洪思翊の罪状は「捕虜虐待」でした。
捕虜の扱いについてはジュネーブ条約という国際条約がありましたが,日本は批准していなかった。したがって,日本にはそれを守る義務はない。ただ,本国からは,「ジュネーブ条約の項目を尊重しろ」というあいまいな指示があっただけ。
洪思翊が陸軍の捕虜管理部門の最高責任者,兵站総監として赴任したのは1944年3月のこと。以降,敗戦までその地位にあり,フィリピンの捕虜収容所全体を管理する立場にありました。
ところで,捕虜には二つの形態がある。「直営」ともいえる「隷下捕虜部隊」と,そこから一般の部隊に労働力として送られる「指揮下捕虜部隊」です。隷下捕虜部隊には,洪思翊の直接の管理が及ぶ。しかし,指揮下捕虜部隊の管理は派遣先の部隊に一任されています。明確な文書上の規定はありませんが(これが裁判で大きな問題になります),それが実態でした。
そして,その指揮下捕虜部隊で「虐待」があった。
ただ,この「虐待」の感じ方は文化の差が大きいようです。ベッドなしに地べたに寝かされた(日本にはベッドの習慣がないので)ことも虐待,ゴボウを出したら「木の根を食わされた」と言って虐待,そんな事例もあったようです。
アメリカの検察は,この虐待の責任が,兵站総監の洪思翊中将,さらにはその上官である山下奉文大将にあったとして告発しました。また,陸軍捕虜を船で移送する際,米軍の爆撃で船が沈没,多数の捕虜が死んだ事件や,海軍の捕虜に対する虐待などについても,責任追及がありました。
裁判の過程で,まず,洪思翊が自ら管轄する隷下捕虜に対し,直接虐待行為を行ったり,指示を出したり,黙認したりしていたのではないかという追及を行う。しかし,資料や証言を見ても,そのような事実は発見されませんでした。むしろ,洪思翊が赴任してからの捕虜の扱いは改善されました。洪思翊中将が本国からの指示通り,ジュネーブ条約の条項に忠実たろうとしたからです。
もちろん食糧事情は逼迫していましたから,給食の質と量は相当にひどい状態でした。しかし,捕虜の食事は日本兵並であり,明らかな差別はありませんでした。また捕虜にはキャンプ内での「自活」が許されており,敷地内で食用作物を栽培し,食べていたため,むしろ日本兵よりも恵まれていた場合があることは,洪思翊自身が,山下裁判の証人として証言した通り(洪思翊は,自らの裁判では完黙を選びましたが,山下裁判では証言をしています)。
検察側が「虐待の証拠」として提出したヘイズ日記は,捕虜の扱いがフィリピンの中で最低といわれたビリビッド病院収容所の記録ですが,そこには,「日本軍に感謝のメッセージを送ろう」という動きまであったことが記されています。
そこで検察は,追及の矛先を転じ,実際に虐待行為が明らかになっている部隊に対する洪思翊の管理責任追及を始めます。つまり,洪思翊の裁判の焦点は,次の2点にしぼられます。
①指揮権という面で,彼が責任を負うべき位置にいたか否か,
②たとえ責任を負う位置にいたことが証明され,同時に彼がその責任を十分に果たさなかったことが論証できても,それが果たして「犯罪」といえるか。
まず,①。
兵站総監は,(陸軍の)すべての捕虜に対して管理責任をもっていることになっていますが,実態は,日本軍の組織上,労務動員された捕虜の管理責任はひとえにその部隊にあり,兵站総監には何の権限もないことが,複数の日本人の証言から明らかになります。しかし,形式的には兵站総監に所属している。
次に②はどうか。
これはいわば,「責任犯」という犯罪が成立するかどうかという問題です。山下裁判において,弁護側は,「軍事法廷の正当性」を問題にし,判決の「少数意見」にも,そこに対する疑問が提起されました。洪思翊裁判で,弁護側は,この点について言及はしましたがあえて争いませんでした。むしろ,この「責任犯」が新たな犯罪の創出ではないか,立法行為ではないかという点について,弁護人は山下裁判の少数意見を再度とりあげます。
軍事法廷は立法機関ではないから,「犯罪と規定したり,犯罪を定義したり」する権限はない。「責任犯」という,新たな犯罪を創出することはできない。
「彼(山下)が戦争法規に違反したことを確実に証明するものは何もない。彼は,彼自身が残虐行為に個人的に参加したとか,その遂行を命令したとかいうことで告訴されているわけではない。さらに,「これらの犯罪を知っていたではないか」ということで,その責任を問われているのでさえない(山下にも洪思翊にも残虐行為の報告は届いていなかった)。彼は単に,司令官として,彼の指揮下にあった者たちの行動を監督するという司令官の義務を不法にも軽視し,実施せず,そのため部下たちが残虐行為を犯す結果になったことを許したといわれているだけである」
