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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

Rei

2009-04-21 20:55:28 | 思索
一般には、強迫観念や雑念などで、通常の思考を妨げられる場合を思考障害と言うんだと思うよ。Reiは思考すること自体を問題としてるから、少し意味が違うね。これがReiの意志とは関係なく、心の反応として否応なく考えさせられてること、それをいくら考え続けたって解答には到達しないし、何か事態が良い方向に向かうという訳でもないということもReiは分かってるんだよね。だから考えないというのが正解で、これは間違いないんだけど、実はそれが簡単には行かないんだよな。その思考を止めてしまおうとすれば、捕らえどころの無い不安に襲われそうになる、むしろ考え続けて問題を側に置いておいた方が、何かしら落ち着いていられる。これも一つの法則に基づいた心の動向だね。

いわれの無い事を考えさせられる、その考えを止めると、いわれの無い不安に襲われる。ほら、どちらも、いわれの無いことなんだ。その考えを止めたからって、誰にも迷惑をかけないし、誰も困らない。ただReiが一人、不安になるだけだ。自分が辛いだけなら耐えられるよね。だから安心して考えるのを止めればいい。そして眠れる本来の力を優しく起こしてあげよう。

止めると言うのはね、完全に思考を止めてしまうということでは無いんだよ。そんなことは誰にも出来やしない。その思考は存在するものとして置いておいて、本来考えるべきことを考えるということなんだよ。すると、そのうち向こうが飽きて、人知れず去って行ってくれる。
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現人神

2009-04-20 22:56:28 | 思索
現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。大日本帝国憲法第3条は、天皇を現人神としその神格を認め、その地位を法律よりも上に置くことを規定している。(Wikipedia)

これは第2次世界大戦終結までの天皇の法的位置づけであり呼称であるが、現在もなお天皇は、やはり現人神なのである。人として生まれながら、無条件に国家、国民から絶対的者として崇拝される宿命にある天皇家の人々の苦悩はいかばかりか。様々な人生が人それぞれにある。この素晴らしき人生を味わい生きることができるのは人であるが所以であり、人権として保障もされている。しかるに絶対者である天皇には、己の人生を生きることが許されない。生涯、既に定められ形作られた生き方、在り方に従うのみ。国や社会からただ利用されるだけの存在。人であるにもかかわらず、これは最大の人権侵害と言えるのではなかろうか。自分自身を見つめてみても、無条件に崇められると考えただけで、その場から消えて無くなりたくなってしまう。そういう意味では、ひたすら堪え忍び、国民の天皇でありつづける天皇には驚嘆するし、尊敬にも値する。

昭和天皇の最大の功績は(と言っても、これもその存在を利用されただけなのだが、そうと知りつつ天皇で在り続けたことは功績とも言えよう)、何といっても、戦後日本が速やかに民主国家、平和国家として成立するのに、大きく貢献したことであろう。これは天皇が、国家、国民の真の絶対者であった故に他ならない。しかし現在ではそうもいかない。またそうである方が好ましいのであるが、なるが故に、天皇家の苦しみや悲しみが聞こえてくるのである。もう解放されてもいいのでは?とも思うがなかなかそうもいかないのだろう。これもまた、よく分かる。実に難しい。
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ダイナミクス

2009-04-16 21:07:25 | 思索
寒い、苦手な冬のあいだ、ただひたすら待ち続けるのは、桜の咲く季節。満開の桜に青い空、その下で風を感じる。ただそれだけで胸弾み心踊る。さあ、目覚めるぞ。さあ、始まるぞ。毎年一回、必ず感じさせてくれる幸福。精神は躍動なしには生きられない。停滞の継続は精神を死に至らしめる。精神を停滞から解き放て。ダイナミズムの中にこそ、幾多の生命が生まれ得る。これは個も集団も同じこと。人も社会も同じこと。春はSpring。意味はダイナミクス。
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順応する力

