おかんがえらかったらおとんもえらいで。
親バカとゆうのはあるけど、これは何バカやろか??
おとんは今から思うに静かなおとんでした。
大正生まれやけど上下女の男ひとりというきょうだいやったせいか、
むかしっから亭主関白とは全然ちゃうし、マメやし。
「家事はなんもようせえへん」と言いながらも出来ることはしてたと思います。
・・・確かに現役時代はうちのことなんもせんかったみたいですが
けどちょっともえらそうな態度はとらへん。
ようおるでしょ、うちのことなんもせえへんしでけへんのに
”口は出すけど手はださん、態度だけはえらそーな封建時代的な男”
一昔前の頑固親父みたいなー。
そういうのとは全然違いましたね。
・・・おとんは関東軍に所属した元スナイパーでっせ。
満州の国境線で工作する精鋭部隊におったんでっせ。
ホンマならハードボイルド路線と言いたいとこやけど・・・・
戦後は営業畑で会社役員もしてましたから大変社交上手やったと思います。
うちでは静かなのに外ではホンマおしゃべりやったし。
ある日ちゃちゃめに付き添って日本橋の電気屋に
当時出始めのビデオデッキを買いに行った時なんぞ
すっごい駆け引き上手で店員さんをうまいこと持ち上げてキッチリ値引きさせ、
結局こっちの言い値で商品を売らせました。(マジ恥しかった・・・・)
でも、うちではホンマ静かで、無口とはちょっとちゃうんですが
波平さんのように怒鳴ったことはほとんどなし、
少なくともちゃちゃめは叱られた覚えもほとんどありません。
おかんにはしょっちゅう叱られ怒られ説教され諭され小言をいっぱい言われましたけど
おとんは・・・。まあ、ダブルで叱られたらたまりまへんがな。
前後のいきさつは忘れましたが、何かでおかんに叱られたときのこと。
部屋でしょげてたんかなあ、あんまり覚えてへんのですが
ひょこっとおとんが覗いて
「まあな、うちのお母さんは厳しいからなあ。」
と、ひと言・・・。
あれっ??
・・・と思ったのを覚えてます。
ついでに、そうなんや、うちのおかんは厳しいんか~、とも思いましたが。
こどものことは大筋ではおかんに任せる。
けど、フォローは忘れへん、そんな感じやったんでしょうか。
まあでも、女きょうだいに挟まれた上おばあはん(おとんのおかん)も厳しめのヒトでした。
気の強い女衆に囲まれて?タイヘンやったろうと今になって思います。
でも、「嫁に来たおかんはもっとタイヘンやろう」
そう思うてたんか、おとんはおかんには好きにさせていました。
主婦の会に入っていたから専業主婦ながら昼間もおれへんことがようある、
晩御飯の用意もしやんと全然帰ってけえへん、
そして時々うちで例会を開いてたくさんの人が訪れる、
でもおとんは、”晩御飯の用意ができてへんのに帰ってこーへん”こと以外には
ほとんど文句は言いませんでした。
それどころかいつやったかウチに、
「お母さんはいっぺん出て行ったらいっこも帰ってけーへんわ」と苦笑いしつつ
「けど、あれ(主婦の会のこと)があの人の生きがいやさかいにな。
それを辞めさせるわけにはいかん。」
と、全面的におかんの人生を尊重しておりました。
自分がちょっと我慢したらすむこっちゃと思うてたんでしょうか・・・。
他でもいろんなことで辛抱と忍耐をし続けたと思います。
この年代の人にしては珍しいほど、うちでもどこでもふんぞりかえることなく、
トシがいくとみなわがままになるといいますが、そうゆうこともなく、
認知症になったおかんのことを最期まで支え続けて
「お母さん見送らな、ワシが先に死なれへん。」とゆうてました。
ちょっと頑張りすぎて、結局先に倒れて逝ってしまいましたが・・・
とにかく、SセンターのT先生が脱帽したゆうのもおましたが、
めちゃめちゃ我慢強い人でした。
・・・てことは、やっぱハ~ドボイルド~!!?
ウチは5秒で音を上げる超ヘタレでっけどな(笑・・・てええんか?)
