田中正平 その2
東京音楽学校の現状を知った田中は、
「国がやらないのなら俺がやる!」
と、自宅に「邦楽研究所」を開き(1905・明治38年)、
淡路島から上京したばかりの書生、山田舜平らを助手にして、
河東節や長唄の五線譜採譜を開始した。
田中は15年もドイツで暮らしたのに、少しも西洋かぶれせず、
むしろ逆に、日本音楽を渇望し続けていたのかもしれない、
当時としてはまことに奇特なインテリだ。
このころ蓄音機はあるにはあったが、まだまだ普及しておらず、
生音を聴いて採譜する以外に方法はない。
山田は、直ちに研精会の吉住小三郎に入門。
稽古場に詰め、稽古をつける師の節を五線譜に採り始めた。
これが後に“研譜”といわれる数字譜に発展するのだが、
山田はよほど几帳面な性格だったとみえる。
小三郎の節が微に入り細に入り記録されている。
〓 〓 〓
tea break・海中百景
photo by 和尚
東京音楽学校の現状を知った田中は、
「国がやらないのなら俺がやる!」
と、自宅に「邦楽研究所」を開き(1905・明治38年)、
淡路島から上京したばかりの書生、山田舜平らを助手にして、
河東節や長唄の五線譜採譜を開始した。
田中は15年もドイツで暮らしたのに、少しも西洋かぶれせず、
むしろ逆に、日本音楽を渇望し続けていたのかもしれない、
当時としてはまことに奇特なインテリだ。
このころ蓄音機はあるにはあったが、まだまだ普及しておらず、
生音を聴いて採譜する以外に方法はない。
山田は、直ちに研精会の吉住小三郎に入門。
稽古場に詰め、稽古をつける師の節を五線譜に採り始めた。
これが後に“研譜”といわれる数字譜に発展するのだが、
山田はよほど几帳面な性格だったとみえる。
小三郎の節が微に入り細に入り記録されている。
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tea break・海中百景
photo by 和尚