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身近な気になる古道たち⑨

2013-09-18 | 身近な旧街道run!!

★名古屋市内の飯田街道(名古屋市中区丸の内~昭和区八事)


コスモタイガーの日々のトレーニングの基本は通勤ラン(帰宅ランというべきか?)。
まぁ、普通に広い幹線道路を走ることもないわけではないけれど。
やっぱり退屈でね。
結局、夜にもかかわらず、やっぱり1本裏の生活道路を走ったり、古道らしき道を探したりしてしまう。
幸い名古屋市内は、なんだかんだと街灯りもあって、「闇夜」というほどでもなく、それなりに楽しめる。

そんな中、通勤ランで多用しているのが旧「飯田街道」。
名前の通り、名古屋と長野県飯田市を結ぶ街道だ。
現在では、国道153号線を便宜的にこの名前で呼ぶこともあるけれど。
もちろんそれは「自動車」を前提にした話。

ところで、「飯田街道」は、明治以降の通称のようなもので、江戸時代には、「伊那街道」あるいは「三州街道」の方が一般的な呼び方だったようだ。

とはいえ、様々な文献やHPでも、すでに「飯田街道」が一般化しているため、このブログでもそれを踏襲したい。

さて、旧飯田街道の起点についてなんだけど。
これも資料やHPによってバラバラではっきりしない。
というより、資料や情報そのものが少ないんだよね。

そりゃそうだよね、東海道や中山道のような、大幹線じゃないからさ。
でもまぁ一応、通説としては、堀川沿いの「伝馬橋」が起点らしい。
ちょうど、中区と中村区の区界にもなっているようだ。

地下鉄桜通線「国際センター」駅。
地上に出ると、難解地名として名高い?「泥江(ひじえ)町」の交差点だ。
背後には、駅名にもなっている、国際センターの高層ビルが聳え立っている。
目の前を東西に走るのは「桜通」やね。

さて、交差点を良く見ると、その桜通りから、右斜めに分岐している道がある。
これが飯田街道の起点、伝馬橋へと繋がる旧道。

200m弱で、目的の伝馬橋に着いた。
ここからそのまま東に向かって、走ることになる。

国道19号を横切る。(信号のあるところまで迂回ね♪)
「伝馬町通本町」の交差点に出る。

ここが美濃路編2にも登場した、名古屋宿札の辻。
といっても、飲み屋・事務所、そして風俗店が軒を並べ、煌びやかなお姉さんたちの姿が目立つのみで、かつての宿場の面影は全くないけどね。

そりゃそうだ。
ここは現代では「錦3(きんさん)」と呼ばれる、東海地区随一の繁華街。
歴史を偲ぶには、ちょっと無理があるね。

100m道路として名高い、久屋大通に出て、テレビ塔の下を通る。
目立たないけど、注意しながら走ってると、ここに「蕉風発祥の地」なんて案内板がある。

要するに松尾芭蕉にゆかりがあるわけなんだけど、残念ながらコスモタイガー、そっち系は全く興味ない。
ただ、こんな都会のど真ん中、テレビ塔直下にこんなものがあることは驚きだよね。

そのまま久屋大通を渡り切ると、左手に東海地区では有名なチェーン店、「コメダ珈琲店」があり、この辺りで緩やかに右にカーブしている。

このまま南東に向かう形になる。
地図で確認すると、名古屋市の中心街、基本的に碁盤目状に道路が交差しているけれど、不自然に南東に傾いている道がある。
今まさに走っている「飯田街道」がそれだ。

富士中学校の前を通り、都市高速の高架下を斜めに横切る。
(ここも信号はないから、「高岳南」の交差点を渡ってね)

ビルや事務所ばかりが立ち並ぶ中、それでも所々に古い民家が残ってたり、お寺が現われたりして、かすかにここが旧街道であることをアピールしている。
案内表示もあるから、注意して走ってれば迷うことはない。

