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日本一脚の速い「鉄ちゃん」を目指します!
時刻表検定1級
10km33:04、フルマラソン2:46:31

コスモタイガー漂走記~中山道編(エピローグ)

2016-06-02 | 旧中山道run!!

中山道完全走破!

これにより、いわゆる5街道のうち、江戸と京都を結ぶ2大幹線、東海道(53次)と中山道を全て走ったことになる。
旧街道は全国津々浦々にまだ存在するし、コスモタイガーの旧街道runもまだまだ続きそうな気配ではあるけれど、このもっともメジャーな2大幹線を走りきったことは間違いなく大きな区切りではある。

というわけで、ここで改めて中山道を振り返ってみたい。

★全36回。
東海道を42回もかけて走ったことを思えば、それより距離の長い中山道を36回で済ませられたのは、意外だった。
すでにブログ中でも述べたとおり、東海道なんて「完全走破」をそもそも考えておらず、愛知県内はチョコチョコと細切れに楽しんでた感じだ。
いつでも走れるという安心感もあったのと、リサーチも随分と大雑把(というより杜撰)で、携帯(スマホじゃないよ、ガラケーね)のIモードの地図見ながら、迷いつつ・・・だった。

中山道は、最初から「完全走破」を視野に入れて念入りなリサーチ。
それに東海道と異なり、「好きなところでゴール」なんてなかなかできなかったしね。(特に信濃路以降)

あとは「慣れ」も大きいかな。
旧街道の「匂い」に敏感になってね。
資料なんか見なくても「こっちだ!」と直感で判断することも少なからずあった。

★印象に残るベスト5
個人の独断と偏見で。
中山道の印象に残る場所を最後にまとめてみよう。

<第5位>
熊谷宿八木橋百貨店(旧中山道編33参照)。
やっぱりデパートの通路がそのまま中山道というのは、インパクトあります。
買い物客の中を申し訳なさそうに、こそこそっと走ったことだけが思い出されます。
もちろん事前にリサーチして判っていたことなんですけどね。
それでもやっぱり、印象度抜群です。

<第4位>
望月宿の雷にはびびりました!(旧中山道編27参照)
まじ、身の危険を感じて、オロオロ。
15分ほど、やむなくどこかのお宅の屋根付車庫で雨宿りすることに…。
それを抜きにしても、望月宿ととなりの茂田井集落はsetで再訪してみたい場所。
素敵でした。

<第3位>
やっぱり和田峠、そしてその先にあった和田宿。(旧中山道編25・26参照)
不便すぎる!
まぁ、和田宿だけじゃなく、第4位の望月宿も含め、下諏訪~軽井沢間は、交通機関空白地帯といっても良い場所。
わずかな本数の路線バス(または地域循環バス)だけが頼り。
とにかく往復のアクセスだけは要チェックしながらの走り。
「君はそれを楽しんでるんだろ!」と突っ込まないでください。
その通りなんですから。
ただ、不便なだけに、このあたりの信濃路は、どこも時が止まったような風景で、行っただけの価値は間違いなくありました!

<第2位>
須原宿。(旧中山道編18参照)
木曽路といえば、妻籠宿と馬籠宿、そして奈良井宿。
もちろんこの3つも素敵ですけど、観光地化されすぎた感もあり。
須原宿はそれとは逆に、観光客らしき姿は皆無。
でも、本当に静かな街道で、どうしてここだけポツンと飛ばされたのか不思議ですらあります。
RUNではなく、しっとりと時間かけて観光したいエリアです。
また、須原宿の手前(京都から来た場合)の岩出観音も、清水寺を思わせる景観で、印象的なエリアです。
名古屋からだと土日祝なら「青空フリー切符」のエリアにおさまり、財布にもやさしい話なので、ぜひお勧めです。

<第1位>
醒ヶ井宿。(旧中山道編6参照)
意外?にも、近江路の醒ヶ井宿がコスモタイガーはかなりのお気に入り。
ここも観光地と呼べるほどの知名度はおそらくないんだろうけど、知る人ぞ知る、中山道の名所。
本当に静かな宿場町と、きれいな水の流れる水路が印象的です。
その後、妻と再訪。
さらに別の機会に、今度は妻と子供も連れて再訪。
息吹山の恩恵を受けた清流を利用した、小魚の天婦羅は、絶品!
醤油も名物のようです。
また、7月~8月にかけて見られる「梅花藻」は醒ヶ井宿最大のウリだそうで、夜、ライトアップもされるとか。
なんといっても嬉しいのは、名古屋からの抜群のアクセスの良さ。
名神高速関が原ICから国道21号ですぐですし、一般道でも国道22号→21号。
鉄道なら、東海道本線新快速(または快速)で、名古屋駅または金山駅からは朝夕なら乗換えなしで醒ヶ井駅に着いちゃいますし。
(日中なら大垣で乗換えですね)
ここも青空フリーのエリア内ですし。
鉄道でも車でも、名古屋からなら1~2時間程度のミニトリップ。
だから子供も連れてこれるんです!
こんな近くにこんな鄙びた宿場があることが嬉しく、ついまた足を向けてしまいたくなるのです。

それ以外にも、碓氷峠は楽しく、また膝が痛かった苦い思いもありますし、ヨコカルの代行バスも楽しかった!
また、馬籠~三留野間のクロカンコースも走り応えありました(男滝・女滝は圧巻!)
御嵩~大井宿間の十三峠越も、毎年トレーニングで走っているにもかかわらず、飽きませんし、そのコース中の大湫宿の静かな佇まいには、行くたびに癒されます。

順位を付けておきながら変ですが、順位を付けられないぐらい、見所満載の中山道。
またぜひ通しで走って(あるいは歩いて)みたい街道であることに間違いありません。



コメント (4)
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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(36/最終回)

2016-05-16 | 旧中山道run!!

2011年7月26日。
今日は平日だ。
でもコスモタイガーは、代替で、今日は休み。

朝から曇天で、暑さは若干和らいでいる。
さぁ、中山道も残り約25km!
今日こそ、ラストランとしようか!

もう「鉄旅」の楽しみはないのも前回と同じ。
まずは毎度の前後駅に車を置き、名鉄→新幹線→京浜東北線と乗継、浦和駅に降り立ったのは13時少し前。

すぐに前回のゴール地点、「浦和駅西口」の交差点に移動。
5分も経たないうちに到着。

大都会の繁華街、というだけで、特筆すべきものは何もないけれど、記念にシャメだけ撮影。
といっても、前回のゴールとほとんど同じアングルだけど。

目の前のメインストリートは、国道463でもあるけれど、国道としてはここを右折して西へ向かう。
もちろん中山道はそのまま直進で、このまま県道213号。

まだ汗もかかないうちに、左に大きな森が出現。
都会の中のオアシスといった感じで、素敵な空間だ。

調(つき)神社。
「調」ってのは、今で云う税金のこと。
大化の改新によって、朝廷により新しい税制が敷かれねそれを租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)としたんだよね。
学校の歴史の授業なら、1学期の内容だったはす。
その調を奉納するための場所ってことなんだろうね。

