田中正平 その3
田中は1907年(明治40年)7月、「美音倶楽部」を設立した。
月例の邦楽・邦舞鑑賞会で、
資金は大倉財閥総帥の大倉喜八郎や
演劇評論家の幸堂得知らが出す。
「美音倶楽部」は、田中の研究も兼ねるのだ。
同じ年の秋、東京音楽学校に「邦楽調査掛」が設置された。
「西洋音楽ばかりやっていていいのか」、
と明治天皇に直訴した平曲家、館山漸之進に押され、
文部省が動いた形だ。
その長に任命されたのが、田中。
まさに適材適所。
田中は「邦楽研究所」での仕事の延長で、
五線譜採譜、録音に取りかかった。
〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚
田中は1907年(明治40年)7月、「美音倶楽部」を設立した。
月例の邦楽・邦舞鑑賞会で、
資金は大倉財閥総帥の大倉喜八郎や
演劇評論家の幸堂得知らが出す。
「美音倶楽部」は、田中の研究も兼ねるのだ。
同じ年の秋、東京音楽学校に「邦楽調査掛」が設置された。
「西洋音楽ばかりやっていていいのか」、
と明治天皇に直訴した平曲家、館山漸之進に押され、
文部省が動いた形だ。
その長に任命されたのが、田中。
まさに適材適所。
田中は「邦楽研究所」での仕事の延長で、
五線譜採譜、録音に取りかかった。
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tea break・海中百景
photo by 和尚