ただね、東西南北に規則正しく交わる街の中を、この道だけが斜めに突っ切るから、不思議な感覚にはなるよね。

「広小路葵」の交差点の南側、ここも斜めに行く道を選択。
ここから国道153号線と重複することになる。

左手には「雲竜フレックスビル」。
24階建で、コンサートホールもあるとかで、結構有名なビルだけど、元々は「雲竜山乾徳寺」という、飯田街道沿いの名刹だったんだね。

ここからしばらくは、この国153を、南東に走る。
菊里町でJR中央本線の下を潜る。

ここまで来ると、繁華街の雰囲気はなくなるけど、コンビニやファミレスなどがあり、車も人もそれなりに通っている。

「古井ノ坂」を過ぎ、若宮大通(こちらも代表的な100m道路やね)に出た。
かつてはこのまま直進してたんだけどね、この若宮大通により、寸断されている。

そのまま横断歩道を渡り、すぐに「吹上公園」の信号を左折すると、これまた斜めに分岐する道がある。
これが飯田街道やね。
右手に石仏も祀ってある。

ちなみに吹上公園の向こう側にある大きな建造物が、「吹上ホール」やね。
かつての刑務所の跡らしい。

環状線(この辺りでは阿由知通)を斜めに横断し、商店街に入っていくけれど、頭上のアーケードには「飯田街道」と大書してあって、実に明快だ。

この辺り、この飯田街道が区界になってるようで、左側が千種区、右側が昭和区だ。
右手に、またまたお地蔵さんがあり、狭い古道が分岐している。

歩道もなく、ちょっと走りづらいけど、夜ともなると交通量も減少し、気にはならない。

走り続けてしばらく、左手に森が見えてきた。
「川原神社」ね。

火除けの神様として、古くから信仰を集めているらしい。
境内には池があり、真ん中にある弁天様を「川名弁天」というらしい。
だから地下鉄最寄駅も「川名」なんだね。

川原通を横断し、そのまま直進。
両側には、整備された公園があり、ちょっと解放された気分になれる。

「山中」の交差点は五叉路で、左後方からやってきた国153に合流する。
ここからは国153を走ることになる。

さらに言うと、この道の下には「地下鉄鶴舞線」が走るから、アクセスには困ることはないから、安心だ。

400mほどで、道は左右に分岐。
国道153としてのメインは右側なんだけど、飯田街道は左ね。

名古屋市民にとっては馴染み深い「杁中」やね。
飯田街道側は正確には「杁中東」という交差点名になってるみたいだけど。

左には聖霊病院。
さらに左手住宅地を入っていくと、野球や駅伝の名門、「中京大中京高校」、さらにその奥には「南山大学」。
逆に右奥には、南山中学・高校もあり、現代では学生や若者も多く行き交う街に発展している。

さて、再び国153に合流し、今度は右手に大きな池があり、公園として整備されている。
「隼人池」やね。

元々は江戸初期に、犬山城主の成瀬隼人正によって、農業用に造成された、ため池なのさ。
だから「隼人池」なんだね。

すぐに左側、「八事山興正(こうしょう)寺」。
五重塔は有名で、国の重要文化財に指定されている。

元々は、尾張藩2代藩主光友公が母の供養のために建立したとか。
それを代々尾張藩主が大切に保護してきたわけなんだけど。

特に厚く信仰したのが、7代藩主宗春公やね。
宗春といえば、8代将軍吉宗(旧東海道編31参照)の最大のライバルとして立ちはだかり、尾張名古屋を大きく発展させた、最大の功労者だ。

当時、江戸・大坂(現大阪)に次ぐのは、京都・金沢と云われていて、名古屋は格下の尾張の地方都市。
それが、いつの間にか、三大都市というと、東京・大阪・名古屋、みたいなランク付になったけど。
これは間違いなく、宗春さんの功績だ。
宗春さんがいなかったら、我が愛する「中日ドラゴンズ」も存在しなかったに違いない。

そんな彼の著書、「温知政要」は、宗春自らが政治理念を著したもので、コスモタイガーの自宅の本棚にも並んでいる。

江戸中期の、政治理念をめぐっての大バトル!
「吉宗vs宗春」は、大河ドラマにもなったけど、尾張人としての贔屓目もあるかもしれないけれど、コスモタイガーは、やっぱり宗春側を支持してしまう。

歴史上の著名人の中で、コスモタイガーが超大好きな人物の1人だし、数々の小説やドラマにもなるぐらいだから、書き出すと止まらなくなってしまいそうだ。
この辺にしておこう。