そしてもう1つの特徴は、神社なのに鳥居がないということらしい。
だから予備知識がないと、お寺と勘違いしてしまいそうだ。

手を合わせて、無事の完全走破を祈願しておく。

ただ道なりに走ってるだけなんだけど、いつの間にか片側1車線になり、県道からもはずれたらしい。

右手に南浦和小学校を見ながら、下り坂となる。
焼米坂と名が付いているらしい。
江戸からだとかなりの登りになり、かつては茶屋が多く並んでいたとされている。

そのまま道に沿って走ると、「六辻」の交差点で、国17と交わる。
名前の通り、ややこしい交差点で、そのまま国道を横断し、すぐに左折するのが中山道。

いかにもクネクネとカーブしてるから、久し振りに街道らしさを感じ取れたりする。

国道298に出た。
その上を、東京外環自動車道という、名古屋人には馴染みのない高速道路が通ってるから、その下を潜って直進。

潜ったすぐの団地の片隅に建っているのが、一里塚の碑。
辻一里塚と称されたらしいけれど、今は碑が残るのみ。

前回から続いたさいたま市をようやく脱出。
蕨市に入ってすぐ、左手に春日神社と宝蔵寺が並んでいる。
江戸から近いにも関わらず、ここには明治政府の、神仏分離令の影響はなかったのかな?などと思ったりする。

そしてここからは県道79号線。
「錦町3」の信号で再び国17を横断。
その渡ったところにあるのが蕨宿上方木戸跡。
要するに、ここから蕨宿ってことさ。

道なりに右にカーブし、南進する形。
国17に添う形となった。

次の信号の名前が「中山道蕨宿本陣跡」
丁寧かつそのまんまの判りやすい名前だね。

で、その名の通りの史跡がすぐに出現。
蕨宿は本陣が2軒あったとされるが、こちらは一の本陣と称された、岡田加兵衛本陣跡。
その隣は歴史資料館となっている。

残念ながら、反対側(左手)にあったとされる二の本陣(岡田五郎兵衛本陣)は、現在残っていない。

そのまま道なりに走る。
「錦町1丁目」で国17に合流。
ここが蕨宿江戸方木戸跡。
ここで宿場は終了ね。

200mも走れば、そこはもう戸田市との市境。
あっけないね、蕨市。

しばし、国道run。
ここは見どころもなく、徒歩旅なら単調だろうなぁ。

1.5km弱。
「本町」の交差点。

多くの資料は、このまま国道を走れとなっているけれど、コスモタイガーのリサーチした資料の中には、この交差点の手前、左斜めの狭い道を指示するものがあった。
現地に来て、ここはその左斜めを信じたくなった。

要するに、国道の1本東の道を走るだけのことなんだけどね。
左右ともに大きなマンションに挟まれる感じだ。

どっちにしてもこの辺は街道を示すものはほとんどないんだけどね。
真相は、おそらく両方の道とも正解であり、不正解でもあるんだろう。
マンション建築に伴い、随分と整地されたというのが真相ではなかろうか。
実際の中山道は、くねくねと曲がりくねっていたはずだからね。

リサーチ資料を参考に、左手の巨大マンションを過ぎたところで右折し、国道に戻る。
「本町1丁目」の交差点名が、わずかに中山道を偲ばせる。

次の「川岸3丁目」の信号を左折。
さらに次の信号「川岸」で右折。

この辺りも、若干資料によって違いはあるものの、そもそもマンションに囲まれている状況で、街道らしき雰囲気自体皆無に近く、どこをどう走っても同じような感じではある。

そのまままっすぐに南下すると、左手に大きな工場があり、そこを過ぎたら小さな川を渡る。
下を流れるのは荒川の支流、「菖蒲川」と証するようだ。

そうそう、とりあえずこの橋を渡ることだけは、どの資料も共通しているから、ここは間違いなく中山道なんだろう。

堤防道路にぶち当たると、その手前左手にある祠が「水神社」。
やっと中山道であることが確認できた。

そして堤防を上がったところが「戸田の渡し跡」。
かつてはここから目の前の荒川を舟で渡っていたんだね。

現在、ここには舟も橋もない。
右折して、堤防下の小道を走り、線路の下をくぐり、さらに階段を上がると、国17に戻る。
そこから大河となっている「荒川」を渡るんだよね。

「戸田橋」ね。
そしてここが、埼玉県と東京都の境。
そう、中山道runもついに、最後の都道府県「東京都」へ入ったのだ!

渡り終わってすぐ、左下に下りていく階段があるから、そこから降りる。
この川下の道が、旧中山道の名残らしい。
といっても、約150mぐらいですぐに国道に吸収されちゃうけれど。

すぐに「舟渡」の信号があった。
戸田の渡の対岸だからね、この交差点名は納得のネーミングだ。

ここを左折すると、埼京線「浮間舟渡」の駅は近いんだけど、もちろんコスモタイガーはゴールまで迷わず進む。

再び国道run。
1km以上続く。

「志村坂下」の信号から約100m。
左に静かに分岐する道が中山道。

首都東京にありながら、この道は意外にも静かで走りやすい。
街道らしき雰囲気を感じ取りながら、足を進める。

大きな変則交差点に出て、再び国17.
歩道橋に上がると、この先の中山道が、今度は国17の反対側に隠れるように続いているのがわかる。

この辺りの雰囲気は、旧東海道の横浜市内に似てなくもない。(旧東海道編41参照)
上り坂を駆け上がると、線路のガード下をくぐる。
都営地下鉄三田線だ。

その先、ちょっとややこしいけどもむT字路になっていて、中山道は鋭角に左折するよう、案内されている。
ここには[清水坂」の表示板があった。
京都から来たコスモタイガーは、ここは一気に上る形なのだ。

でもこのT字路、まっすぐ進む道も雰囲気ありげな道で、結構気になったりする。
地図で確認すると、このままくねくねと続いており、首都高速の志村パーキングエリアまで辿り着けるんだね。

国17に合流した地点が[志村坂上」。
地下に潜ったばかりの三田線の駅もある。

そして左右両側にこんもりした小さな塚のようなものが見えてきた。
[志村一里塚」。
中山道では都内に唯一現存の、貴重な史跡となっている。

目の前の交差点名もそのまんま「志村一里塚」。
再び単調な国道runが続く。

「本蓮沼」の駅を過ぎると、右後方から首都高が近づき、国道にかぶさってくる。
そこから左に分岐する道が中山道だ。

ここからは一気に街道の面影残す、くねくね道となった。
走ってて飽きないねぇ。

都道318号、といっても馴染みないだろうけど、要するに環状7号、そう、東京の人には環7と呼ばれる幹線道路を渡った先、約200mのところにあるのが、[縁切り榎木」。

嫁入り・婿入りの行列がこの木の下を通ると、必ず不縁になったとされる。
信仰とはいえ、気味の悪い話ではある。

でも中山道といえば、和宮様の下向。
そう、徳川将軍家に嫁する際、中山道を通ったはず。
当然、この榎木の下も通ったんだよね。

どうやら説明板によれば、その際、榎を菰で包んで隠したということらしい。
隠しても通ったことには違いない気がするんだけど。
かといって、大行列だから、迂回もままならないしね。

さらに300mほど走れば、小さな橋を渡る。
欄干が木目調になっていて、中山道の雰囲気とマッチしている。
下の小川は石神井川。

この橋こそ、[板橋」。
鎌倉時代の古文書にもその名前があるとされ、実に由緒ある橋なのだ。

そしてこの橋の名が江戸期になってそのまま宿場名となり、明治になって町名に使われ、戦後になったら今度は区の名前にもなって、現在に至っている。

橋の名前がそのまま知名に…ということなら、旧東海道の「豊橋」を思い出すなぁ。(旧東海道編6参照)
まだあの頃は、こんな大掛かりな一大事業?になるなんて思ってもいなかったんだよね。