この事情は,洪中将のケースにそのままあてはまります。
「戦争の諸記録によっても国際法上の確立された原則からみても,このような告訴の先例はない。この告訴は事実上,軍事法廷が,偏見に満ちた見解に従って,被告が義務を無視し軽視したことにつき,欲するままに犯罪を創出していることになっている。」
しかし,検察側の「責任犯」の論理は,山下裁判に適用され,山下奉文大将は死刑になりました。そして,すでに確定していた山下裁判での判決が,「判例」として重くのしかかり,結局,洪思翊にも有罪判決(死刑)が下されます。
そもそも洪思翊にとって,捕虜虐待の告発は青天の霹靂でした。死刑執行の際,立会人として急遽呼び出された片山牧師が,洪思翊をどうなぐさめたらいいかわからないでいると,あべこべに次のように言葉をかけました。
「片山君,何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真っ直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな。」
洪思翊中将は,裁判における検察と弁護人の間の「論理ゲーム」に負けたにすぎません。実に不運なことです。
この詳細な記録を読んで感慨深いのは,裁判の過程での検察と弁護人の攻防の真剣さです。アメリカ人の弁護人は,完全黙秘を選んだ洪思翊のために,文字通り,あらゆる努力を傾け,あらゆる論理を駆使して弁護しようとします。そのプロ意識には感心するほかありません。
私はこれまで,別のBC級戦犯関連書籍を読んだことがありますが,戦犯裁判は概して杜撰であり,現場の激情の中で,証言をきちんと検証することもなく次々に死刑判決が下された,冤罪が大変多かったというイメージをもっていました。実際にそのような例もあったようです。
しかし,洪思翊の場合は,中将という地位もあって,相当に緻密な裁判が行われていました。
弁護士の最後の弁論で,「時による審判」という言葉が印象的でした。一時的な感情の充足のために下された判決は,時の経過によってその誤りが明らかになる,という意味です。
弁護人の格調高い無罪申立にもかかわらず,判決は「有罪」でした。
捕虜の扱いについてはジュネーブ条約という国際条約がありましたが,日本は批准していなかった。したがって,日本にはそれを守る義務はない。ただ,本国からは,「ジュネーブ条約の項目を尊重しろ」というあいまいな指示があっただけ。
洪思翊が陸軍の捕虜管理部門の最高責任者,兵站総監として赴任したのは1944年3月のこと。以降,敗戦までその地位にあり,フィリピンの捕虜収容所全体を管理する立場にありました。
ところで,捕虜には二つの形態がある。「直営」ともいえる「隷下捕虜部隊」と,そこから一般の部隊に労働力として送られる「指揮下捕虜部隊」です。隷下捕虜部隊には,洪思翊の直接の管理が及ぶ。しかし,指揮下捕虜部隊の管理は派遣先の部隊に一任されています。明確な文書上の規定はありませんが(これが裁判で大きな問題になります),それが実態でした。
そして,その指揮下捕虜部隊で「虐待」があった。
ただ,この「虐待」の感じ方は文化の差が大きいようです。ベッドなしに地べたに寝かされた(日本にはベッドの習慣がないので)ことも虐待,ゴボウを出したら「木の根を食わされた」と言って虐待,そんな事例もあったようです。
アメリカの検察は,この虐待の責任が,兵站総監の洪思翊中将,さらにはその上官である山下奉文大将にあったとして告発しました。また,陸軍捕虜を船で移送する際,米軍の爆撃で船が沈没,多数の捕虜が死んだ事件や,海軍の捕虜に対する虐待などについても,責任追及がありました。
裁判の過程で,まず,洪思翊が自ら管轄する隷下捕虜に対し,直接虐待行為を行ったり,指示を出したり,黙認したりしていたのではないかという追及を行う。しかし,資料や証言を見ても,そのような事実は発見されませんでした。むしろ,洪思翊が赴任してからの捕虜の扱いは改善されました。洪思翊中将が本国からの指示通り,ジュネーブ条約の条項に忠実たろうとしたからです。
もちろん食糧事情は逼迫していましたから,給食の質と量は相当にひどい状態でした。しかし,捕虜の食事は日本兵並であり,明らかな差別はありませんでした。また捕虜にはキャンプ内での「自活」が許されており,敷地内で食用作物を栽培し,食べていたため,むしろ日本兵よりも恵まれていた場合があることは,洪思翊自身が,山下裁判の証人として証言した通り(洪思翊は,自らの裁判では完黙を選びましたが,山下裁判では証言をしています)。
