1845年から49年にかけて,ヨーロッパでジャガイモの疫病が発生します。
ジャガイモの原産地ペルーでは,10種類以上の品種が栽培されているため,病害はそのうちの1種類にしか広がらず,被害は深刻化しません。しかし,ヨーロッパで栽培されている品種はただ一種類であったことが痛かった。そのため,ヨーロッパのジャガイモ生産は大打撃を受けました。
とりわけ,アイルランドの被害が深刻でした。ドイツやスウェーデンといった国でもジャガイモは主食に準ずる地位にありましたが,大量の餓死者を出すという「飢饉」の様相を呈したのは,唯一,アイルランドだけでした。
その原因はどこにあったのか。
1801年から1921年まで,アイルランドはイギリスの植民地でした。本国が産業革命に沸く間,英国とのつながりによって唯一近代化を遂げていた北アイルランドを例外として,アイルランドの大部分は,プロテスタント優位法の下,産業革命の恩恵から取り残されていました。農業以外の産業が育たなかったアイルランドは,「英国の穀物庫」として収奪の対象であり続けました。イギリス系不在地主は,小作人であるアイルランド人から小麦を全量,年貢として収めさせ,アイルランド人は耕地の3分の1から収穫されるジャガイモで食いつないでいました。
そのような状態の中で,ジャガイモの疫病が襲ったのです。しかし英国に在住している不在地主たちは,飢饉発生後も,年貢の小麦徴収をやめませんでした(→リンク)。
その結果,アイルランドでは数十万人(一説に100万)の餓死者が出ただけでなく,大量の移民が北アメリカやオーストラリアへ流出しました。
最終的には,人口の少なくとも20%が餓死または病死,10~20%が国外に流出。婚姻や出産も減り,国の総人口がもっとも多かった時期に比べ半減したとのことです。ある統計では,1841~91年の50年間に人口は818万から470万へと350万近く減少しました。
当時の惨状は,以下のとおり。
「海から靄が立ち昇り、大地の静けさを貫いて、一マイルほど向こうから話し声が聞こえてきた。同じことが、三日間かそれ以上続いた。それから霧が晴れ、ジャガイモがまるで命を失っているかのように横たわっている光景が見えてきた。そしてそれが、アイルランドを荒廃させた不幸な大飢饉の始まりだった。」(1845年8月農民の手記)
「暗黒の47年」
「死と荒廃の天使がアイルランドを統治した。」(聖職者)
(カービー・ミラー、ポール・ワグナー著『アイルランドからアメリカへ 700万アイルランド人移民の物語』茂木健訳、1998年東京創元社)
「人々は生き延びるために,先を争ってイギリス,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドへ移民となって出て行った。それは移民というよりは難民というほうが相応しかった。今日のボート・ピープル同様,「棺桶船」といわれたほど粗末な船に乗って国外に脱出する者も跡を絶たなかった。そのうち5分の1は目的地に達する前に死亡したといわれる。」
(波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994年中公新書)
それに対する英国の見方は…
「何百マイルにもわたる、ひどい状態の国で、わたしは人間のチンパンジーたちを見て、肝をつぶしてしまった。彼らがこうなったのもわれわれの責任だなどと、わたしはけっして思っていない。彼らは、以前にくらべると人口がふえただけでなく、われわれの支配のもとではるかにしあわせとなり、生活程度、食料事情も向上し、住まいもよくなったとわたしは信じている。しかし、こうして白いチンパンジーを見ることはなんとも恐ろしい。彼らが黒人だったら、こんな気持ちにはならないだろうに。その肌は露出して日に焼けた部分を除けば、われわれと同じまっ白なのだ」
歴史家チャールズ・キングズリー(1815-75)
(トマス・カヒル『聖者と学僧の島:文明の灯を守ったアイルランド』森夏樹訳、青土社)
「われわれが戦うべき最も邪悪なものは、大飢饉そのものではなく、利己的で、つむじ曲がりで、不穏な、アイルランドの人々の性格なのだ」。
英国政府アイルランド救済政策責任者サー・チャールズ・トレヴェリアン
(アイルランドの大災害は)「天の偉大な恵みである」
「アイルランド人の不平不満という厄介な問題を解決する」またとない「貴重な機会なのだ」。(『ロンドン・タイムズ』)