2009-04-14 22:56:57 | 思索
そうだねえ。そもそも「信仰」の根源は「謙虚」なんだろうね。人が世の最高位に君臨するのではなく、自然や環境の中に、決して人が超越し得ない力(これはシステム、あるいはメカニズムかも知れない)を感じ取り、怖れ、崇め、ひれ伏す。つまり、人が万物の長ではないことを認め、素直に自己を否定する「謙虚」。だから異民族、異文化固有の信仰がそれぞれに生まれたんだろうね。瞳や肌の色が違っても、同じ人だからね。この、人と世の本質に基づく信仰心は、ごく自然なことであり、時に必要なことであるとも思う。

しかるに、国策として何かを(これは人でも国旗でもいいが)神、あるいは絶対者に祭り上げ、国民に信仰させるのはいかがなものか。これは思想操作、つまり洗脳に他ならない。実際、東京都や広島県では、入学式や卒業式で国歌を歌わない教員を処罰しているのは知っての通り。国であれ故郷であれ、何を愛し何を忌むかは、個人の選択ではないか。国みずから「国を愛せ」と強要するのは、明らかに人権侵害だ。小中学生の教科書の副読本に「国を愛しましょう」と書くのも同じこと。むしろ教員を処罰するより罪は重い。

しかしまあ、人は何故これほどまでに洗脳されやすいのか、また、思想を同じくしたいと欲するのか。これが人は独りでは生きていけないという意味なのか。人は風土と文化に順応して生きていくことができる。この人を人たらしめる順応する力がすべての源であるような気もしてくる。
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信仰と国家

2009-04-13 23:20:38 | 思索
「信仰」の文字をYahoo!辞書で引くと、神仏などを信じ崇めること、の他に、特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと、とある。信仰する者と、そうでない者との違いは、自身の主体を他におくか、己におくかにおいて表裏のように相反することである。信仰者のことを「主(あるじ)持ち」などと言うが、主従の関係において信仰者は絶対的従者であり、絶対的主によって全てを支配されている。因みに僕は信仰はないので、僕の主体は己であり、何者にも支配されず全ての言動は僕自身の責任に基づいている。

さて、絶対的主に従属する信仰者を、戦前の昭和天皇に対する日本国民に重ね合わせて見ることができる。これは寸分違わない。天皇イコール国家でもあったであろう。国の主権は天皇にあり、国民は皆天皇を信仰する信者であった。天皇を絶対のものと信じて疑わなかったのである。これは正に宗教国といえる。よって天皇のため、国のために国民が命を投げ出すことは大きな名誉であった。これはイスラム原理主義などとも一致する。イラクでは今なお自爆テロが続いているが、自爆する彼らに恐怖など無く、主に命を捧げることはこの上ない喜びなのである。

戦後、天皇は象徴となり主権は国民に移った。ここに日本国民は主を失い、自らが従から主へと転換して現在に至る。天皇制日本帝国も含め、信仰、宗教の名の元に、これまで幾人の人が命を落として来たのだろう。人や集団は如何様にも変わり得るが、国家主義であれ新興宗教であれ、思想統一ほど恐ろしいものはないことを、主体を己とし、自らの責任に基づいて発言し行動する日本人は、決して忘れてはならない。
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一点の曇りなし

2009-04-11 01:34:07 | 思索
憲法第九条は時に、神様からの送りもの、とか、人類の誇り、などと例えられることがある。

互いに他人である二人が話し合って物事を決めようとするとき、その結果に両者の利害が絡む場合、互いが自分に有利な結論を得ようとする自己主張に終始するため、話し合いはいつ果てることなく続き決着することはない。相手がこちらの主張を頑として認めない。ならば最後には相手を殴るのか。殴り合いになったら強い方が勝つ。しかし負けた方もそのまま黙ってはいない。死んだふりをして相手がよそ見をしているときに、頭突きを叩き込むかも知れないし、身体を鍛え技を磨いて、機を伺って反撃するかも知れない。つまり殴り合いによっても問題は決着しない。互いに深い傷を負って、痛みにうめくだけではなく、相手に対する憎しみを深めていく。本当は二人共こんなことは望んではいない、平和に、穏やかに暮らしていたいのだ。しかるに、人の世はかくもままならない。

