
人と社会が、その存在ゆえに有する病巣へのアプローチとしての考想。
常識的なAタイプ世界と、唯我論で展開されるBタイプ世界は、実際問題として何ら変わりがないが、BタイプはAタイプの意識反転であり、ロジックとして「全存在」と「単存在」である。
論理としての「単存在」故に、Bタイプ世界は、心理的に圧倒的に孤独で、身も凍りつくような宇宙である。AタイプとBタイプは心理的なポジとネガの関係と言える。
しかし、この孤独な心理的ネガの世界は、必ずしも否定的なものではなく、そこに身を置くことにより、宗教者の悟り、哲学者の明察、アーティストのインスピレーションの「きっかけ」になりうるものである。
人以外の動物、また幼少の人にBタイプが認識されることはなく、人がある年齢層に達した時に突然Bタイプが認識され、それ以降は人は二つの世界を有することになる。その後も、人の心的世界が無意識にBタイプになることは無く、積極的に意識反転することによってBタイプに身を置くことができる。しかしこれは一般論であり、異常な心理状態にあっては、自己の世界の同一性は定かではない。
Bタイプ世界は、宗教的悟り、哲学的解の一つであり、活性化したリビドーに基づき、Aタイプ世界と明確に関わることにより得られる。つまり、しっかりとAタイプに立脚してこそBタイプが認識される。しかし生き生きとした外界からリビドーが退却し、自己の内側に閉じ込められて、停滞してしまうと、Aタイプ世界の明確性が乏しくなり、その意識反転であるBタイプ世界も同時に不明確となって、両世界の境界線が曖昧となる。これによって無意識に移行してしまったBタイプ世界が、悪しき意味でのネガ世界である。
この悪しきネガ世界は、人間に対し、ある種のモラルの崩壊(モラルハザード)を引き起こす。なぜなら、それはモノクロで、モノトーンな世界であり、およそ他人 の痛みや苦しみを実感できない(それは影絵のよう……)で、ひいては、自分が生きているという実感さえ、危うくなるような場所である。
常識的なAタイプ世界と、唯我論で展開されるBタイプ世界は、実際問題として何ら変わりがないが、BタイプはAタイプの意識反転であり、ロジックとして「全存在」と「単存在」である。
論理としての「単存在」故に、Bタイプ世界は、心理的に圧倒的に孤独で、身も凍りつくような宇宙である。AタイプとBタイプは心理的なポジとネガの関係と言える。
しかし、この孤独な心理的ネガの世界は、必ずしも否定的なものではなく、そこに身を置くことにより、宗教者の悟り、哲学者の明察、アーティストのインスピレーションの「きっかけ」になりうるものである。
人以外の動物、また幼少の人にBタイプが認識されることはなく、人がある年齢層に達した時に突然Bタイプが認識され、それ以降は人は二つの世界を有することになる。その後も、人の心的世界が無意識にBタイプになることは無く、積極的に意識反転することによってBタイプに身を置くことができる。しかしこれは一般論であり、異常な心理状態にあっては、自己の世界の同一性は定かではない。
Bタイプ世界は、宗教的悟り、哲学的解の一つであり、活性化したリビドーに基づき、Aタイプ世界と明確に関わることにより得られる。つまり、しっかりとAタイプに立脚してこそBタイプが認識される。しかし生き生きとした外界からリビドーが退却し、自己の内側に閉じ込められて、停滞してしまうと、Aタイプ世界の明確性が乏しくなり、その意識反転であるBタイプ世界も同時に不明確となって、両世界の境界線が曖昧となる。これによって無意識に移行してしまったBタイプ世界が、悪しき意味でのネガ世界である。
この悪しきネガ世界は、人間に対し、ある種のモラルの崩壊(モラルハザード)を引き起こす。なぜなら、それはモノクロで、モノトーンな世界であり、およそ他人 の痛みや苦しみを実感できない(それは影絵のよう……)で、ひいては、自分が生きているという実感さえ、危うくなるような場所である。
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