『タイムズ』紙は、強制退去させたアイルランドのカトリックを、イングランドとスコットランドから移入する忠実でつつましいプロテスタント農民と永久に置き換えるべきだという意見だった。
この「人災」について,英国ブレア首相が初めて公式に謝罪したのは1997年6月のことでした。(→リンク)。
ブレア英首相、150年後の謝罪――アイルランドのポテト大ききん、大英帝国は傍観(1997年6月4日東京新聞夕刊)
◇「大英帝国が傍観、人々見捨てた」
【ロンドン3日三瓶良一】英国統治下のアイルランドの歴史で悲劇の一つに数えられている「ポテトききん」(1845~49年)について、ブレア英首相が英国の指導者として初めて、当時のロンドン政府の失政を認め謝罪の意を表明した。英国とアイルランドの関係に新たな弾みをつけるものとして反響を呼んでいる。
2日の英紙デーリー・テレグラフによると、首相の書簡は5月末、アイルランド西部コーク州で行われた「大ききんを考える集会」の主催者あてに送られた。
ブレア首相は「当時のロンドンの統治者はききんが大規模な悲劇に転化した時に、傍観することで人々を見捨てた。世界で最も裕福で強大だった国(大英帝国)で100万人が犠牲になったことは、今日でもそれを思い起こし、痛みを引き起こす」と指摘した。
アイルランドでは、大ききんに対し、当時の英政府が有効な対策をとらなかったとの批判が今でも強く、両国間の歴史のわだかまりとなっている。
集会にはアイルランド系のクリントン米大統領も「大ききんは米国とアイルランドを永遠に結びつけた。悲惨から逃れた人たちは米国での新生活のため海を渡った」とのメッセージを寄せた。
大ききんは、多くの犠牲者だけではなく、米国、カナダへ多数の移民を出した。このため当時850万人のアイルランド人口はほぼ半減した。
ブレア書簡は英領北アイルランドにも反響を呼び起こし、カトリック系は新政権の姿勢を評価しているが、プロテスタント系のテーラー・アルスター統一党副党首は、被害意識が強いアイルランド人が今後新たな謝罪要求を出してくる可能性があり、今回謝罪すべきではなかった、と不満を表明している。
ジャガイモの原産地ペルーでは,10種類以上の品種が栽培されているため,病害はそのうちの1種類にしか広がらず,被害は深刻化しません。しかし,ヨーロッパで栽培されている品種はただ一種類であったことが痛かった。そのため,ヨーロッパのジャガイモ生産は大打撃を受けました。
とりわけ,アイルランドの被害が深刻でした。ドイツやスウェーデンといった国でもジャガイモは主食に準ずる地位にありましたが,大量の餓死者を出すという「飢饉」の様相を呈したのは,唯一,アイルランドだけでした。
その原因はどこにあったのか。
1801年から1921年まで,アイルランドはイギリスの植民地でした。本国が産業革命に沸く間,英国とのつながりによって唯一近代化を遂げていた北アイルランドを例外として,アイルランドの大部分は,プロテスタント優位法の下,産業革命の恩恵から取り残されていました。農業以外の産業が育たなかったアイルランドは,「英国の穀物庫」として収奪の対象であり続けました。イギリス系不在地主は,小作人であるアイルランド人から小麦を全量,年貢として収めさせ,アイルランド人は耕地の3分の1から収穫されるジャガイモで食いつないでいました。
そのような状態の中で,ジャガイモの疫病が襲ったのです。しかし英国に在住している不在地主たちは,飢饉発生後も,年貢の小麦徴収をやめませんでした(→リンク)。
その結果,アイルランドでは数十万人(一説に100万)の餓死者が出ただけでなく,大量の移民が北アメリカやオーストラリアへ流出しました。
最終的には,人口の少なくとも20%が餓死または病死,10~20%が国外に流出。婚姻や出産も減り,国の総人口がもっとも多かった時期に比べ半減したとのことです。ある統計では,1841~91年の50年間に人口は818万から470万へと350万近く減少しました。
当時の惨状は,以下のとおり。
「海から靄が立ち昇り、大地の静けさを貫いて、一マイルほど向こうから話し声が聞こえてきた。同じことが、三日間かそれ以上続いた。それから霧が晴れ、ジャガイモがまるで命を失っているかのように横たわっている光景が見えてきた。そしてそれが、アイルランドを荒廃させた不幸な大飢饉の始まりだった。」(1845年8月農民の手記)
