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犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

『帝国の慰安婦』、刊行直後の書評

2016-05-08 23:52:39 | 慰安婦問題

 韓国では、『帝国の慰安婦』の著者朴裕河教授に対する集中砲火が激しさを増していて、「批判本」の刊行も予定されているとのこと。

 日本では賛否両論ですが、韓国では批判一辺倒の状況です。

 しかし、このような状況が生まれたのは起訴のあとの話。3年前、本書が刊行された直後は冷静に受け止められ、好意的な書評も多かった。

 一例として、朴教授のフェイスブックに紹介されていた書評(鼎談形式)を翻訳・紹介します。(→リンク

2013年9月26日オーマイニュース

足踏みする慰安婦問題、何が問題か

[本の雑談]『帝国の慰安婦』-「慰安婦=被害者」という構図を拒否した挑戦的問題提起

イ・キュジョン記者×市民記者(キム・キョンフン、パク・ヒョンジン)

イ・キュジョン
(以下、イ):

今日とりあげる本は、『帝国の慰安婦』だ。韓日関係が悪化し、歴史認識などの問題で両国の国民感情も大きく傷ついている。その中でも特にナイーブな問題である慰安婦について、その複合的な面をあらためて検討してみようという趣旨から、本書を選んだ。著者の朴裕河教授は、慰安婦問題が足踏みしている理由を、慰安婦についての理解が足りないからだと見ている。韓国人が慰安婦の実体を見ようとせず、「被害者としての慰安婦」だけを見たがっているというのだ。

大学で日本文学を教える朴裕河教授は、東アジアの歴史問題についての和解のための研究と活動に、積極的に取り組んできた。彼女によれば、朝鮮人慰安婦を生んだものは、帝国の植民支配、貧困、家父長制であった。われわれが思っているような、ただ「強制的に連れて行かれた少女」ではない、というのだ。慰安婦を連れ出したのは多くの場合朝鮮人業者であり、かなりの数の慰安婦は日本の軍人と同志的な関係を結びさえした。すんなり受け入れにくい内容が多かったが、どのように読んだか?

帝国・軍隊・家父長制が産んだ「慰安婦」

キム・キョンフン(以下、キム):
意外なことだが、日本の軍人の絶望的な感情が悲しく感じられた。慰安婦の証言によれば、一部の日本人将校は、慰安婦と肉体関係を結ぼうとしなかったそうだ。故郷の奥さんがいるので他の女を抱こうとはせず、ときには奥さんのことを思って泣いたこともあるということだ。彼らはもともと、戦場ではなく故郷で家族と睦まじい日常を送るはずの人たちだった。そのような点では日本の軍人も帝国の被害者だったのかもしれないと思った。

慰安婦が被害者であることは言うまでもない。だが、日帝の協力者でもあった。インドネシアの現地の人たちは、朝鮮慰安婦を日帝の一員と見なし彼らを敵対視した。戦争が終わった後、慰安婦の中は戦犯の収容所に連れて行かれた者もいた。そのほかにも、慰安婦が戦争に協力したという直接的、間接的な証拠があちこちで見られる。もしかしたら、慰安婦は被害者でもあり加害者でもあったのではないだろうか。

イ:
日本軍人と寝た後、慰安婦が「立派に死んでください」と言ったという場面が印象的だった。帝国が動員した日本の軍人は命を、慰安婦は性を日帝に委ねなければならなかった。日帝が慰安婦に期待した役割は、性的な慰安とともに、このような精神的な慰安も含むものだった。ところで、朝鮮慰安婦は準日本人扱いされていた。日本軍は朝鮮慰安婦が秘密をあまり漏らさないことに、また朝鮮慰安婦自身も「二等市民」の地位に、ある程度満足していた。


だが、それはもう少し細かい検討が必要だ。慰安婦は帝国に協力せざるをえない状況に置かれていた。太平洋戦争以前も、日本には公娼と私娼がいて、戦争が勃発すると、まもなく日帝は300万人近い駐屯軍を海外に置き、慰安婦の需要が増えた。これを見た朝鮮人業者は、工場などに就職させると騙して朝鮮女性たちを日本軍の所へ連れていったのだ。

パク・ヒョンジン(以下パク):
家父長的な社会、女性の性を搾取することをなんとも思わない構造について総合的に判断しなければ、慰安婦を生んだ時代についての根本的な省察はできないだろう。朝鮮女性たちは、父親や叔父など、家の男性から背中を押された。そのような女性たちを日本軍に連れていったのも、朝鮮の男性業者だった。朝鮮の家父長制が女性たちを救えなかったのだ。日帝が根本的な原因を提供したが、われわれの中の協力者についても語らなければ、正しい省察は不可能だ。

挺対協より日本のほうが合理的だって?

イ:

このように慰安婦問題は、帝国、軍隊、植民地そして家父長制などがからまりあった問題だ。だが、韓国人たちはこれを被害者の側からだけ理解してきた、というのが著者の批判だ。韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)が過度に政治化し、日本の誠実な謝罪にも冷たく対応して、結果的に韓国と日本がともに真実を見つめる機会を失ったというのだ。著者はここでさらに踏みこんで、慰安婦を純粋な被害者としてのみ記憶することに対する反発が、嫌韓流、在特会などにまでにつながっているとも主張する。

パク
1994年に社会党出身の村山富市が総理になり、慰安婦補償問題も勢いづいた。1995年、日本の植民支配と侵略について、政府として初めて公式的な謝罪をした村山談話が発表された。その後、慰安婦問題解決のための「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、アジア女性基金)も発足する。