おっとっと、話を戻すと、この辺りから板橋宿。
その中心が仲宿と呼ばれ、まさに今走ってるところ。
左側にはいくつかのお寺も建っている。

都内という立地にも関わらず、宿場の雰囲気がそれなりに残っていて、街道フリークとしては嬉しい限り。
東海道の品川宿ほどじゃないけどさ、埼玉や神奈川より、都内の方が意外に昔の物が残っているんだなぁ。(旧東海道編42参照)

国17&首都高を斜めに横切る形で中山道は伸びている。
埼京線の板橋駅を右に見て、道なりに走る。

この辺は1本道。
迷いようがない。

[滝野川」というのがこの一帯の地名(町名)らしい。
この滝野川も、コスモタイガーの心に響く地名だ。
というのも、内田康夫作品には何度も登場しているから。
主人公、浅見光彦クンにとっては、超地元ってことなんだね。

[掘割」の信号で都道305号(というより明治通りというべきか?)を超えると、[巣鴨」。

鉄チャン的にも良い気分転換になるけれど、次に越える線路は都電荒川線。
[庚申塚」駅の脇を通る。

徐々に個人商店が増えてきた。
結構人通りも多く、ちょっと昔の繁華街の様相で、まさに「おばあちゃんの原宿」の面目躍如。

左手には、巣鴨の象徴とも云える、通称「とげぬき地蔵尊」。
正式には高岩寺と称するらしいけど、多分こっちの名前はほとんど知られていないんだろうな。

その先約100mで、国17に吸収され、そのまま国道を走れば、山手線巣鴨駅前となる。

山手線だよ、山手線。
名古屋からのお上りさんにとって、山手線なんて聞くと、完全に東京の真っ只中にいる心境。
すでに残り7kmを切り、いよいよ中山道もラストスパートだ!

当分は、この国17がそのまま中山道。
しばらくは見どころもない。

「白山下」の交差点が追分のように分岐しているけれど、中山道はそのまま左の国17を行く。
郵便局を超えたところにひっそりとあるのが大円寺。
別名を「ほうろく地蔵」。

懐かしい名前に巡り逢った!
ほうろく地蔵といえば、宮の渡しのすぐ近く、東海道と美濃路の追分にあった地蔵様を思い出す。(旧東海道編5、旧美濃路編1参照)

約1kmほどはそのまま国道run。
住宅や街道が並ぶだけで、街道らしき面影はない。

やがて都道455号ゅというより本郷通りと言った方がいいよね、絶対)と合流。
ここがいわゆる[本郷追分」。

本郷通りの方が日光御成街道ということになるんだね。
そしてここに、京都からだと最後になる[追分一里塚跡」の案内板が設置されている。
さぁ、あと約4kmだ!

すぐ南の信号が[本郷弥生」。
ここで左側の歩道に渡っておく。
目の前には、広大な敷地を擁する立派な建物が。


そう、ここが日本の最高学府、東京大学ね。
勉強嫌いなコスモタイガーにとっては、例え生まれ変わっても縁がなさそうな学校だけどね。

勉強といえば、とにかく理数系は大の苦手。
何かの模試で、200点満点で3点しか取れず、[全部同じ数字をマーキングしても、20点ぐらいは何とかなるはず、答知っててわざと間違えたんだろう!」と友人たちに失笑されたこともあった。
逆に社会や音楽は得意だったけど。

内申はともかく、音楽は筆記試験には全くといって良いほど関係なかったし。
(一応、4歳~高校2年途中までピアノ習ってたりするんだよね、コスモタイガーは)

社会なんて、無理やり?地理と歴史に分割された上に、配点が数学の半分しかない!
若かりしコスモタイガーは、これを理不尽と感じたりしたものだ。

まぁ、どんな受験制度になろうと、どっちみち最高学府には行けなかったけど(笑)。
ただ、今でも思うのは、[地理と歴史を分けて学ぶのはナンセンス」だということ。

このブログの冒頭でも書いたけど、そもそも歴史と地理は、密接な関係があって成立しているのだ。
その地域にはその地域の特有の歴史があり、その結果として、今の発展した町がある


名産品1つとっても、それが名産品となりうるためには、様々な歴史があるはずなのだ。
長野県の名産の1つが「りんご」、静岡県なら[お茶」。
丸暗記すれば、受験としての地理では点は取れるけど、なぜ[りんご」(あるいは「お茶」)なのかを調べれば、必然として、長野県や静岡県の歴史を勉強する必要に迫られる。
急に理由もなく、りんごやお茶の木が繁殖したわけじゃないしね。

歴史の面から見ても、[関ヶ原の合戦」とか[桶狭間の合戦」とか、出来事と年号だけを丸暗記しても楽しくないし
テストの点は取れても、そもそも関ヶ原や桶狭間の場所すら知らない、なんて人もいたりする。

誰と誰が合戦したのか。
その合戦がなぜ起きたのか。
なぜその場所じゃないといけなかったのか。
単なる丸暗記ではなく、「なぜ?」「なぜ?」を繰り返していけばいくほど、地理と歴史が密接に絡み合っているという当たり前のことに気付くのだ。

鉄道を語る人が、鉄道だけ忽然と詳しくなることは考えにくい。
自然と、都市名や県名を覚えることになるし、駅名だって[信濃大町」(大糸線)や、[飛騨古川」(高山本線)のように旧国名が入ってれば、自然と頭の中で県名と旧国名がリンクしてくるようになる。

東海道本線が、東京~神戸間と覚えるのは簡単だけど、そひの敷設ルートの大半が、旧東海道に沿っているのに、名古屋以西は、むしろ中山道に沿っている事実に、偏屈なコスモタイガーは疑問に思ったりする。
そしてそれを追求し始めると、必然的に鉄道の歴史、街道の成り立ちを知ることになる。

東海道本線に限らず、その町・そのエリアに鉄道が敷設されるには理由があり、自ずと旧街道の存在を知ることとなった。
まさに鉄道と旧街道は、表裏一体、無関係には語れないことに気付いたのさ。

おっとっと、勉強嫌いの言い訳が長くなってしまった。
中山道もあと少し!
先へと足を進めよう。

東大に沿ってそのまま南下。
すぐに朱色に染まった風格ある門に出会った。

これぞ[東大赤門」!

