チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

愛楽園で沖縄戦1フィート映画上映

2010年07月27日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡

 (名護・屋我地島のハンセン病療養所、愛楽園の正面入口)


 27日、1フィート運動の会が、愛楽園で初めて沖縄戦の映画を上映するというので、参加させてもらった。愛楽園自治会も共催なので、きっと大勢の入所者の方が集まるだろうと楽しみだ。今も、247名(2010年6月現在)の方がここで暮らしておられるという。

 愛楽園には、前回の名護市長選のポスター張りの際に来たが中に入るのは初めてだ。正面入口は広々として、フェンスもなく、道路を走っているとそのまま園の中に入る。昔は、厳密に隔離され、米軍の布令でも「脱走した場合は死刑」とされていたということが信じられない。



 (島に渡る屋我地大橋から見える「逃れの島」ジャルマ島)

 沖縄はハンセン病患者の多いところだったが、療養所の設置は、各地で猛反対に会い、患者たちは隔離されたまま放置されていたという。
 1927年、青木恵哉牧師が沖縄の病者への伝道のため派遣された。彼は、1894年、徳島県に生まれ、16歳でらいを発症。香川県大島青松園に入園した後、キリスト教に入信。沖縄に派遣されたときは、34歳だった。
 青木牧師は、沖縄各地で、病者と共に掘っ立て小屋やガマに住むなどして伝道生活を続け、差別と迫害の日々の中、療養所建設に奔走する。
 1935年、青木らが住んでいた住宅が焼き討ちにあい、10数人の患者たちがたどりついたのが「逃れの島」・ジャルマ島だった。しかし、この島は、昔からの風葬の島で、水もなく、とても人間の住めるところではなかった。

 島に渡る屋我地大橋の手前には、「青木恵哉牧師『のがれの島』の碑」が建っている。
 「魚ならば海にもぐりても生きん
  鳥ならば空に舞い上がりてものがれん」


 (青木恵哉牧師)

 青木牧師たちはジャルマ島に6ケ月住んだ後、屋我地の大堂原(うふどうばる)にやっと土地を得ることができた。こうして1935年12月28日の寒い夜、ジャルマ島から15人が上陸して今日の愛楽園の基礎が築かれたが、やはり偏見や差別・迫害の中での苦難の毎日だったという。


 (愛楽園発祥地にある井戸。青木牧師が掘ったという。)



 (広々とした愛楽園内部。今も、247名の人たちが入所している)

 こうして1938年11月、県立国頭愛楽園が開園した。

 公会堂で映画の準備を済ませた後、園の中を歩いて見学させてもらった。
 内部は30万平方メートル(約10万坪)もあり、広い。居住棟の辺りを歩いていると、時々、患者さんたちと会う。入所者たちの平均年齢は、もう80歳にもなるという。足が悪く、電動車イスに乗っている方が多い。皆、「こんにちは!」と、にこやかに声をかけてくださる。

 沖縄戦当時、軍は県内各地の患者たちを強制的に愛楽園に収容した。当時の入所者は約1000人。
 園は、米軍に海軍の兵舎と間違われ、「10.10空襲」から始まる空襲の標的にされ、連日、爆撃を受けたという。


(すさまじい弾痕跡が残る水タンク)





 (早田壕)

 愛楽園の中央の丘には、長さ約1000mもある防空壕が掘られている。当時の園長・早田皓が、米軍の攻撃にそなえて、手足の不自由な患者も総動員して掘らせたものだ。患者たちは、クワやスコップを縄で腕に縛り、掘ったという。
 健康な者でも生傷のたえない壕堀作業に、手足の抹消神経が犯され、痛みを感じることのできない入所者たちが動員された、怪我に気づく頃には、傷口は化膿してしまっていたという。
 しかし、この壕のおかげで、913人の入所者全員が避難することができ、爆撃による死者は1人だけだった。しかし、食料難からの栄養失調、病気、マラリアなどで、1944年9月から翌年12月までに289人が死亡した。
 糸満市にある「平和の礎」には沖縄戦で亡くなった全ての人が刻銘されているというが、愛楽園で亡くなった犠牲者たちの名前はないという。




 (二枚貝の鋭い刃が、痛みを感じることのできない患者たちを傷つけた)



 (愛楽園にあった済井出小中学校)

 園には、1951年から1981年まで、済井出小中学校が設置され、療養生活の中、253人が教育を受けた。県内の高等学校には、どんなに優秀でも進学できず、岡山の療養所内の定時制高校に行かなければならなかった。
 済井出の生徒は、人間らしく学びたいと園を脱走するものが多かったという。



 (旧面会室の建物がそのまま残っている)

 面会人が訪ねてきた際、入所者の部屋に入ることは許されておらず、面会室で面会した。面会室は部屋の真ん中が壁で仕切られており、職員の立会いのもと仕切り越しの面会しかできなかったという。


 (声なき子供たちの碑)

 強制堕胎により、世の光を見ることなく葬られた子どもたちのための碑。





 (公会堂で行われた映画には、200名以上の方が参加された。)


 (当時の早田園長の映像も上映された)

 新しく見つかった米軍が撮影したフィルム。1945年7月当時の早田園長の診察の様子などが写されている。


<最後に>
 1996年、「らい予防法」が廃止され、1998年には、「ハンセン病違憲国家賠償訴訟」が起こされた。2001年5月、国の責任を認める判決が出され、高まる世論の前に国は控訴を断念する。





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