この図式は、国家間の対立にそのまま当てはまる。相手が言うことをきかなければ最後には殴るのか。他国が言うことをきかなければ、最後にはミサイルを打ち込むのか。暴力が、戦争が何も解決しないだけでなく、ただ悲惨を産み続けるだけであることは、歴史が、また現在が証明しているではないか。ならば、全世界の人々の願いを叶え得るのは「紛争解決の手段として、武力の保有および行使は、永久にこれを放棄する」という解に至る。唯一この方法しかない。これに一点の曇りもない。だから、いつ果てるとも知れない話し合いを根気よく、忍耐強く続けていくのだ。
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今この瞬間

2009-04-07 23:45:37 | 思索
 ☆  ☆  ☆

 違うよ・・

 「昨日」の次の日として「今日」があるんじゃなくて・・
 ただ「今日」の前に「昨日」があるんだ

 「明日」の前の日として「今日」があるんじゃなくて・・
 ただ「今日」の次に「明日」があるんだ

 生きているのは、「今」なんだ!

 ☆  ☆  ☆

 未来のよき思い出のための今じゃなく・・
 過去のわるき結果としての今じゃなく・・

 「今」 生きているこの一点を 真剣に 生きたい


そうだ! 投稿者:ホロン 投稿日:04月07日(火)23時40分35秒

その一点が全てを語ってる。その一点さえ見逃さなければ、何度バランスを崩したって、向こうまで歩いて行くことができる。手で目を塞いで見ないつもりになっていたのは、もう終わりだ。心の目が開いているんだから。
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栞さん

2009-04-06 23:33:52 | 思索
栞さん 投稿者:ホロン  投稿日:04月05日(日)12時26分46秒

昨日は、緊張がピークに達しながらも、頑張って出席してくれてありがとう。栞さんの緊張の話を聞いてたら、emiが初めて出席した時に、お母さんに「緊張して死ぬかもしれない」と、言って出たという話を思い出してしまったなあ。

栞さん、全然心配ないよ。極度に緊張して家を出て、着いたときにはそれがピークに達して色々思い描いていたことも全然できなくて、みんなに気を使わせたと思ってしまって、帰り道に一人で反省会したのも、全て、うつ気分のセオリー通りの心の動きだよ。これは、うつ気分に強引に操作されてのことだから、多少抵抗しても、なかなか覆せるものではないね。これが、栞さんが心の負荷を持っている所以だね。

栞さんの意識とは無関係の、うつ気分の仕業だから何ら心配すること無い。治し得る対象となるものだよ。emiや、はるかが一見、意外に元気に見えて驚いたかも知れないね。特にマイク持たせると、彼女たち別人になるからね。(笑)
でも、深層にはやっぱり深いものが色々あってね。現在表れているのは、ある1つの段階なんだ。その段階によって色々と表れ方が違う。栞さんも、今1つの段階に立っているということだね。
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あんぱん

2009-04-06 23:16:15 | 思索
投稿者:ホロン  投稿日:04月03日(金)00時40分25秒

君のモノの見方考え方は決して甘くはなく、むしろシビアに正確で厳しささえ感じるんだけど、やはり若さが満ちあふれてるって所かな。それで良いんだよ、若いんだから。変に悟ってしまうとつまらないからね。でも、やっぱり、あんぱんは彼にヒドイ目にあったのを、よほど恨みに思ってるんだね。(笑)