検察側が「虐待の証拠」として提出したヘイズ日記は,捕虜の扱いがフィリピンの中で最低といわれたビリビッド病院収容所の記録ですが,そこには,「日本軍に感謝のメッセージを送ろう」という動きまであったことが記されています。
そこで検察は,追及の矛先を転じ,実際に虐待行為が明らかになっている部隊に対する洪思翊の管理責任追及を始めます。つまり,洪思翊の裁判の焦点は,次の2点にしぼられます。
①指揮権という面で,彼が責任を負うべき位置にいたか否か,
②たとえ責任を負う位置にいたことが証明され,同時に彼がその責任を十分に果たさなかったことが論証できても,それが果たして「犯罪」といえるか。
まず,①。
兵站総監は,(陸軍の)すべての捕虜に対して管理責任をもっていることになっていますが,実態は,日本軍の組織上,労務動員された捕虜の管理責任はひとえにその部隊にあり,兵站総監には何の権限もないことが,複数の日本人の証言から明らかになります。しかし,形式的には兵站総監に所属している。
次に②はどうか。
これはいわば,「責任犯」という犯罪が成立するかどうかという問題です。山下裁判において,弁護側は,「軍事法廷の正当性」を問題にし,判決の「少数意見」にも,そこに対する疑問が提起されました。洪思翊裁判で,弁護側は,この点について言及はしましたがあえて争いませんでした。むしろ,この「責任犯」が新たな犯罪の創出ではないか,立法行為ではないかという点について,弁護人は山下裁判の少数意見を再度とりあげます。
軍事法廷は立法機関ではないから,「犯罪と規定したり,犯罪を定義したり」する権限はない。「責任犯」という,新たな犯罪を創出することはできない。
「彼(山下)が戦争法規に違反したことを確実に証明するものは何もない。彼は,彼自身が残虐行為に個人的に参加したとか,その遂行を命令したとかいうことで告訴されているわけではない。さらに,「これらの犯罪を知っていたではないか」ということで,その責任を問われているのでさえない(山下にも洪思翊にも残虐行為の報告は届いていなかった)。彼は単に,司令官として,彼の指揮下にあった者たちの行動を監督するという司令官の義務を不法にも軽視し,実施せず,そのため部下たちが残虐行為を犯す結果になったことを許したといわれているだけである」
この事情は,洪中将のケースにそのままあてはまります。
「戦争の諸記録によっても国際法上の確立された原則からみても,このような告訴の先例はない。この告訴は事実上,軍事法廷が,偏見に満ちた見解に従って,被告が義務を無視し軽視したことにつき,欲するままに犯罪を創出していることになっている。」
しかし,検察側の「責任犯」の論理は,山下裁判に適用され,山下奉文大将は死刑になりました。そして,すでに確定していた山下裁判での判決が,「判例」として重くのしかかり,結局,洪思翊にも有罪判決(死刑)が下されます。
そもそも洪思翊にとって,捕虜虐待の告発は青天の霹靂でした。死刑執行の際,立会人として急遽呼び出された片山牧師が,洪思翊をどうなぐさめたらいいかわからないでいると,あべこべに次のように言葉をかけました。
「片山君,何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真っ直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな。」
洪思翊中将は,裁判における検察と弁護人の間の「論理ゲーム」に負けたにすぎません。実に不運なことです。
この詳細な記録を読んで感慨深いのは,裁判の過程での検察と弁護人の攻防の真剣さです。アメリカ人の弁護人は,完全黙秘を選んだ洪思翊のために,文字通り,あらゆる努力を傾け,あらゆる論理を駆使して弁護しようとします。そのプロ意識には感心するほかありません。
私はこれまで,別のBC級戦犯関連書籍を読んだことがありますが,戦犯裁判は概して杜撰であり,現場の激情の中で,証言をきちんと検証することもなく次々に死刑判決が下された,冤罪が大変多かったというイメージをもっていました。実際にそのような例もあったようです。
しかし,洪思翊の場合は,中将という地位もあって,相当に緻密な裁判が行われていました。
弁護士の最後の弁論で,「時による審判」という言葉が印象的でした。一時的な感情の充足のために下された判決は,時の経過によってその誤りが明らかになる,という意味です。
弁護人の格調高い無罪申立にもかかわらず,判決は「有罪」でした。
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