この興正時の裏山にも、散策コースが整備されているけれど、さすがにこんな時間からそこを走るのは厳しいな。

右に大型ショッピングセンターがあり、「八事」の交差点に出た。
ここで飯田街道は、いったん国153から外れ、地下鉄八事駅2番出口の横から愛知銀行の前を通る脇道となる。
でも今日の飯田街道runは、ここで終了。

通勤ランはまだ続くんだけどね。
飯田街道をはずれ、「島田」方面に向かって走り、帰途に付くコスモタイガーなのだ。
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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(6)

2013-09-05 | 旧中山道run!!

肌寒く、曇天の2月。

1か月近く開いたのを利用して、再び今後の中山道ランを予定してみる。
繰り返しになってしまうけど、中山道は東海道のように好き勝手に?スタート・ゴールするわけにはいかないのだ。
近江路は、中山道全体からすると、極めて交通機関に恵まれたエリアなのだ。

中山道は、東海道とは比べ物にならないほど山中を走るため、利用できる交通機関に著しく制約があり、変なところで無計画にゴールにすると、交通機関も宿泊施設もなく、路頭に迷うことになり、シャレにもならない結果になってしまう。

中山道を走る(歩く)上で、全体を見渡すと、「こことここは絶対にはずせない」という拠点がいくつかあることに気づく。
その1つが美濃路の御嵩宿。
名鉄なら「御嵩駅」やね。

名鉄広見線の終着駅で、鉄チャンとしても絶対にはずせないけれど、中山道的にも、ここは重要な地点なのだ。

ここを最後に、中山道は急激に山中となり、30km以上先の大井宿(中央本線恵那駅)までは、延々と登り下りを繰り返す。
その間、1日数本の路線バスの停留所をたま~に目にする程度で、鉄道にめぐり合うことはない。
(京→江戸に向かう場合)御嵩宿は、現代では、中山道最初のターニングポイントなのだ。

多少の微調整はあるものの、のちのち御嵩宿できっちりゴールできるよう、バランスを考え、計画的に走ることが求められる。

大高駅に車を置き、前回ゴールの醒ヶ井駅を目指す。
今日のゴールは、予定では関ヶ原駅だ。

今回、利用する交通機関は、東海道本線のみ。
鉄チャン要素は0。
ついに費用は、青空フリーの2,500円のみとなった。

どうも近いと気が抜けちゃってね。
朝、家でのんびりし過ぎちゃった上に、途中で軽食を取ったりして、すでに時計は12時半を過ぎている。
さっそくトレーニング開始!!
南下し、すぐに名神高速手前の十字路に出る。
前回のゴール地点やね。

前回、後ろ髪をひかれた、うねり道が左に延びている。
迷わず左折し、その道を走る。
道標もあり、迷いはない。
右には名神高速が見えている。

案内板に従って走っていると、見えてくるのが「西行水」「泡子塚」。
名前の通り、西行法師にまつわる史跡らしい。
西行法師がここを通った時に一目惚れした娘が、法師の飲み残したお茶を飲んだら妊娠したという、すでにこれだけで怪しい話だからね。

帰路に法師がその子を見て、歌を詠んだら、泡となって消えたとか。
いや、絶対にウラのある話に違いない。
あんまりdeepなこと、考えないでおこう。

都会では珍しくなった八百屋さんで、駅から来るショートカット道と合流する。
ちょっと寄り道して、このショートカット道を駅の方に戻ると、大正モダン風な建物が。
真ん前にある、円筒形の郵便ポストも懐かしさを覚えるね。

かつての醒ヶ井郵便局舎で、現在は資料館になっている。

醒ヶ井宿の当時を偲びながら、しばし、見学し、時間を過ごす。

ちょいと長い休憩になっちゃった。
さて、中山道に戻ろう。

再び八百屋前で合流し、そのまま中山道を進む。
この辺りから、本格的に「醒ヶ井宿」が始まる。

いいねぇ、醒ヶ井宿。
どっちかっていうと小振りな宿場町なんだけど、何といってもこの宿場の特徴は、水が綺麗なこと。
道の右手には、お堀があり、清水が流れている。

名物は「梅花藻」(ばいかも)。
今は冬だから無理だけど、6月末~9月上旬にかけて、お堀を綺麗な花でいっぱいにするらしい。

清水でなければ繁殖しないらしいからね、見れば本当に透明で、素晴らしく綺麗な水だ。
観光地化されていないため、人通りも少なく、静かな町並みが続いている。(冒頭写真)

