内倉真裕美の晴耕雨読

恵み野は「花の街」と言われています。HP「内倉真裕美のガーデニングダイアリー」もご覧下さい。

まちを舞台に①はじめに

2019年09月28日 10時53分09秒 | まちを舞台に

恵み野に新居を構え移り住んだのが1988年3月。

今では「花のまち恵み野」と呼ばれるようになった恵み野。

私がここに来て「まちを舞台に」楽しい時を過ごしてきた31年の歴史。

少しづつまとめた方が良いかな、という気になって、

少しづつ、少しづつ記憶をたどりながら始めましょう。

 

 

1988年3月

長男シンゴ10歳4年生、次男ダイスケ8歳2年生、長女サユリ2歳

恵み野に決めたのは昭和55年5月、実家に戻り次男が生まれたばかりの病院のベットにいたときのこと。

主人(春男さん)が新聞を持って来て「恵庭に分譲住宅が出来ることになった。抽選会があるようだけど行ってみようかな?」

その言葉に、私は迷わず賛成!

 

そうして・・・

第1期の抽選会で恵み野の住宅地を引き当て、8年後の1988年、恵み野の住人となった。

 

「ホビーショップきゃろっと」を同時オープン。

きゃろっとは商店街に面していて、店舗付き住宅。

元々購入した場所は一般住宅で、ココに場所を変えるのを希望したのは私。

「駅に近く便利だし、趣味を生かしながらお店をしたい」と主人を説得。

どっちでも良かった春男さんは、面倒な手続きは自分ですることを条件に承諾してくれた。

 

そのころ虻田町(洞爺湖町)にいた私は、隣町の伊達市の銀行と恵み野にある住宅公社に

1日がかりで3人の子どもを連れながら、書類をそろえては何度も往復した。

時には書類が足りなかったり、ちょっとした不備で一日を棒に振ったこともあった。

お店をするにあたっても、独身時代仕事で取引のあった

札幌の手芸材料や生地を扱う問屋さんにも何度も何度も足を運んだ。

 

手芸店にしたのは取引先を知っていたのはもちろんだが、

物が腐らないし、子ども達が病気になったり行事があってお店を休んでも、

自分に負担が少ないこと、お客様にもそれほど迷惑を掛けなくて済むと見込んでの事だった。

 

住所移転と共に私と子どもの3人の生活と、会社員の春男さんの単身赴任生活がスタートを切った。

 

さて、1990年恵庭市恵み野を会場にして

第1回の「えにわ花と暮らし展」が開催された。

元々花や植物が好きだった私は、店舗前に花を植えた。

お洒落なコンテナもない頃で白いプランターと、なんちゃってハンギングバスケット。

ワイヤー型も2基制作して飾っていた。

ハンギングバスケット協会がまだ、ないころの話。

 

 

「この梁りは、まだ家が完成じゃないの?」とよく聞かれたが、建築デザイナーさんのデザインで

花を飾るのにはちょうど良かったのだが、

その後、カフェになることでデッキにしたり、

壁から雨水が入り込んで柱が腐敗して壁を張り替えたり、

コンサバトリーが出来たりと、表からの風景も何度も変って来た。

こちらが、現在2019年の「珈琲きゃろっと」の店構え。

31年経つとコノテヒバが大きくなっているのが良く分かる。

 

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