まさに東大のシンボルの1つなんだけど、歴史的には、旧加賀藩前田家上屋敷跡ってことになる。
そして赤門は、11代将軍家斉公の息女、溶(やす)姫が前田家に嫁した際に建立されたものだ。

そして広大な東大キャンパスをようやく通り過ぎ、[本郷三」の信号を渡ると、国17はそのまま左へカーブ。

右手やや奥まったところにある大きなビルは、順天堂大学病院。
続いて現れるのが、東京医科歯科大学と、その付属病院。
都心にもかかわらず、大きなキャンパスが並んでいるなんて、不思議な光景だ。

[湯島聖堂前」の交差点。
名前の通りの史跡が、右手前方にある。
元々は昌平坂学問所。
この辺りは昔から、学問の場所だったんだね。

道路の反対側の1本奥に入ると、「神田明神」という有名な神社もあるけれど、もう早くゴールしたいから、寄り道はやめておく。

「神田明神下」の信号も、国17に沿って右折。
すでに都内のど真中といった感じで、案内板もなく、間違えやすいけれど、むここで右折する国道から離れ、中山道はそのまま直進し、[昌平橋」を渡る。
この橋も、付け替えられてはいるけれど、元々は江戸中期に架けられたもの。

下を流れるのは神田川。
確かそんな名前の演歌があったような気がする。

渡り終えたら、大きな神田郵便局の前をすぐ左折。
100mほど、JR中央本線に沿って走り、道なりに進むと、再び国17に再会。
そのまま右側の歩道を進む。

さぁ、あとは直進あるのみ!
山手線のガードをくぐる。
頭上は神田駅。

国17はすでに街道らしさはなく、単なる幹線道路。
車がビュンビュン走ってるし、すれ違う人々は明らかにビジネスマンが多い。
平日に、首都東京の、しかも官公庁街のど真中を走ってるからね、当たり前のことなんだけど。

「室町3丁目」の交差点。
ここから国道の番号が17から4に変わるけど、中山道的にはただ直進するだけ。
もう残りは500mほどだ。

三越百貨店が見えたら、もうゴールはすぐそこだ。
前方に首都高速(都心環状線)の高架が見える。

そして…。
高架下に到着!
見覚えのある風景。(旧東海道編42参照)

そう、ここが江戸日本橋!
高速の下で薄暗い微妙な風景だけど、ここが正真正銘の中山道のゴール!!(冒頭写真)

3年前、東海道(53次)でゴールした日本橋。
今度は中山道のゴールとして、再びこの地に立つことになった。
長かった長かった中山道も、これにて完全走破!

東海道でも記念に撮影した日本国道路元標
3年前はレプリカに飽き足らず、道路の中心まで進出しちゃったけど、今日は2回目だからレプリカだけで充分。

終わった…。
長かった。
でも何だか寂しい。

時計を見ると、ほぼ想定どおり、まだ16時半を過ぎたところ。
中山道runのラストを飾るのは、東名高速バスと決めていた。
予定通りに乗れそうだ。
東京駅へと向かう。

東名高速バスと聞いて、一番最初に浮かぶのは、東京駅~名古屋駅間の特急バス。
でもそれだと車がとめてある前後駅まで戻る必要があって、非効率。

コスモタイガーの目的は・・・、その名も「知多シーガル号」。
名前の通り、知多半島の中心都市、半田市の玄関口、知多半田駅が終点の、JR関東運行の特急バスだ。
昼行1往復、夜行1往復。

昼行の下り[知多半田行」は、東京駅発17時40分。
駅弁と飲み物を買い込み、乗車。

東名高速~豊田ジャンクション~東海環状、と高速を走り、降りてからは、知立駅・刈谷駅の各停留所に停まり、その他主要停留所をいくつか停まりながら、終点の知多半田駅を目指す。

名古屋市民がなぜ知多半田行に?
そう、これも[名古屋市民だから名古屋駅行に乗る」という先入観を排除した結果なのさ。

コスモタイガーは知立駅で下車。
正確には知立駅から徒歩4へ5分ほどのリリオホール前。
目の前には、懐かしい旧東海道というシチュエーションも素晴しい。(旧東海道編1参照)

すでに22時近い。
疲れと充実感でお腹いっぱい。
まっすぐ帰ろう!

ここから名鉄名古屋本線の急行に乗車すれば、1駅、わずか5分ほどで、前後駅に到着。
朝、コインPに止めておいた車と無事再会だ。

下りに乗ったのは今日が初めてだけど、所用や観光で東京方面に行った際にも、過去3度ほど知立駅から利用した経験がある。
7時17分発で、少し早起きを要するけれど、乗ってしまえばあとはリクライニングシートに身を委ねるだけ。

この知多シーガル号、時刻表にも掲載ははあるが、途中のバス停は省かれているし、。行き先が知多半田行というのもあり、かなりの高速バス通でも意外にノーマークのようだけれど、名古屋市民でも南東部に住む人間には実に有効な手段なのだ。
もちろん時間に余裕があれば、の大前提はあるけれど。

コスモタイガーは名鉄利用だけど、JR利用、例えば大高駅や笠寺駅利用派なら、刈谷駅下車で東海道本線に乗れば良いわけで(もちろん行きはその逆)、同じ高速バスなら、名古屋駅方面に逆行するよりはるかに効率的なのだ。

当然、運賃も安い。
普通運賃で比較すると、東京~知立駅間4,700円、刈谷なら4,800円。
東京~名古屋駅間のバスは5,100円。
(※2011年7月現在、まだ消費税は5%♪。また、知多シーガル号は、2016年現在も、そのままの時刻で運行されているようです。)

早割とかネット割もあるようだけれど、どの方法でも知多シーガルの方が安いことは間違いない!

すでにこの時間になれば、道路もガラガラ。
前後駅からは約10分で自宅に到着。
23時を過ぎていた。

もう中山道に次回はない。
まだ東海道57次もあるし、旧街道run自体はまだまだ終わりそうにないけれど、江戸~京都間を結ぶ2大幹線を、4年4ヶ月かけて完全走破したことは間違いなく大きな区切り。

風呂入ってビールで乾杯!
といっても明日は普通に仕事。
充実感もそこそこに、そそくさと就寝したコスモタイガーであった。



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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(35)

2016-03-08 | 旧中山道run!!

中山道!
随分とご無沙汰してしまった。
その間に岩倉街道を完全走破してしまった。

まだ前回は寒かったのに、すっかり春になり、桜も散ってしまった。

その中山道もすでに最終盤となり、関東圏内。
もう、鉄チャン的な楽しみもほとんどなくなった。

名鉄→新幹線こだま→JR京浜東北線・高崎線の、毎度のルートで、北本駅到着は、ほぼ13時。
3ヶ月ぶりにこの地に降り立った。
空はどんより曇っているものの、天気予報では何とか今日一日持ってくれるらしい。

どこにでもある駅前の風景で、長居する場所ではない。
ロータリーから駅舎のシャメを証拠に?撮影し、「駅前」交差点から、本日のトレーニングをスタート!

この県道164号がかつての中山道ね。
というより、今日はこの道をひたすら南へと走るだけ、といっても過言じゃないぐらい、コースは単調なんだけどね。

分岐してまた合流、というあの街道名物?も、リサーチ通りなら皆無だ。

まだ汗もかかない、すぐの交差点は「多聞寺」。
その名の通りの寺が、左手前方にある。

開山は1661(万治4)年とあるから、それなりの名刹には違いないけれど、まだ走り出したばかり。
スルーして、先へ進もう。

今度は右手に観音堂。
13体のお地蔵様が並んでいる。

でもなぁ、ここまでの中山道の道程を思い起こすと、やっぱりこの辺は単調で、イマイチなテンションだよな~。
まだ西側の京都市内や滋賀県内(近江路)の方が、平坦なりに変化があった気がする。

「本宿」の交差点はすぐ。
その手前に、北本の由来を示す、説明板がある。

「北本」なんて言うからピンと来ないけど、前回通った鴻巣宿に移転前は、ここが宿場だったらしい。
だから正式には「元宿」。
いつしか「本宿」になり、その北端に駅が出来たから「北本」なんだね。

愛知県にある、名鉄名古屋本線(街道的には旧東海道)にある本宿も、同じ類だったことを思い出す(※旧東海道編4で通過済)