左側には古くから営んでいる醤油屋さん。
水がいいからね、醤油もおいしいらしい。

右手堀の向こう側に「問屋場跡」。
ここも資料館として開放されているらしいけれど、先に進みたいし、何よりこの落ち着いた風景こそ、資料館そのものだ。

「樋口山」という割烹料理屋さんが、かつての本陣跡らしい。
その先に進むと、「居醒の清水」。

ここが源泉だ。
あふれ出る清水、そのまま飲んで、ちょっと給水。
うまい!!

この辺りで醒ヶ井宿は終了かな。
素敵な町並みだな~、ぜひ再訪し、ゆっくり見学したい!

(※この後、2012年、2013年と、続けて再訪。嫁も気に入ってくれたようです、醒ヶ井宿)

くねくねした道は、やがて国21に合流するけれど、その50mほど手前の、小さな十字路を右折するのが正解。
そのまま道なりに走る。

左に八幡神社を見て、国21に吸収される。
そのまま走ること500mぐらいかな?
左手に何やら怪しげなホテルが。

ここから分岐している小道がある。
当然、これが中山道やね。

左に流れるのは梓(あんさ)川というらしい。
しばらくすると、松並木に出くわす。
梓川松並木、と称するようだ。

しばらくの間、右に国21、さらにその向こう側に名神高速、の構図を続けながら、中山道はくねくねと蛇行している。
なかなか走ってて楽しい風景が続く。

気持ち良くそのまま走ってると、右手に自動車整備工場があり、道は左にカーブしている。
このすぐ先で、左に1本入った、さらに狭い道が、中山道らしい。

しばらくはしると再びさっきの道に合流、そこにあるのが「小川(こかわ)の関址」。

何と!壬申の乱の際に設けられた関所の跡らしい。

「壬申の乱」ね~、懐かしいなぁ。
日本史の授業なら、必ず1学期に出てくる、日本古代の内乱だ。
西暦672年、大友皇子と大海人皇子の、皇位継承をめぐる争いやね。

そしてこの中山道が、東山道よりさらに古く、そんな時代から存在していた証左でもあるわけだね。

今度は配水場のところに分岐点がある。
ここは左を選択。

そのまま進むと、やがて右手少し奥に「柏原一里塚」が復元されている。


このまま直進すれば、そのまま柏原宿に入っていくんだけど…。
案内板に従い、ちょっと寄り道。

実はこの辺り、「東山道」にまつわる史跡が点在している。
十字路を左折すると、やがて正面に柏原中学校ね。
さらにそこを左に行くと、ここにも案内板があり、左の森の中に入っていく狭い道を行く。

小さな池に出る。
この池の脇を通る道が、どうやら「東山道」跡らしい。
左の方に延びる小高い山道を登りきると「北畠具行(きたばたけともゆき)卿墓」。

鎌倉末期、後醍醐天皇の協力者の1人だったんだけど、事前に「打倒鎌倉幕府」の企てが暴露してしまい、処刑された公家ということらしい。
後醍醐天皇は、改めて作戦を練り直し、足利尊氏や楠正成、新田義貞の協力を得て鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」を成し遂げることになるわけだね。
「いざみよ(1334年)建武の新政」、語呂合わせで覚えました♪

池まで戻って、ぐるっと半周し、反対側の北上する道を走る。
この道も古さを感じるから、もしかして東山道かな?