好きな奴とは「友達」になれる。嫌いな奴とは「友達」になれない。ただそれだけのことだよ。それがハッキリしてればそれで良い。ただ、何故好きなのか、何故嫌いなのかが、大体の理由は分かる気がするけど、ハッキリしないね。不思議だね。オレは何故あいつが好きなのか、何故あいつが嫌いなのか、と考えると何となくは分かるけど、決定版が見つかりにくいってこと無いかい。友達がすごく沢山いる人、逆にとても少ない人、いるよねえ。これは一体何故なんだろう。
さて、明日からまた東京に出張です。週末まで帰りません。みなさん、よろしく。

投稿者:あんぱん  投稿日:04月02日(木)23時45分06秒

先日は,選挙の話しとか書きすぎたのかどうかは別にして、ただあんぱんとして、あくまで自己紹介の一つとしてカキコしたつもりだった。つまり個人的には、履歴書に毛の生えたようなものっていうのか、出身校名とか企業名とかを名乗るよりも、あんぱんはどういうことを考えて、どんなポリシーを持っているかを言うことこそが、自己紹介の一つだと思ったので、つい書いてしまいました。もし不都合だとしたらごめんなさい。あまりにも無神経だったかもしれませんでした。
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生かされている

2009-04-01 23:42:20 | 思索
金魚鉢の金魚は確かに生かされている。2日もエアレーションを止めれば、確実に死ぬ。幼児の生命はすべて親にゆだねられている。生かすも殺すも親次第。これも生かされていると言える。2例共とても分かりやすく容易にうなずける。しかし自立している大人が”生かされている”とするならば、この概念はなかなかに難しい。教義として”生かされている”キリスト教信者達は例外として、一般人の多くは、自分自らが生きているのだと思っていることだろう。

しかし、神と信者の関係は、一つの分かりやすいヒントを与えてくれる。自然の摂理と人との関係が、正に神と信者の関係に重ね合わせて投影されているかのようにも思える。とりあえずとして、人は自然の摂理に従属して生きており人は自然の摂理をこえることはできない、としても大きな問題はないだろう。

偶然もまた摂理。明日事故に遭遇して死なないとも限らないし、突然大病を患わないとも限らない。つまりは、人は自然の摂理の制約の中で、自然の摂理の意のままに「生かされている」ということになる。そんな今、多かれ少なかれ、幸福を感じることのできる人は、そのように”生かされている”ことに、おのずと感謝が生まれるのであろう。
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何故生きる

2009-03-20 21:35:50 | 思索
人は何故生きるのか?

何のために生きる?そんなものは有りません。人が生きていることに本来的な目的など無いのです。何をしなければいけない?そんなものは有りません。人が生きていることに本来的な義務など無いのです。人が生きるのは虫や草花が生きるのと何も違いません。人の生きる理由は命ある全てのものの理由と全く同じです。

人の生きる理由は最初から定められている仕組みです。人はその仕組みによって生きるように作られています。それは「生きていることを心地よく味わう」ということ。生きることが心地いいこと、という仕組みは世の全ての命あるものに共通して存在しています。

ただこの仕組みが人生の全てを形作るわけではありません。様々な人生があります。多くの不幸がこの世にはあります。「生きることの苦しみ」という言葉も真実であり「心地よい」という仕組みよりも強い説得力を持って人生を語っています。

転んで怪我をした。膝の擦り傷から血が出ている痛い。もうこれだけで心地よさなどからは遠く離れていますね。多くの問題が「心地よい」仕組みから人を外しますが、逆に捉えると、今心地よくないのは何かの問題によって本来的な状態ではなくなっているということです。当たり前ではないかと思われるでしょう。しかし、これは本来の自分ではないと認識することが本来の自分に戻るための強い力となるのです。

精神活動に話を絞ります。
人と関わるとき、もし何らかの辛さ、何らかの苦しさを感じるなら、それは本来の自分では無いということです。例えば性格の差異などに納めてしまう必要はないのです。どのような性格もそれは全て良きもの。生きることは本来的に心地いいものなのです。
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ryo-

2009-01-20 21:23:25 | 思索
元気?