本当にこれといった見所もなく、とにかく道なりに走るしかない。
ある意味、トレーニングに専念できるって話でもあるけど。

コスモタイガーは走ってるからまだ良いけどさ、徒歩の人はここをさぞ黙々と歩くことになるんだろうなぁ。
などと、いらぬ心配をしてみたりする。

「二ツ家」という、いかにも古くからの地名も残るけど、街道らしさを偲ぶものは何もない。

いつのまにか行政区域は「桶川市」となり、「市役所入口」の交差点。
どうやらこの辺りからが「桶川宿」ということらしい。
交差点を渡ったところに、それを示す「北の木戸跡」の碑が、目立たぬように建っている。

桶川といえば、もう随分前に「桶川ストーカー事件」なんてあったなぁ。
自分が学生時代だったと思うから、もう20年以上経つのかな?
確か事件から数年後にTVドラマ化され、内山理名さんが、被害者の役を演じていて、その無念さに涙しながら見ていた記憶がある。

「ストーカー」という物騒な言葉が使われだしたのも、この事件が発端だった気がする。
いずれにせよ、こんな事件は2度と起こらないように願うのみだ。

さらに約100m。
左手に大きな家具屋があると、そこは「桶川一里塚跡」。

ポツンポツンと、旧家らしき建物もあるんだけど、その由来を示す看板があるわけでもなく、少しもったいない気がする。

それでもしばらく走ると、右手に「中山道歴史館」。
これが桶川宿脇本陣だそうな。

で、斜め前方、道路の反対側に目をやると、何やら由緒ある門構えの建物があって、これが桶川宿の本陣跡ということらしい。

続いて現れるのは、矢部家住宅。
明治初期の建物で、桶川市の指定文化財にもなっているそうだ。

「桶川駅前」の交差点をそのまま直進。
文字通り、右へ折れればすぐに桶川駅だ。

続いてまたポツンと古風な和建築が…。
「武村旅館」。
かつての旅籠であり、今も現役で旅館業を営んでいる。

少し走れば、「南木戸跡」の石碑があり、これにて桶川宿終了となる。

そしてまた、単調な県道run。
微妙なうねりだけが、かすかに旧街道を匂わせる。

上尾市に入ればすぐに「北上尾駅入口」の交差点。
ここも文字通り、その名の駅が右手にある。

だんだん人通りも車の量も増えてきた。
上尾市の中心に入っていくことを実感しつつ、北上尾駅から約1km。

右に高崎線の横断橋が見えてくると、そこに中山道の案内板があり、ホッとする。
そう、これだけ単調だと、本当にこの道が中山道なのかと不安になってくるんだよね。

上尾駅の真ん前を素通り。
街中にポツンと鎮座してるのは、氷川鍬神社と云うらしい。

いつのまにか上尾宿に入ったらしく、左手には上尾宿本陣跡の説明版。
隣り合うように、脇本陣井上家の説明版もあったりする。

とはいえ、この説明版がなければ、周囲は上尾市の繁華街。
ここが中山道とは想像できない。

右手にJR高崎線を従えながら、延々と県道runは続く。

左手に宮原図書館。
どうやらさいたま市に入ったらしい。
この辺りは合併前の大宮市になるんだね。

国道16号(新大宮バイパス)の高架下を潜って約100m。
「加茂神社」。

残念ながら詳しい由緒は不明らしい。
でも久し振りに街道らしい雰囲気が嬉しい。

とにかく県道に沿って走るしかない。

「宮原駅前」
今日はいくつ「駅前」を通過しただろうか?

国道17号&東北新幹線を越え、どんどん街中に入ってきた感じ。
高いビルも増えてきた。
さすがに政令指定都市だ。

「大宮郵便局北」の大きな交差点。
右折してすぐ、かの有名な鉄道博物館がある。

まさに鉄チャンの聖地なんだけど、残念ながら中山道とは何の関係もなく、しかも今、トレーニング中!

大宮駅前まで来ると、もうほとんど繁華街状態で、走るのも恥ずかしい。
旧東海道編42の銀座を思い出す。

ただ鉄チャン的には、ここで高崎線は終了。
併走するのは東北本線ということになる。
通称の京浜東北線の方が通用するかな?

いずれにせよ、中山道的にはどうでも良いネタだけど。

埼玉県の県庁所在地であり、東北新幹線と上越新幹線の分岐駅でもある、大繁華街。
そんな一角に埋もれそうな史跡が、臼倉本陣跡。
そう、一応ここは大宮宿のど真ん中でもあるんだよね。

県道の番号が「90」に変わったけど、ひたすら直進は何も変わらない。
江戸から走る(歩く)人は、まだまだこれから始まるであろう、大きな変化に胸躍らせ、なんて部分もあるんだろうけど、京都から来て、すでに大きな山場を制覇?してきたコスモタイガーにとっては、実に単調だ。
ただ「中山道完全走破」だけが心の拠り所。

「吉敷町」の信号を過ぎて約400m。
左後方に分岐する、旧道らしき道が分岐。

案内板もあり、ここから「氷川神社」の参道が始まる。(冒頭写真)
といっても、参道は延々と続き、約2kmも北上した先に本殿があり、周囲は大宮公園として整備されているらしい。

らしい、というのは、手元の資料で確認しただけだから。
心はかなり動いたものの、さすがに往復4kmも寄り道するのはちょっとな~。

その歴史は2000年を越すとされる氷川神社こそ、武蔵一宮とされ、「大きな宮」として扱われ、旧大宮市の語源となってたんだね。

続いての駅前は、「さいたま副都心」。
ここも素通り。

駅間距離が短く、すぐに与野駅前の交差点。
正確には「与野駅東口」の名が付いている。

ここに場違いなケヤキの大木が1本だけある。
「半里塚」と呼ばれていたらしい。

1.5kmぐらい走ると、右手に幼稚園。
隣接するのが「廊信寺」。

手元の資料には、サツマイモの女王、「紅赤」の発祥地なんて書いてあるけれど、都会の中の平凡なお寺にしか見えない。

北浦和駅前も通過。
もうホントに何もない。

中山道の中で、間違いなく今日が殺風景№1。
いいトレーニングだなぁ。

浦和橋で線路の上を通る。
今度は左手にJR、という構図になった。

リサーチ資料によれば、この辺りに浦和一里塚があったらしいけれど、現在は何の痕跡もない。
江戸から6番目、ということだから、あと約24km!

再び繁華街の雰囲気になったと思ったら、マンションの間にひっそりと神社がある。
「三峰神社」。

案内板も地味に整備され、この辺りが二七市場の跡であると書かれている。
毎月2と7の日には、市場が開催されていたんだね。

「仲町」の交差点。
名前からして「浦和宿」に入ったらしい。

こちらは名前の通り、かつての浦和市の中心街。
長々と走ってきた県道も、ここからは国道463、ということになるんだね。

さらに300mほど走ると、「浦和駅西口」の交差点。
左に目をやると、浦和駅。
大宮駅同様、大きなターミナル駅だ。

残りの距離も考慮し、今日はここでゴールとしよう。
中山道だけなら25~26kmぐらい走ったと思う。
でも平坦なコースを延々と道なりに走っただけで、強度的にはたいしたことないんだけどね。
寄り道もそんなにしてないから、実走距離もほとんど一緒かな?

