ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 番外編の2 母の戦中記

2010年08月04日 10時11分34秒 | 介護な日々
引き続き、今回は母の戦時中の話です。

折りしも今年、母が長年入っているとある主婦の会から、
創立80周年を記念して「わたしの戦争体験」という小冊子が発行されました。

この主婦の会は全国組織でもあり、そして全国各地に地域拠点があります。
(会員数は母所属の地域の会で900人弱、全国では2万人を越える規模になります)

そのうちの、母の所属の会で上記の小冊子が作られたのですが、
そこへ母も寄稿しております。
正確には母から聞き取った内容を、母方の親族の方のお話を参考にしつつ
ちい兄がまとめたものなのですが、
今回はそれを元に母の戦時中の様子をお話します。

以下、イラストスケッチはちい兄・画です。

母は和歌山市の中心部の生まれで、その父(私の祖父に当たる人)は
市の紡績会社に勤めていました。
当時の和歌山市は産業も盛んに行われていましたが、
祖父は戦況を見て何か思うことがあったらしく、いち早く疎開を決めて
昭和18年、祖父の実家近くの船着村(現日高川町)に、移り住んだそうです。

(イラスト中央右の家がそうです)
母の二人の兄は当時二人とも従軍中で、姉は他家に嫁いでいたので、
母の両親と長兄の嫂、その二人の子どもと、計6人で暮らしていました。
 
平屋の家は二畳・四畳の二間と台所、小さな玄関
それから五右衛門風呂はあったそうですが
水道もなく、家の裏には小川がありましたが、
すぐ前に生活用水の清流があるので、そこから桶で水を汲んでいたそうです。
そして作り付けの二つのかまどで、薪をくべて炊事をしていました。




(戦後はこのように玄関先で駄菓子を少し売っていたそうです)

母は近くの国民学校で教鞭をとり、祖父は農林業の手伝いなど日雇いで働き、
嫂は小さな畑でアブラナなどを作って食材にあてるなど
かなり貧しい生活を続けていたようです。
五分がゆにたくあんなどの漬物、たまにサツマイモがあれば良いほうだったとか・・・。
裏の小川は魚も取れず、日高川の本流には鮎もいたけれど
急流で簡単には釣れなかったみたいです。
母は食べなかったそうですが、子どもたちにとっては
その辺でとれるイナゴもごちそうだったとか・・・。

学校では竹槍を使った演習がありました。
国民学校(今の小学校と中学校の前半までくらい)を卒業すると
青年学校・・・これは今で言う中学・高校レベルの学校に進学します。
こちらは男子はほぼ義務化されていました。
中等教育が目的ではありましたが、実質は職業科目と言う名目で
勤労動員になっていたようです。

(母が教員の頃。裏に「昭和二十年三月 中津尾船月村小学校教員時代」と書かれています。
しかるに、「船月村」は「船着村」の間違いではないかと。
ちなみに最後列中央の女性教員の真ん中が母です。)

母の長兄は戦時中住んでいた満州から徴兵されたそうで、
その際祖母が嫂と幼い子供二人を迎えに行って日本に連れ帰りましたが
結局長兄はその後戦死したそうです。
その頃は戦争で夫が亡くなっても再婚は考えられない時代でした。
嫂は苦労しながら小さい子供をひとりで育て上げたということでした。

母の手記の内容はここまでです。

その嫂さんはその後大変なご苦労をされましたが
立派にお子さんを育て上げられ、一昨年92歳で天寿を全うされました。
私はお会いしたことはありませんが、老後は穏やかに暮らしておられたそうです。
でも、母はよく「Yさん(嫂)はほんまに可哀相やった・・。」と申しておりました。

それからはっきりしないのですが、戦後どなたかの紹介で父と母は結婚しました。
父に聞いた話ですが、なんと結婚式当日までお互い会ったことがなかったそうです。
その頃は結構そんなものだったそうですね。

母が結婚してここを出た後も、祖父が亡くなった昭和35年頃までは祖母たちが住んでいたそうです。
当時ちい兄は、お兄と一緒に母に連れられてその家に遊びに行き、寝泊りしたことがあったので、
その記憶を二人で辿りつつ、今回アップしたスケッチを描いてくれました。


この写真は1977年(昭和52年)に撮影したその後のその家ですが
おそらく改修されたであろう家にどなたかが住んでおられたようで
更に近年その嫂さんの子供たち(私たちにはいとこ)が訪れたらまだ家があったそうです。

それと、必要があって父の戸籍を、生まれた頃まで遡って取り寄せたのですが、
うちの長兄つまりお兄の生年月日と両親の婚姻届の年月日を見比べると・・・・
「ええっ? できちゃった婚か?!」という日付になっています。
なんのことはない、戦後の混乱で届出が出来なかったため
そんなことになってしまっただけなのですが、初めて見たときはちょっとびっくりでした。

また、父方の祖父母や親族関係の戸籍を見ると、やたら同じ誕生日が多いのです。
これらもきっと戦争中に原簿が失われ、改めて作り直したときに
もうわからなくなっていたので適当な日付をいれたのかもしれません。


母のもう一人の兄は幸い無事に帰国し、今も健在で電話の向こうから達者な声が聞こえます。
母の姉も90歳を越え、そちらも認知症で施設暮らしをしているとか。
母はまだ会話も出来ますし、感情も豊か(豊か過ぎて困る時も?)ですが
伯母の方は、元気でよく喋るけれども(やはり文句ばかり言っているとか!)
ご自分の子どもでさえ誰なのかよくわかっていないようだと聞いています。


当たり前のことではありますが、戦争体験を語れる人はどんどん少なくなっていきます。
次には私たちが更に子どもたちに伝えていかねばなりません。

母は今でも前述の主婦の会の会員でいます。
活動にはほとんど参加できませんが、籍だけは置かせていただいています。
今回こうした折に、少しでも会に係われたことは嬉しかったようです。

最後に、母の女学校時代の修学旅行の豪華写真集からの1ページを。
(ハードカバーですよ。・・・しっかりした装丁なので今もきれいです。)
昭和14年の和歌山市立高等女学校の修学旅行で、最終の行き先は北関東。
まだ各地で宿泊しながら何日かかけないと東京に行けなかった時代です。
伊勢・熱海・箱根・江ノ島・鎌倉など寄りながら、東京では上野や明治神宮
そして最終は日光東照宮まで足を伸ばし、帰りは信濃路、善光寺から名古屋城にも寄って、
なんと7泊8日にも及ぶ大旅行ですよ~。

当時は女性が旅行する機会など一生に一度あるかないかだったので
豪勢に日程が組まれたのでしょうね。
折りしも世界は第二次世界大戦の真っ只中。
この翌々年には日本全土が戦乱の渦中に飛び込んでしまうのは
歴史上の事実であること、みなさまご存知のとおりです。

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