韓国とアイルランドの共通点の一つとして,独立後の国土の分断を挙げることもできます。
しかし,同じ分断でも,実態は相当に異なる。北アイルランドは,旧宗主国のイギリスに属しているのに対し,南北コリアは,どちらも日本が支配し続けているわけではありません。
では,北アイルランドは,イギリスが返すことを拒んだのかというと,そうでもない。あくまでも,北アイルランドの住民の意志としてイギリスにとどまったのです。
アイルランドの土地に対するイギリスの支配には,長い歴史があります。
12世紀,まずイングランドから入植が行われました。しかし彼らは同じカトリックであり,やがてアイルランドへの土着化が進みます。これを「オールド・イングリッシュ」といいます。
その後,イギリス国教会が生まれたあと,クロムウェルやウィリアム3世の侵攻後,主にスコットランドから北アイルランドに植民したのは,プロテスタントの「ニュー・イングリッシュ」でした。
そして南部においても,アイルランドのカトリック貴族たちは,土地を没収され,あるいは殺され,あるいは外国に亡命し,それに変わってプロテスタントのイギリス人たちがアイルランドの土地を支配しました。彼らは,地主として,またはイングランド在住の地主の代理人として,アイルランド小作農に対する容赦ない収奪を行います。
19世紀後半になっても,イギリス人地主とアイルランド人の小作人という関係は変わりませんでした。
宗教問題が事実上解決した19世紀後半,争点は「土地問題」に絞られます。
農民は,小作権の安定,小作料の引下げ,土地所有権の回復を求める土地戦争を展開しました。このとき,地主側の家族との交際を断つという戦術がとられましたが,そのときの土地差配人,ボイコット大尉の名から,「ボイコット」という言葉が生まれたそうです。
政府は過激化する農民デモを恐れ,「土地法」の制定と数次にわたる妥協で,土地問題の解決を図ります。その結果,地代は引き下げられ,「小作人との共有」を嫌がる地主は土地売却を選ぶ場合も多く,小作人の自作農化が徐々に進んでいきます。
一方,北部アルスター地方に入植していたイギリス系のプロテスタントは,すでに19世紀前半に産業革命の洗礼を受け,「ジャガイモ飢饉」の影響も少なく,経済的繁栄を謳歌していました。
1922年の英愛条約により,イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国が成立。ここに120年の長きに及んだ植民地時代は終わりを告げました。しかし,イギリス系プロテスタントの多かった北アイルランドは南から分離し,独自の議会を持つ一地方として連合王国にとどまったため,アイルランドは「分断」状態におかれ,「北アイルランド問題」がその後の火種として残ったのです。
さて,韓国はどうか。
日本による大規模な侵略が行われた秀吉軍の「朝鮮出兵」は,植民を目的としたものではありませんでした。したがって,日本が撤収したあと,わずかに「降倭」と呼ばれる人々が残っただけで,日本人が朝鮮半島の土地を支配し続けるということはありませんでした。
そして,300年後の日帝時代。韓国では,「土地調査事業」によって,国土の40%が収奪されたという話が国定教科書に載っていますが,これが「神話」であることは,韓国人学者が証明したとおり(→リンク)。
それでも日帝時代の末期には,日本人所有の土地は相当に膨らんでいました。しかし,日本は敗戦と同時に朝鮮半島を放棄した。「光復」後も,日本が韓国の土地を所有し続けるということはありませんでした。
国土の分断は,日帝時代の土地政策とは無関係です。38度線が,日帝時代の「満州軍」と「朝鮮軍」の軍管区の境界に一致するということをもって,日帝の支配と「分断」を結びつける論が韓国にみられますが,論理に無理があります。
もし,日本による韓国支配が35年ではなく,100年以上に及んでいたら,半島に土着した日本人が数百万人にもなり,その結果,「住民の意志」によって,独立後も日本の一部にとどまる選択をする地域が出ていたかもしれません。
しかし,同じ分断でも,実態は相当に異なる。北アイルランドは,旧宗主国のイギリスに属しているのに対し,南北コリアは,どちらも日本が支配し続けているわけではありません。
では,北アイルランドは,イギリスが返すことを拒んだのかというと,そうでもない。あくまでも,北アイルランドの住民の意志としてイギリスにとどまったのです。
アイルランドの土地に対するイギリスの支配には,長い歴史があります。
12世紀,まずイングランドから入植が行われました。しかし彼らは同じカトリックであり,やがてアイルランドへの土着化が進みます。これを「オールド・イングリッシュ」といいます。
その後,イギリス国教会が生まれたあと,クロムウェルやウィリアム3世の侵攻後,主にスコットランドから北アイルランドに植民したのは,プロテスタントの「ニュー・イングリッシュ」でした。
そして南部においても,アイルランドのカトリック貴族たちは,土地を没収され,あるいは殺され,あるいは外国に亡命し,それに変わってプロテスタントのイギリス人たちがアイルランドの土地を支配しました。彼らは,地主として,またはイングランド在住の地主の代理人として,アイルランド小作農に対する容赦ない収奪を行います。
19世紀後半になっても,イギリス人地主とアイルランド人の小作人という関係は変わりませんでした。
宗教問題が事実上解決した19世紀後半,争点は「土地問題」に絞られます。
農民は,小作権の安定,小作料の引下げ,土地所有権の回復を求める土地戦争を展開しました。このとき,地主側の家族との交際を断つという戦術がとられましたが,そのときの土地差配人,ボイコット大尉の名から,「ボイコット」という言葉が生まれたそうです。
政府は過激化する農民デモを恐れ,「土地法」の制定と数次にわたる妥協で,土地問題の解決を図ります。その結果,地代は引き下げられ,「小作人との共有」を嫌がる地主は土地売却を選ぶ場合も多く,小作人の自作農化が徐々に進んでいきます。
一方,北部アルスター地方に入植していたイギリス系のプロテスタントは,すでに19世紀前半に産業革命の洗礼を受け,「ジャガイモ飢饉」の影響も少なく,経済的繁栄を謳歌していました。
1922年の英愛条約により,イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国が成立。ここに120年の長きに及んだ植民地時代は終わりを告げました。しかし,イギリス系プロテスタントの多かった北アイルランドは南から分離し,独自の議会を持つ一地方として連合王国にとどまったため,アイルランドは「分断」状態におかれ,「北アイルランド問題」がその後の火種として残ったのです。
さて,韓国はどうか。
日本による大規模な侵略が行われた秀吉軍の「朝鮮出兵」は,植民を目的としたものではありませんでした。したがって,日本が撤収したあと,わずかに「降倭」と呼ばれる人々が残っただけで,日本人が朝鮮半島の土地を支配し続けるということはありませんでした。
そして,300年後の日帝時代。韓国では,「土地調査事業」によって,国土の40%が収奪されたという話が国定教科書に載っていますが,これが「神話」であることは,韓国人学者が証明したとおり(→リンク)。
それでも日帝時代の末期には,日本人所有の土地は相当に膨らんでいました。しかし,日本は敗戦と同時に朝鮮半島を放棄した。「光復」後も,日本が韓国の土地を所有し続けるということはありませんでした。
国土の分断は,日帝時代の土地政策とは無関係です。38度線が,日帝時代の「満州軍」と「朝鮮軍」の軍管区の境界に一致するということをもって,日帝の支配と「分断」を結びつける論が韓国にみられますが,論理に無理があります。
もし,日本による韓国支配が35年ではなく,100年以上に及んでいたら,半島に土着した日本人が数百万人にもなり,その結果,「住民の意志」によって,独立後も日本の一部にとどまる選択をする地域が出ていたかもしれません。
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