そして残りは、中山道だけを黙々と走れば、約23km。
次回でついに中山道完全走破となるのかな?
いや、最後にしたい!

記念のシャメをパチリ。

市内を少しだけお散歩してたら、陽はすっかり落ちてしまった。
さぁ、ボチボチ帰宅するとしましょうか!
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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(34)

2015-11-09 | 旧中山道run!!

1月も下旬ともなると、すでに正月気分は無い。
プライベートでも最近は何かと忙しく、今日を逃したら・・・と思っていたけれど、本当に晴れてよかった!

今日も早朝の出立で、いつもの乗継。
熊谷駅に降り立ち、バスにするか、前回同様秩父鉄道にするか迷っていたところ、ナイスな接続があったので、秩父鉄道を再度「つまみ食い」して、上熊谷駅下車。

前回ゴールの八木橋百貨店前(鎌倉町交差点)に着いたのは、すでに13時近く。
こんなに時間かけてるけど、すでに峠越えもなく、大半は平凡な街中run。
そしてそれが分かってて、わざわざ名古屋から走りに来る俺。
相当アホやね。

とりあえず散策がてら、前回行きそびれた「熊谷寺」(ゆうこくじ)を見ていこう。
その名が示す通り、地名の由来にもなっている名刹で、八木橋百貨店の1本奥に入ったすぐのところにある。

残念ながら、中には入れないらしく、でも立派な山門が印象的だ。

さぁ、スタート地点に戻り、シャメだけ撮って、今日のトレーニングの開始としよう!

目の前の幹線道路は国道17号。
しばらくは国道runで、旧街道らしさはない。
せめて街中にわずかに残る史跡を求めて、ゆっくり走ろう。
何となく、美濃路編1を思わせる雰囲気ではある。

と、思った途端、最初の信号(本町1丁目)に「本陣跡」。
立て札だけなんだけどね。

熊谷市の中心街、というだけで、これといって見るべきものは、なーーんにもなく、「銀座1丁目」の交差点に出る。
ここで、右の道へ折れる。

雑居ビルの合間を縫うように南下。
ホテルなのかイベントホールなのか、大きなビルの間を通り、JR高崎線、続いて秩父鉄道の高架下を抜ける。

すぐにT字路となり、ここを左折のが中山道。
そのT字路に、「熊谷堤」を示す案内板が建っている。
少し寄り道しよう。

1580年頃に熊谷堤は築かれ、桜の木も植えられた。
江戸時代から大正に至るまで、桜の名所として関東一円で有名だったらしい。

残念ながら1925年(大正14)年、大火に遭い、その大部分が消失。
戦後に荒川の改修工事に従い、新たな場所に堤が築かれた。

万平公園。
これがその旧熊谷堤の一部とされている。
現在は、地元民の方がのんびり過ごす静かな公園となっていた。

折角だからと、すぐ南にある現在の堤防に上ってみる。
目の前には、「荒川」。
名前からして、いよいよ東京、もとい、江戸が近づいたことを実感する。

T字路に戻り、中山道run復活。
まだそれほど走ってないのに、一気に都心の喧騒を離れ、静かなくねくね道になり、ホッとする。
すでに住宅地の様相で、マンションも多い。

と思ったら、「八丁の一里塚跡」。
両側がマンションで、その間のわずかな広場の一角という、物凄く閉塞感のある場所に、ひっそりと建っている。

約500m、そのまま進むと、Y路の分岐路。
ここは、間違えないように、道なりに左を選択。

すぐ先で行止まりになり、今度は右折。
50mも進めば、広い道路を横断し、その先でさっきY字路で別れた道に再合流。
そのまま南下。

右手に「東竹院」というお寺を目印にして、そのまま道なりに。
分岐路は右を選択し、いったん荒川の堤防道路に昇る。

100mほどで、左の土手道を下りると、そこに「権八地蔵」。

白井権八なる人物がここで人を殺し、傍らにあるお地蔵さんに「他言無用!」と言ったところ、「お前の方こそ言うなよ!」と、お地蔵さんに返されたとか。

何やらこの話、歌舞伎の演目にもなっているらしい。
残念ながら、コスモタイガー、歌舞伎には疎くてね・・・。

100m弱で、さっき分岐した道と合流し、そのまま直進。
高架となっている県道257の下を潜る。

この辺りは、随分と街道オーラを感じる、独特のくねくね道だ。
久下神社を左に見て、さらに進む。

変則十字路では、堤防に上りきらず、そのまま直進を選ぶ。
あとはひたすら川沿いにrun。

左側は、一段低いところに、マンションが多く立ち並ぶ。
結構見通しが良く、遠いところに高崎線の行田駅らしき建物も・・・。

ただ、一段高い堤防道路を走っている感で、、「ホントに中山道かいな?」などと思ってたら、堤防脇のマンションの裏手に発見!
「久下新田一里塚跡」。
立て札があるのみ゛、その気がないと見落としそうだ。

堤防道路、2kmぐらい走ったかな?
行政区域的には、熊谷市から鴻巣市に入ってすぐ。
Y字路になってて、ここで左折し、土手を降りる。

と、またまたお地蔵さん。
これまた「権八地蔵」。
何でやねん。

どっちもそれぞれの集落の人たちが、それぞれ大切にしたってことにしといて、次に進もう。

やがて左側に高崎線が近づき、併走。
道はゆるやかな右カーブを描き、高架となっている県道66号の下を潜り抜けて直進している。

が!
中山道はここで歩道橋を渡るのが正解。

手元の地図を確認し、さらに歩道橋から見下ろすと、高崎線が中山道を遮っていて、線路の反対側の道と、今走ってた道が、1本の線で繋がっているイメージが湧きあがってくる。

線路の上を通ったらすぐに歩道橋を降りるとすぐに、「吹上(間の宿)」とある説明板があった。
そう、東海道の有松や岩淵みたいなもんだね。(旧東海道編5、31参照)

変則交差点の「吹上本町」で右折し、そのまま県道66号を走る。
残念ながら、旧街道らしさはなさそうで、そのまま「駅前」の交差点に出た。

南側、少し離れたところにロータリーがあり、その向こうの駅舎は「吹上駅」だ。

「駅前」交差点もそのまま直進だけど、県道のナンバーが、「307」に変わったらしい。
その先でY字分岐となり、県道は左だけど、中山道は右の狭いほうの道で、高崎線に近づいていく。

ここでも高崎線がJRを遮っていて、踏切となっている。
「第四中仙道踏切」の表示に、少しホッとする。

渡ってすぐに左折。
そう、ここも地図上では1本の線になってるから簡単だ。
県道365、ってことだね。

しばらくは線路沿いの単調な道を快走。
と言いたいところだけど、注意しながら走ってたおかげで、無事発見したのが、「前砂一里塚跡」。
歩道脇に、ひっそりと細柱で表記されているのみで、これまたその気が無ければ絶対気づかなさそう。

引続き、道なりに。
郊外の住宅街、みたいな感じで、これといった見どころはない。
まさに、ここが中山道だから走ってるだけ、といったところかな。

しばらくすると、左後方からやってきた、県道76と合流。
ここは「箕田追分」とのことらしい。
追分の真ん中には、地蔵堂とともに、由緒についていろいろ書かれた説明板もある。

江戸から来るとここで2叉に分かれ、左が中山道、右が忍・館方面へ向かう館林道、ということになるんだね。

と同時に、この辺りは「箕田源氏」ゆかりの地でもあるらしい。
簡単にまとめれば、平安末期、都からこの地に遣わされた「源任」なる人物が、そのまま土着して豪族となったとか。

