鉄利用だけど、JR利用、例えば大高駅や笠寺駅利用派なら、刈谷駅下車で東海道本線に乗れば良いわけで(もちろん行きはその逆)、同じ高速バスなら、名古屋駅方面に逆行するよりはるかに効率的なのだ。

当然、運賃も安い。
普通運賃で比較すると、東京~知立駅間4,700円、刈谷なら4,800円。
東京~名古屋駅間のバスは5,100円。
(※2011年7月現在、まだ消費税は5%♪。また、知多シーガル号は、2016年現在も、そのままの時刻で運行されているようです。)

早割とかネット割もあるようだけれど、どの方法でも知多シーガルの方が安いことは間違いない!

すでにこの時間になれば、道路もガラガラ。
前後駅からは約10分で自宅に到着。
23時を過ぎていた。

もう中山道に次回はない。
まだ東海道57次もあるし、旧街道run自体はまだまだ終わりそうにないけれど、江戸~京都間を結ぶ2大幹線を、4年4ヶ月かけて完全走破したことは間違いなく大きな区切り。

風呂入ってビールで乾杯!
といっても明日は普通に仕事。
充実感もそこそこに、そそくさと就寝したコスモタイガーであった。



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