ふと、声が聞きたくなった。
声に笑顔が見たくなった。

笑顔はみな素晴らしい。
子供も、少年少女も、年寄も。
人生は素晴らしい、と笑顔は頷かせてくれる。

やれやれ、僕は何を言ってるんだろうね。
もしかして.....弱音?
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心と詩

2008-12-05 23:43:13 | 思索
今朝は冬の嵐。激しい雨が窓を打つ音に、時折雷鳴も鳴り響いていました。今日も朝から一人居室に籠り、「システム設計教本」の続きを書いていましたが、つい時が過ぎるのを忘れて、11時のミーティングに出るのを忘れてしまいました。午後は得意の昼寝の長寝をしてしまって、身体も頭もダルダルです。

そうですね。
時の流れの中で、体内の揺らぎに呼応して、人は何かを発する。それがどのような形態のものであれ、それは「物語」となり得る。また、その背景には「物語」が存在する、とも言えるでしょうか。

詩や散文、絵画や音楽など、全ての芸術には一般理論があるのでしょうが、最終的には個々人の主観、感応する心にゆだねられますね。便宜上の枠組みは、いくらでも越えていけるものだと思います。

Wordsをなかなか更新できないのが、一つの悩みです。(笑)
私が病理としての心の病に陥って、身動きが取れない状態から少しずつ力を取り戻していった過程で、自分なりに、どのように考えたかを記述するというのが基本スタンスなんですが、既に早々とネタ切れ状態です。ホントはもっと沢山あると思うのですが、一つのまとまった文にするのは、やはり難しいですね。

次は「思考のマイナースパイラル」と、タイトルまでは考えてあるのですが、アップできるのは、さて、いつになることやら。気長に見守ってやってくださいね。(^^)
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不在

2008-11-29 04:23:23 | 思索
こんばんは、ホロンです。

「それから」「不在」...。このところ、題名に妙に惹かれるものを感じています。

グールドの命日は10月4日だったんですね。それから、聖書の件、調べていただいて、ありがとうございました。僕もネット検索を試みてみたんですが、やはり一般的には神を指すのは「ヤハウェ」で、「エホバ」は誤訳のようです。

CDページで、ブルックナーの8番を思いっきり褒めて、思いっきりケナしたレビューを書いたのですが、”つまんないけれど、感動する時は半端じゃない”というのが正直な思いです。

で今はというと、ガーシュインの「ラプソディーインブルー」を聴きながらキーボードを叩いています。ガーシュインの、何と軽快で楽しく美しいことか。これに比べると、ブルックナーはやはり、お、重い。

僕もけっこう、あぶな絵はいろんな所に隠してますよ。(^^)

ではでは。
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馬娘

2008-11-22 00:58:15 | 思索
僕は馬娘に用がある。だから馬娘も僕に用がある。馬娘は僕に用がある。だから僕も馬娘に用がある。これは関数。

馬娘の用が消えたら、たぶん僕の用も消えるのだろう。ただ消えるのではない。苦悩を握り締めてかき消すのだ。そうしなければならないから。本当に消したいなんて、あるはずもない。

「用がある」を別の言葉で言い換えると「好き」になる。ただ”好き”では多分に語弊があるのでこれは補足が必要だね。

嫌いな奴はたくさん居る。居るさ。事務所の中は嫌いな奴だらけ。でもね、さほど多くはないけれど、好きな人も確かに居るんだ。用がある、つまり好きとはそういうこと。そんな好きな人達と、時間を共にするのは幸福なこと。できるだけ長く共有していたい。

僕がすべての人を好き。これはあり得ない。すべての人が僕を好き。これもあり得ない。ならば、すべての人を求めるのは、もうやめにしよう。

僕が用のある人、つまり僕に用のある人と、長く穏やかに付き合っていこう。これは拒絶ではない。今用のない人も、ある日、声を聞くかも知れないのだから。
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