何せ10世紀前半の出来事らしいから、江戸時代からしても随分と昔の話。
源氏といえば、源平の合戦を連想するけれど、それよりさらに250年以上昔の話ということになる。

その源平合戦で大活躍した、頼朝や義経等とも遠戚関係ぐらいはあるんだろうなぁ。
さらにその後に活躍する新田義貞や足利尊氏も、源氏の流れを汲むとされているから、関東一円に源氏が根付くきっかけになったのか?
などと想像を巡らしたりしてみる。

さらに1kmぐらい走ると、左手に「氷川八幡宮」。
箕田源氏及びこの地域一帯の鎮守として古くから篤く信仰されてきたとか。

左に観音堂、白山神社と続くものの、立ち止まるほどの見どころはない。
途中には、ここが中山道であることを示す案内板もあるのはありがたいけれど、街道らしさはあまり感じない。

高崎線を越えるとすぐに「加美」の信号で、県道164号と合流。
ここもかつては「加美追分」と称されていたらしい。

しばらくすると、「鴻神社」。
まぁ、名前からして想像してたけど、コウノトリにまつわる伝説があったらしい。
詳細は省くけど、要するに、コウノトリが巣を作ったから、この辺りの地名が鴻巣なんだね。

ってことで、この辺りから鴻巣宿。

「駅入口」の交差点。
名前の通り、右手奥には「鴻巣駅」があるけれど、コスモタガーは素通りして、もう少し頑張ることとする。

そしてリサーチによれば、この交差点の一角にある古めかしい家屋が、脇本陣跡らしいけれど、何の説明もされていないため、確信もてない。

50mほど走ったところに、「鴻巣宿本陣跡」。
こちらもわずかに標柱が建つのみ。

ここで少しだけ寄り道。
右折して1本西の道に入ると、公園(鴻巣公園)になっている。

その隣にあるのが「勝願寺」。
徳川家から葵の紋を使うことを許可されていたという、名刹だ。(冒頭写真

そしてその敷地の脇に、墓地。
実はこの墓地、内容盛りだくさんで、徳川家康の家臣、伊奈忠次・忠治親子のもの(ごめん、あまり詳しくない)。
そして仙石秀久の墓。
さらには真田信之の正室、小松殿。
随分と豪華メンバーが揃っている。

どのような経緯があって、こんなところに当時の有名人?の墓が集まったのか興味深いけれど、とりあえず今は中山道を走ることを優先ね。

中山道に復帰し、約800mほど走ると、今度は「是よりこうのす宿」の碑がある。
もちろんこれは江戸から来た場合の話で、コスモタイガーにとっては、ここで鴻巣宿終了。

いつのまにか県道の番号が57に変わってるけど、とにかく道なりに進むしかない。
単調な県道run。

さらに進むと、「深井2」の交差点で、県道57は右折していくけれど、中山道としてはさのまま直進。
県道の番号は「164」になった。

もうここまで来ると、今日のゴール予定地点、「北本駅」まで、特に見るべきポイントも無く、ひたすら道なりに走る。
右に浅間神社、左に勝林寺が、わずかに中山道の名残を伝えてくれるのみ。

さぁ、「駅前」の交差点を右折し、すぐに北本駅(東口)到着。
ここでゴール!としたいところだけど、実は1つだけ宿題が残っている。

実は今、県道164に沿って走ったのは、江戸中~末期の中山道なんだよね。
かといって、江戸前期の中山道は、その大半が消失状態で、今となっては辿ることも難しい。

西口にもやや小さめのロータリーがあり、すぐの路地のような、駅に沿う道を、戻る形で北上。
まぁ、しいて言えば、これが江戸前期の中山道に一番近いのかな?

約400mほど先のマンションの庭先のような、あるいは畑のあぜ道のようなところから、と言うべきか、とにかく小さな看板に従って入り込むと、そこに「馬室原一里塚」が現存している。

当然ながら、元々両側にあったわけなんだけど、現存するのは、西側のみ。
ということは、目の前の道が、江戸前期の付替え前の中山道の残存部分ってことやね。

恐らくここからまた右にカーブし、さっきチラッと見た浅間神社の境内を横切ったりして、後の‘新’中山道に合流したんだろうなぁ。

いずれにせよ、この一里塚だけがポツンと存在している形で、リサーチしておかないとかなりの確率で発見は難しい。

再び北本駅に戻ったところで、今日の本当のゴールとする。

中山道だけなら、20km少々。
実走距離、22~23kmといったところか?
でも部分的な上り下りはあるものの、全体的にはほぼ平坦だから、そんなに激しく走った感覚はない。

さぁ、今日もあとは帰宅する「作業」だけ。
東京駅で駅弁を購入し、毎度おなじみ?となった「こだま」号で、のんびり過ごす、コスモタイガーであった。

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コスモタイガー漂走記~旧中山道編(33)

2015-10-16 | 旧中山道run!!

2011年、あけましておめでとうございます!
まだお屠蘇気分の抜けない正月明けの休日。
天気予報では、青い空を期待できそうだ。

前後駅に車を置き、毎度の乗継で、本庄駅に降り立ったのは、12時過ぎ。
すでにこのルートに新鮮さはなく、単なる移動手段。
車中では本を読んだり、爆睡したりして、のんびり過ごしただけ。

北口改札を出て、軽く腹ごしらえを済ませ、記念の駅舎撮影?をして、さっそくスタート!

駅前からまっすぐ進むこと約400m、「本庄駅入口」の信号で、中山道(県道392)に交わる。
もちろんここは右折し、前回の続きになる。
しばらくは若干単調気味の県道run。

見どころもなく、どんどん足を進めると、「日の出4丁目」の信号で、国17バ゛イパスと交わる。

ここでその前に気になる案内板があり、ちょっと寄り道。
左折して道なりに北上すること約600m。
小さな神社とともに、整備された「城下公園」。
かつての本庄氏の拠点、本庄城跡ということらしい。

中山道に戻り、「日の出4丁目」を渡る。
「新泉橋」といって、ここで本庄市から、深谷市になった。

渡り終えた先の十字路を道なりに右折。
その角に建つ小さなお堂が、わずかに旧街道の面影を伝えている。

深谷市に入って、急に静かになり、くねくね感も何気に街道らしい。
気持ちよく足を進める。

まもなく左手に「藤田小学校」があり、さらに進むと「牧西東」という、西か東かわからない名称の信号がある。
実はここ、「牧」の西じゃなく、「牧西」という地名らしく、その東の交差点ってことなんだね。
かつては、この辺り一帯を、「牧西氏」という豪族が治めていたとか。

中山道は、この信号の約100m手前の、右斜めに進む田舎道へ入るらしいから要注意。
しかもいきなりややこしく、直進が行止まりになっていて、いったん右の側道で堤防に上がり、県道の下をトンネルで潜るんだよね。