親バカとゆうのはあるけど、これは何バカやろか??
おとんは今から思うに静かなおとんでした。
大正生まれやけど上下女の男ひとりというきょうだいやったせいか、
むかしっから亭主関白とは全然ちゃうし、マメやし。
「家事はなんもようせえへん」と言いながらも出来ることはしてたと思います。
・・・確かに現役時代はうちのことなんもせんかったみたいですが
けどちょっともえらそうな態度はとらへん。
ようおるでしょ、うちのことなんもせえへんしでけへんのに
”口は出すけど手はださん、態度だけはえらそーな封建時代的な男”
一昔前の頑固親父みたいなー。
そういうのとは全然違いましたね。
・・・おとんは関東軍に所属した元スナイパーでっせ。
満州の国境線で工作する精鋭部隊におったんでっせ。
ホンマならハードボイルド路線と言いたいとこやけど・・・・
戦後は営業畑で会社役員もしてましたから大変社交上手やったと思います。
うちでは静かなのに外ではホンマおしゃべりやったし。
ある日ちゃちゃめに付き添って日本橋の電気屋に
当時出始めのビデオデッキを買いに行った時なんぞ
すっごい駆け引き上手で店員さんをうまいこと持ち上げてキッチリ値引きさせ、
結局こっちの言い値で商品を売らせました。(マジ恥しかった・・・・)
でも、うちではホンマ静かで、無口とはちょっとちゃうんですが
波平さんのように怒鳴ったことはほとんどなし、
少なくともちゃちゃめは叱られた覚えもほとんどありません。
おかんにはしょっちゅう叱られ怒られ説教され諭され小言をいっぱい言われましたけど
おとんは・・・。まあ、ダブルで叱られたらたまりまへんがな。
前後のいきさつは忘れましたが、何かでおかんに叱られたときのこと。
部屋でしょげてたんかなあ、あんまり覚えてへんのですが
ひょこっとおとんが覗いて
「まあな、うちのお母さんは厳しいからなあ。」
と、ひと言・・・。
あれっ??
・・・と思ったのを覚えてます。
ついでに、そうなんや、うちのおかんは厳しいんか~、とも思いましたが。
こどものことは大筋ではおかんに任せる。
けど、フォローは忘れへん、そんな感じやったんでしょうか。
まあでも、女きょうだいに挟まれた上おばあはん(おとんのおかん)も厳しめのヒトでした。
気の強い女衆に囲まれて?タイヘンやったろうと今になって思います。
でも、「嫁に来たおかんはもっとタイヘンやろう」
そう思うてたんか、おとんはおかんには好きにさせていました。
主婦の会に入っていたから専業主婦ながら昼間もおれへんことがようある、
晩御飯の用意もしやんと全然帰ってけえへん、
そして時々うちで例会を開いてたくさんの人が訪れる、
でもおとんは、”晩御飯の用意ができてへんのに帰ってこーへん”こと以外には
ほとんど文句は言いませんでした。
それどころかいつやったかウチに、
「お母さんはいっぺん出て行ったらいっこも帰ってけーへんわ」と苦笑いしつつ
「けど、あれ(主婦の会のこと)があの人の生きがいやさかいにな。
それを辞めさせるわけにはいかん。」
と、全面的におかんの人生を尊重しておりました。
自分がちょっと我慢したらすむこっちゃと思うてたんでしょうか・・・。
他でもいろんなことで辛抱と忍耐をし続けたと思います。
この年代の人にしては珍しいほど、うちでもどこでもふんぞりかえることなく、
トシがいくとみなわがままになるといいますが、そうゆうこともなく、
認知症になったおかんのことを最期まで支え続けて
「お母さん見送らな、ワシが先に死なれへん。」とゆうてました。
ちょっと頑張りすぎて、結局先に倒れて逝ってしまいましたが・・・
とにかく、SセンターのT先生が脱帽したゆうのもおましたが、
めちゃめちゃ我慢強い人でした。
・・・てことは、やっぱハ~ドボイルド~!!?
ウチは5秒で音を上げる超ヘタレでっけどな(笑・・・てええんか?)