400mぐらいかな?
案内も出てるけど、ここから左に延びるのが「徳源院」への参道で、直線的に延びている。

単に「徳源院」と呼ばれることの方が多いけど、正確には「徳源院清滝寺」。

近江の名門、京極氏の菩提寺だ。
京極氏は、なんだかんだと戦国・江戸を生き抜き、明治になり、貴族院議員まで輩出している。
その間、徳源院も、代々手厚く保護されてきたらしい。

コスモタイガー、実はここ、2度目の訪問だ。
10年以上前になるけど、JR東海のウォーキング大会だったかで、この辺りを歩いたものだ。
晩秋だったため、見事な紅葉が印象に残っている。

今日は冬。
もちろん紅葉はしていないけど、その代わり観光客もなく、ひっそりとした山寺の雰囲気で、これはこれで味わい深い。

本堂に手を合わせ、奥に入ると、京極家墓所があり、歴代の当主が並んで眠っている。

さて、随分と長い時間、タイムスリップしてしまったね。
そろそろ江戸時代に戻ろうか。

ということで、参道を戻り、さっき出てきた「東山道」をそのまま通り過ぎ、右手に何やら資料館らしき建物があるから、そこを右折。
そのまま中学校の前から来た道を辿り、中山道に戻る。

50mも走ると、江戸時代のままの道標が残る。
すでに柏原宿に入っているようだ。

ここもかつて、ウォーキング大会で歩いた道だ。
かすかな記憶が残る。

柏原宿は、かつては「もぐさ」の産地だったとか。
まもなく右手に見えてきた古い建物は、そのもぐさを今も売っている「伊吹堂」。

すぐに高札場があって、続けて本陣跡がある。
丁寧に案内板も整備されている。

さらに進んで左側に郵便局。
ここが脇本陣跡らしい。

左少し奥に東海道本線柏原駅があるが、いくらなんでもまだゴールするには早すぎる。
そのまま直進。

いかにも一昔前の集落といった感じで、静かに中山道が続いている。
左に東海道本線が寄り添う。

途中、ちょっと見落としそうだけど、東見附跡。
柏原宿はここまでってことだね。

まもなく東海道本線を踏切で渡る。
道なりに右に行き、引き続き東海道本線に沿って走る。

左には小高い山、右手に東海道本線、人気もなく、静かな道が続いている。
癒されるなぁ。
快調なrunが続く。

さて、わずかばかりの家並みとともに、何やら身長大の木柱が見えてきた。
「寝物語の里」。


丁寧な解説版も設置してある。
下を見ると木柱の脇に、小さな溝があり、少量の水が流れている。

実はこの溝こそが、近江国(滋賀県)と、美濃国(岐阜県)の境を示しているんだね。
何の変哲もない小さな溝だけど、昔も今も大きな意味を持つ「溝」なのだ。

かつてこの溝を隔てて、旅籠があったらしく、寝所から、国境を越えてお隣さんと会話ができた。
それを古より、「寝物語の里」と呼ぶようになったらしい。

この溝を超えれば岐阜県!
ついに東海地方に入った(というより戻ってきた?)!
これにて滋賀県も制覇!

ってことはさ、つまりこれで「中山道近江路」も終了ってことなんだ。
ここからは、「中山道美濃路」。

一呼吸して、さぁ、美濃路を走ろう!
右にカーブしつつ、道は下り坂になる。
300mほどで、再び東海道本線を渡り、「今須」の交差点で国21に交わる。

信号を渡ったところに「車返し地蔵尊」。
簡単にいえば、昔、月見をしようとした京都の貴族さんが、ここまで来て引き返した。
まぁそういうこと。
要するに、当時の貴族は暇だったんだね。

残念ながら、江戸の時代を偲ぶのはちょっと厳しいけれど、山間に静かに横たわる集落は、走ってて楽しい。

左にカーブしながら下り続け、郵便局前を通ってすぐ、「問屋場跡」。
今須宿に入ったらしい。

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13件、中山道としても、随分小さめの宿場町だったのだ。

さらに進んで、今須小中学校の場所が「本陣跡」と看板が建っているが、かつてを偲ぶものは何もない。

そのまま直進し、国21に合流。
そのままちょっとだけ国道runだけど、その国道脇にあるのが「今須一里塚」。
南側のみ、復元されている。


と思ったら、すぐに左に入っていく脇道がある。
これが中山道だね。

国21に寄り添いつつも、確実にくねくねとうねりながら、山中を行く。
東海道本線を超え、さらに道は続き、緩やかに上っている。
一応、「今須峠」の名が付いている。

一里塚から約1km。
左に入る、さらに細い小道が。
当然こっちを選択。

すぐ左にあるのが「常盤御前(ときわごぜん)墓」。

中山道編3にも出てきた、源義朝の愛妾。
そしてその間に生まれたのが3人の男子で、末っ子が義経だ。

平治の乱に敗れ去り、野間に落ち延びた義朝さん。
家族もばらばらになり、出家して鞍馬寺に預けられていた義経(当時は牛若丸)も、東国へ逃げたことを知り、後を追う常盤さん。
でもここで盗賊に襲われ、哀れ、命を落としたとされる。

