西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

十六利勘その7

2016-04-03 | 浮世絵
歌川国芳(寛政9~文久元・1798~1861年)の浮世絵
「妙でんす 十六利勘」(弘化2・1845年)をもう一つ。
タイトルは「通損者(かようそんじゃ)」
損者のそばに立っている弟子が徳利を持っているのが面白い。

    


書き入れを見てみよう。
「しんだい(身代・財産)の さいく(細工)のいとがきれると ぐあいがわるく 
 これをからくりにたとえて おしえたもう
 そもそも かよ(通)うという名のついたものに とく(得)なものはなし
 ふかくさのしょうしょう(深草少将)は 小町がもとにかよって 身をほろぼし
 じゅうろう(曾我十郎)は 大いそへかよって さかずきろん(盃論)でこまり
 はつがつお くうとて 七ツや(質屋)へかよう
 あわせ嶋 かようちろり(酒器)のおときけば いくよねざけの そばのおさかな
 (淡路潟 通う千鳥の声聞けば いく夜寝覚めの 須磨の関守、のもじり)
 さかやも そばやも どっさりかりができ
 まくらにかよう 梅がえ(梅の枝)も もしうつりが(移り香)とや うたがわん
 京まちのねこ かよいけるも あげやまちで いぬにおっかけられ
 とうふやへかよう でっちは とんびにはな(鼻)を ひっかかれ
 びろう(汚い話)ながら せついん(せっちん・厠)へ たびたびかよえば しりがひえて 風をひく
 しょうべんに あまりかようは りんてき(淋滴・膀胱炎)なり
 口あたりのよい所へも あんまり かよいすぎると きざ(嫌)がられ
 ほれてかよえば 千里も一理 なぞと 手まえがってを いえども
 あとでは そこまめ(足裏のまめ)で なんぎ(苦しむ)し
 うらないしや(占い師屋)へ たびたびかようのは ひ(日)にまよう事があり
 しんるいへ たびたびかようのは いずれろくなそうだんはなく
 となりどうしで きやすく あんまりかよいすぎると まちがいができ
 ふねや よつで(四つ手・駕篭)で (吉原に)かよいすぎると
 ついにこの身は とっくり(とっぷりを徳利に言い換え)と
 ならのはたご(旅籠)や みわの茶や つかいはたして 二ぶものこらば(「冥途の飛脚」に出てくる台詞)
 しんだいを ぼうにふること がんぜん(眼前・明らか)なり
 そこで かようはそんじゃ すばらしい
 そんじゃ(それでは)きっと ことわった(言った)よ
 いろいろと いましめたもう」

深草少将は小町のもとに百日通いをするが、満願成就を目前にして、九十九日目に死んでしまう。
「盃論」とは、幸若舞の「和田酒盛」に出てくる大磯での酒宴の話だ。

大磯の遊郭で虎(海道一の遊女の名・十郎の恋人)に会っていた十郎。
そこに和田義盛が居合わせ酒宴を始めた。
曾我兄弟の後援者でもある義盛は、十郎と虎を部屋に呼び、
虎に自分と十郎のどちらかに「おもいざし(好きな人にする)の盃」をしろと言う。
虎が十郎に盃をさしたため、その場が険悪になった。

  

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