ポツンポツンと農家らしき家並みが点在し、右手少し離れたところが堤防になっている。
堤防の向こうは、「小山川」。

それにしても今日は見どころは少ない。
それなりに田舎の風情はあるんだけどね。

そのまま道なりに走ると、再び小山川を橋で渡る。
「滝岡橋」というそうで、かつてはここも渡しだったんだね。

土手を下りていく感じで直進。
すぐに国17(深谷バイパス)に差し掛かり、そのまま下を潜る。

ゆるやかに左へカーブ。
街道名物?のお寺や神社も存在し、やっと街道runらしき風景になってきた。

そのまま国17に合流。
しばらくは平凡な国道run。

さすがに首都圏に入ってきたせいか、武州路は、県道run、国道runの割合が増えてきた。
東海道の神奈川県辺りの雰囲気に通ずるものがある。

「普済寺」の交差点。
左手やや奥まったところに、その名の通りの立派なお寺がある。

いわれとしては、一の谷の合戦で活躍した、岡部六弥太なる人物が建立したことになっている。
源平の時代だからね、古いね~。

お寺の裏手には、その「岡部六弥太」の墓もあるそうな。
ちょっと立ち寄って、シャメにおさめる。

そしてこの辺りは2006年まで、その名も岡部町だっただけに、「岡部」の字が目立つ。
交差点も「岡部」だ。

さらに国道を進んで、左手やや奥まったところにあるのが「岡部神社」。
そしてその隣に「源勝院」というお寺が並んでいる。
いずれも年代を感じる、街道らしい史跡だ。

ガソリンスタンドが見えてきた。
ここでやっと左に分岐して、ガソリンスタンドの裏を通る中山道。

500m弱で、「宿根」の交差点で、国17を斜めに横切るけれど、その手前にあるのが「瀧宮神社」で、かなりのオーラを感じる。
手だけ合わせて、すぐに街道に復帰。

「宿根」、要するに宿の根っこ。
まぁ、旧街道を走り慣れ?た身には、ここが宿場の西の端なんだな、と見当が付く。

ってことは、深谷宿に入ったってことだ。
しばらくして常夜灯があり、宿場に入ったことを教えてくれる。

途中から県道265になり、街道特有の微妙な曲線を描きながら、深谷宿の中心に入っていく。

右に郵便局が見えたら、ちょっと寄り道。
すぐの十字路を左折するとすぐに、何やら昭和の匂いプンプンの建物が。

「深谷シネマ」
何じゃこりゃ!
建物自体は中に入ってみたいけど、特に映画好きでもないし、残念ながら、見たいと思う映画は上映されていなさそうだ。

中山道に戻り、そのまま進む。
すぐに現れたのが「本陣跡」。
看板が建つのみで、すでに面影はない。

「仲町」の交差点。
いかにも宿場町らしい町名だ。

ここを右折すると、400mほどで深谷駅に出るんだよね。
鉄道ファンなら、「プチ東京駅」として有名だけど、ちょっと寄り道しすぎちゃったし、「駅舎」自体にはそれほどこだわりのない「時刻表オタク」のコスモタイガーは、そのまま中山道を直進。

そのまま左手には、和洋折衷の大きな建築物。
「大谷邸」と案内されていて、かつての町長さんが住んでいたらしい。
登録有形文化財に指定されている。

常夜灯が現れた。
たぶんここが宿場の東端やね。

「原郷」の信号で、国17を斜めに横切る。
ここからは県道263号。

左に小学校と中学校があるのが目印になるぐらいで、街道を偲ぶものは、ほとんどない。
愛宕神社、御嶽神社があり、ゆるやかなカーブが、わずかに中山道であることを教えてくれる。

道なりに進むと、大型スーパーや事務所が増えてきた。
「籠原駅」がここから南に下ったところにある。
深谷市の副都心的な場所なのかな?
そこそこ栄えている。

ただ、この辺は、街道を思わせる史跡の類もなく、ゆるやかなカーブを繰り返す県道を走るのみ。

随分とペース上げちゃった!
「玉井(南)」で、国17バイパスを渡る。

すぐに、国17の本道に吸収され、その先の歩道橋を渡り、右に分岐。
街道も走り慣れてるから、こういう分岐は得意?なんだよね。

周囲が静かになり、街道らしさを取り戻してきた。
「新島」という集落に入ったらしく、周囲の民家や看板にも「新島さん」がチラホラと・・・。
前々回(旧中山道編31参照)訪問した、新島襄の旧宅を思い出す。

石碑が現れた。
「忍領石標」。
ここからは忍藩で、境界線を示すために建てられたものの1つらしい。

200mほどで、「新島一里塚」。
植木一里塚の別称もあったらしく、江戸からだと17番目の一里塚との説明書きが建てられている。

その先で再び国17と合流。
しばらくはまた国道run。

熊谷警察署の前を通り過ぎ、「石原駅入口」の交差点。
でも少し離れて併走する、JR高崎線には、そんな駅は無いんだけど。

って、実は石原駅は、南西約800mのところにある、秩父鉄道の駅だ。
秩父鉄道か~。
名古屋の人間にはあまり縁がないからね~。
SL観光列車、「パレオエクスプレス」のイメージが大きいけど。
まじ、遠くまで来たもんだな~、しかも日帰りで!

でもこの秩父鉄道との出会い?が、今日のゴールが近いことを教えてくれる。
次の歩道橋のある信号で、左斜めに分岐する、いかにも旧道らしい生活道が中山道。

大きな病院を左に見て、いかにも都市の中心らしい、商店街・オフィス街に入ってきた。
間違いなく、熊谷宿に入ったね。

そして・・・。
あった!
八木橋百貨店!
都会の象徴、デパートだよ、デパート!

ここは現在では、中山道のユニークな名所の1つ。
事前知識がなければ、中山道は、この八木橋デパートに遮られているように思うけど。

構わずそのままデパートの中へLet’Go!
実はこのデパート1Fのフロア通路がそのまま中山道なのだ!
デパート(西)入口左手には、「中山道」の碑も建てられている。

テパートらしく、老若男女、みな優雅に買い物している。
う・・・、いや、さすがにここを汗ダクダクのまま走るのはちょっと・・・。
でも「旧街道を走る」のがコンセプトだから、困ったね~。

とりあえずトイレを拝借。
最低限の着替えと汗を始末し、さっきのデパートの出入口(西口)へ戻る。

いかにも急いでどこかに行くような感じでササッと小走りし、反対側(東口)へ。
はい、本日のトレーニング、これにて終了!!

テ゜パートを出たところが、「鎌倉町」の交差点で、ここにも、この八木橋百貨店が中山道であることを示す、さらに立派なモニュメントが建てられている。(冒頭写真)

実走22~23kmかな?
ただ、全体的に下ってるものの、ほとんど平坦だから、それほどの疲労感は無いけどね。

さて、名古屋に帰るよ。
まぁ、一応デパートもあるから、それなりに都会で、熊谷駅行のバスは、地下鉄なみに頻発しているし、そもそも駅までは1km少々で、歩けない距離でもない。

でもコスモタイガーは、ここでも「つまみ食い」を狙う。
今居る「鎌倉町」の交差点をそのまま南下すること、約300m。
時間にして徒歩5分。

そこには秩父鉄道「上熊谷駅」がある。
なかなか乗る機会ないからね~、秩父鉄道。

本当は全線乗車したい心境だけど、さすがにそんな時間はないからね。
乗ってわずか2分ほどで、すぐに終点「熊谷駅」で、あっけなく「つまみ食い」終了。

正月明けとはいえ、まだまだ日は短い。
すでに夕暮れせまっている。

さぁ、お決まりのコース(高崎線→新幹線→名鉄、要するに往路を引返すだけ)で、帰宅するとしましょうか。

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