この細い道は、300mほどで再び先ほどの脇道に合流。
そこで右に目を向けると、何やら金網越しに川が渓谷のように深く刻まれ、小さな滝になっている。

「鶯の滝」。
東山道の頃から、旅人に親しまれていたらしい。
もっとも、かつてはもっと立派だったようだけど。

国21を歩道橋で渡り、そのまま小道を進むのが正解。
ここからは急激に上る。

登りきると、正面にやや大きい建物がある。
「不破(ふわ)の関資料館」。

ぜひ見たい!!
と思ってたんだけどね、16時で閉館とのこと。
何と、あと5分じゃん!!

仕方ない、またの機会にするとして、先に行こう。
朝、のんびりし過ぎたツケだな。

中山道は資料館の裏手を通る感じで、すぐ向かい側に何やら古い建物があり、そこが本当の「不破の関跡」。


「不破の関」。
東山道時代、ここに関所が置かれたんだね。

そもそもこの辺り一帯は、現在では「関ヶ原」と呼んでいる。
関ヶ原と言えば、あの有名な、1600年の「関ヶ原の合戦」が有名だよね。

徳川家康(東軍)対石田三成(西軍)。
歴史ファンじゃなくても名前ぐらいは誰でも知っている、超メジャーな大合戦だけど。
それはもっとずーっと後年の話。

実はこの辺り、さらに時代を遡り、もう1つの大合戦の舞台になっていることはあまり知られていないよね。

2時間ほど前に通った「小川の関址」でも出てきた「壬申の乱」。
あの合戦もここが舞台だったのさ。

勝ったのは大海人皇子(のちの天武天皇)。
そして天皇即位後、この「不破」の道を抑えるために関所を作ったというわけだ。
そしていつしかこの辺り、「関所のある原っぱ」→「関ヶ原」となっていったんだね。

名前の通り、この辺り一帯は、山々に囲まれ、かつ広大な盆地(原っぱ)を有するため、大人数で合戦するのに適した?場所なのだ。
そのため、2度にわたり、日本を二分する戦が行われた、稀有の場所なのだ。

こんな場所だから、その気になれば、1~2日掛けて散策しても足りないぐらいの名所・旧跡が残ってるからね、正直言ってキリがない。

とにかくコンセプトは「中山道」。
江戸期の中山道だけをピックアップして、先を急ぐとしよう。

200mほど先で、左に分岐する細い道が中山道。
すぐに「松尾」の交差点で、国21に出る、
右折し、国道を走る。

すぐに左手に供養塔。
「西首塚」と呼ばれているらしい。

名前の通り、戦死者の首を弔ってるんだけど。
といっても、これは「関ヶ原合戦」の方ね。

常夜灯を過ぎると、一気に家並みが増えてきた。
「関ヶ原宿」に入ったらしい。

戦ばかりのイメージがある関ヶ原も、江戸に入って、中山道が整備されると、静かな宿場町として発展したんだね。

「関ヶ原西町」の交差点を過ぎてすぐ、今度は「脇本陣跡」。
ようやく中山道ランの本来の姿に戻った気がする。

もとい、本来の目的はトレーニングだった!
いけねぇいけねぇ。

すぐの交差点の名前は「関ヶ原駅前」。
ここを左に入ったところに、東海道本線「関ヶ原駅」がある。

今日は随分と道草しちゃったね。
特に後半の関ヶ原、やっぱり楽しくって、単純に地図の上なら13~14kmだけど、実際には20km近く走っているよ。

冬の太陽は店仕舞が早いからさ、それに小刻みな起伏もあって、ちょいと疲れた。
当初の予定通り、ここをゴールにして、帰路に付くコスモタイガーであった。

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