この本を読むまでは、日本が慰安婦問題に対して補償をしたことはないと思っていた。そしてこの基金を受けとった韓国人が61人で、拒否した人が60人と、ほとんど同じ比率だったというのも驚きだった。その謝罪と補償が適切だったのかどうかは、検討が必要な問題だ。しかし独島や慰安婦など、日本がらみの問題に、韓国人が怒りでだけ対応することには問題がある。


基金の90%が政府資金だったというのも驚きだ。河野談話、村山談話からアジア女性基金という形での補償につながったプロセスも、理解できるところがあった。1965年の韓日協定会談で、個人請求権が抜け落ちていた。当時、村山総理は自民党が多数を占める議会において、次善の策として民間基金を通じて韓国に補償しようとしたのだ。

民間基金の見かけをとっているが、90%が政府資金ということは、実体は政府補償ということだ。日本がこうせざるをえなかった要因が1965年の会談だったという点も重要だ。当時、朴正煕大統領は個人請求権を消滅させ、そのせいでほとんどすべての個人賠償判決で慰安婦は敗訴した。

キム
1965年の韓日協定で個人請求権が消滅したプロセスを見ても、日本が無責任だったと見るのは難しい。当時日本は、韓国人被害者に直接補償するといったが、これを拒否したのは韓国政府のほうだった。政府が受けとれる金額を増やす一方で、北朝鮮の請求権問題を封じ込めるためだった。

だが韓国は、日本がいっさい責任を負おうしていないかのように対応してきた。これへの反発から日本が右傾化していくということも理解できる。例えば、ある慰安婦は自分が日本軍に連れて行かれた経緯について、たびたび証言を変える。年齢は下がっていき、強圧的状況が強まる方向に証言が変わるのだ。日本の立場から見れば、反発の気持ちが生まれるのは無理もない。

パク
だが、韓国の対応が日本の極右化を引き起こしたという著者の説明は、やや不十分ではないか。太平洋戦争後、日本自身も過去の歴史の清算をきちんとしてこなかった。敗戦後すぐにソ連/中国/北朝鮮に対抗する韓国/米国/日本の協力という冷戦構造に編入され、過去の歴史の清算は後ろに押しやられたのだ。

著者は、挺対協が進歩的、フェミニズム的指向を強めたことも、慰安婦問題をさらに複雑化させた要因だと述べている。1990年代に入り、挺対協は慰安婦を民族問題と見なし、北朝鮮との連帯を試みたこともあった。当事者問題から社会運動へ拡大したのだ。これについても著者は、彼らが北朝鮮の人権について問題提起をしていないことを理由に、その真正性を批判している。だが、こうした批判が正しいかどうかは疑問だ。まるで、韓国の警察にシリア問題の責任を負わないのかと批判するのと同じではないか。

慰安婦で米軍部隊基地の村女性まで

イ:

慰安婦を生みだした帝国-植民地構造と挺対協について、さまざまな話ができた。そろそろまとめに入りたい。私は本書を読んで、慰安婦についての常識がかなり修正されたことを感じた。また、慰安婦が米軍基地の基地村女性とそれほど違わないとも感じた。もちろんこの愉快ではない真実を受け入れるのは簡単ではない。

パク
愉快ではないが、慰安婦問題についての認識が広がったと思う。また、日帝強占期に関するすべての問題について、怒りの表出だけが正しい対処法なのか、疑問になった。ただ、残念な点があるとすれば、本の後半に集中して出てくる挺対協批判だ。挺対協は著者の主張について、「議論する価値がない」と言うが、何が誤っているのか、きちんと論駁する必要があると思う。

キム
同じ意味で、挺対協批判が行き過ぎていると感じた。著者は「挺対協の活動に若い学生たちが大勢動員されている状況はきわめて憂慮すべき」とまで言っているが、挺対協はそんなに問題だらけの組織だろうか。慰安婦問題を問題提起し、慰安婦たちの苦しみを軽減させた功績もあるのではないか。挺対協批判を旨とした本ではあるが、挺対協の功績への言及がほとんどなく、バランスを欠いている気がする。

一方、慰安婦について知らなかった面、例えば帝国の一員として戦争の協力者の一面を示した前半部は印象的だった。本書を読んで、帝国の最も恐ろしい点は、被害者を加害者にしてしまうという点だということを切実に感じた。帝国主義は、日本軍が被害者で、慰安婦が加害者になるという逆接と混乱を作りだす。だが、過剰な民族感情のせいで、われわれはそのような想像をするのが難しい。


民族感情は、一貫性なく作動するようだ。われわれが米軍基地村の女性に対してとる態度はまったく違う。彼女たちが基地村女性になる経緯は、帝国の慰安婦になる経緯と大同小異だ。彼女たちは、帝国の慰安婦たちと同じように貧困のために基地村女性になり、「性的慰安」という役割を担わなければならなかった。だが、われわれは基地村女性を称えることはしない。「解放後すぐ米ソ中心の冷戦体制に編入され、韓国は米国の横暴について何も言えなかった」というのが著者の解釈だ。

2000年代中盤に入ると、フィリピンやペルーの女性たちが基地村女性たちにとってかわったそうだ。さらに貧しい状況に置かれた女性たちにより代替されたのだ。軍隊が女性の性を搾取する構造が残っているわけだ。このように、慰安婦は帝国主義とともに始まったが、冷戦体制が終わった今でもわれわれの身近にある。だとすれば慰安婦は、われわれの民族だけの問題でなく、普遍的な女性問題ではないだろうか。簡単ではなく、ナイーブなテーマでもあるが、現在のわれわれが慰安婦問題から得られる教訓は、このあたりではないかと思う。


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