「暗黒の47年」
「死と荒廃の天使がアイルランドを統治した。」(聖職者)
(カービー・ミラー、ポール・ワグナー著『アイルランドからアメリカへ 700万アイルランド人移民の物語』茂木健訳、1998年東京創元社)
「人々は生き延びるために,先を争ってイギリス,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドへ移民となって出て行った。それは移民というよりは難民というほうが相応しかった。今日のボート・ピープル同様,「棺桶船」といわれたほど粗末な船に乗って国外に脱出する者も跡を絶たなかった。そのうち5分の1は目的地に達する前に死亡したといわれる。」
(波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994年中公新書)
それに対する英国の見方は…
「何百マイルにもわたる、ひどい状態の国で、わたしは人間のチンパンジーたちを見て、肝をつぶしてしまった。彼らがこうなったのもわれわれの責任だなどと、わたしはけっして思っていない。彼らは、以前にくらべると人口がふえただけでなく、われわれの支配のもとではるかにしあわせとなり、生活程度、食料事情も向上し、住まいもよくなったとわたしは信じている。しかし、こうして白いチンパンジーを見ることはなんとも恐ろしい。彼らが黒人だったら、こんな気持ちにはならないだろうに。その肌は露出して日に焼けた部分を除けば、われわれと同じまっ白なのだ」
歴史家チャールズ・キングズリー(1815-75)
(トマス・カヒル『聖者と学僧の島:文明の灯を守ったアイルランド』森夏樹訳、青土社)
「われわれが戦うべき最も邪悪なものは、大飢饉そのものではなく、利己的で、つむじ曲がりで、不穏な、アイルランドの人々の性格なのだ」。
英国政府アイルランド救済政策責任者サー・チャールズ・トレヴェリアン
(アイルランドの大災害は)「天の偉大な恵みである」
「アイルランド人の不平不満という厄介な問題を解決する」またとない「貴重な機会なのだ」。(『ロンドン・タイムズ』)
『タイムズ』紙は、強制退去させたアイルランドのカトリックを、イングランドとスコットランドから移入する忠実でつつましいプロテスタント農民と永久に置き換えるべきだという意見だった。
この「人災」について,英国ブレア首相が初めて公式に謝罪したのは1997年6月のことでした。(→リンク)。
ブレア英首相、150年後の謝罪――アイルランドのポテト大ききん、大英帝国は傍観(1997年6月4日東京新聞夕刊)
◇「大英帝国が傍観、人々見捨てた」
【ロンドン3日三瓶良一】英国統治下のアイルランドの歴史で悲劇の一つに数えられている「ポテトききん」(1845~49年)について、ブレア英首相が英国の指導者として初めて、当時のロンドン政府の失政を認め謝罪の意を表明した。英国とアイルランドの関係に新たな弾みをつけるものとして反響を呼んでいる。
2日の英紙デーリー・テレグラフによると、首相の書簡は5月末、アイルランド西部コーク州で行われた「大ききんを考える集会」の主催者あてに送られた。
ブレア首相は「当時のロンドンの統治者はききんが大規模な悲劇に転化した時に、傍観することで人々を見捨てた。世界で最も裕福で強大だった国(大英帝国)で100万人が犠牲になったことは、今日でもそれを思い起こし、痛みを引き起こす」と指摘した。
アイルランドでは、大ききんに対し、当時の英政府が有効な対策をとらなかったとの批判が今でも強く、両国間の歴史のわだかまりとなっている。
集会にはアイルランド系のクリントン米大統領も「大ききんは米国とアイルランドを永遠に結びつけた。悲惨から逃れた人たちは米国での新生活のため海を渡った」とのメッセージを寄せた。
大ききんは、多くの犠牲者だけではなく、米国、カナダへ多数の移民を出した。このため当時850万人のアイルランド人口はほぼ半減した。
ブレア書簡は英領北アイルランドにも反響を呼び起こし、カトリック系は新政権の姿勢を評価しているが、プロテスタント系のテーラー・アルスター統一党副党首は、被害意識が強いアイルランド人が今後新たな謝罪要求を出してくる可能性があり、今回謝罪すべきではなかった、と不満を表明している。
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