ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

旅行したこと、近場のお出かけ、美味しいものを食べたこと etc… 

『四国八十八ヶ所巡りへ』 第87番札所から第88番札所まで(第1弾)

2015-06-08 23:32:36 | 四国八十八か所巡り

 

今回のお遍路さんで、いよいよ結願です

何度か乗り、車中での睡眠も慣れてきた「小倉⇒坂出」の夜行バスの旅も今回で終わり

瀬戸大橋を渡る手前にある鴻ノ池SA  朝のトイレ休憩&洗顔タイム

ここを過ぎるとすぐに瀬戸大橋、そして 坂出です

 

 

坂出駅到着  

ここから、JRで高松駅に行き、コトデンに乗り換えます

超ド派手な電車に遭遇

「アラーキー列車」だそうです 

香川県と岡山県の瀬戸内エリアで開催されている「瀬戸内国際芸術祭2013」のアート作品として登場したのが、予讃線・土讃線の快速・普通列車に使用されているJR四国の113系電車4両編成の「アラーキー列車」だ。写真家の荒木経惟(あらきのぶよし)氏の作品を車体に描いた瀬戸内国際芸術祭のアート作品のひとつで、赤ちゃんの人形や妖艶な花などがフルラッピングされている。天国の中に地獄があるという荒木の写真には、常に「エロス(生)」と「タナトス(死)」が共存。ひときわ目を引く黒い車体は「アラーキー列車」という新たな「生」を与えられた刺激的な写真が描かれています

 

 琴平行の普通列車なので、私たちはこれには乗りませんでした・・・・・

 高松駅に到着後は、ことでん 高松築港駅へ

 長尾行の電車に乗ります

 

約40分の電車移動・・・・・ゴトゴト揺れるのが気持ちよく  途中からは爆睡でした  

ちなみに、長尾駅は、終点なので乗り過ごす心配は無いですよ

 

 

 この長尾駅から歩き始め

87番 長尾寺  88番 大窪寺へ向かいます    頑張るよ 

 

  長尾のマンホールの蓋

竹といえば、竹取物語exclamation×2
竹取物語に登場するおじいちゃんの名前は『讃岐造(さぬきのみやつくり)』

このおじいちゃん、名前から香川県に関わりのある人物ではないかと言われています
古代からさぬき市周辺(多和神社)から朝廷へ竹を献上していたという歴史があったり、
さぬき市長尾にも実は竹取物語に関する言い伝えが残っているんだそうです

 

長尾寺は歩いてすぐです 

  

 鐘楼門(仁王門)

 四国霊場八十八ヶ所・第87番札所で、街中にあります。山門の仁王門は鐘楼を兼ねており、大草鞋がかかっています。その門前にある「経幢(きょうどう)」は元。また、菅原道真公が都から太宰府へ向かう途中、親交があった住職明印法師は志度沖で出迎え、道真公の自画像を受け取り、これを自在天堂に祀りました。寺には名物行事も多く、三味線の音に合わせ3本杵で掃いた大鏡餅を運ぶ力餅運搬競技や、源義経と吉野山で別れた静御前と母・磯禅尼がこの寺で得度したことから、静御前を偲ぶ茶会も行われています。なお、境内の画に「剃髪塚」が残っており、多くの参拝客が訪れます。

 

門の所には、「さぬき百景」の石碑が建っていました。「さぬき百景」は、1968年に四国新聞社が明治百年を記念して、読者投票などで選ばれたそうです。

その後、昭和43年に「新さぬき百景」の投票があり、150ヵ所を選んで読者の投票で73位までは自動的に決定し後の100位までは近くの景勝地と合併して選定したそうです。41年前に選定してるので名称が変更になっていたり名木が枯れて伐採しているなどすでに名称が無くなっているところもあるそうですが、「新さぬき百景」の投票で、長尾寺は「8位」だったそうです

 

門にかかっていた「大草履」

 

 

経幢(きょうどう)

寇の役の出征将兵の霊を慰めるために建てられた供養塔で、国の重要文化財に指定されています

西側のものが弘安6年(1283年)、東側のものが弘安9年(1286年)の建立

 1286年、右の東側

 

 1283年、左の西側

 

今日でお遍路さんも最後かと思うと、いつもよりも深くお辞儀をしているような気もします(笑) 

 

 

第87番札所 長尾寺

長尾寺の歴史・由来

開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊として安置。法相宗を開基しました。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されています。

唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺でしたが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰します。江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めています。

    長尾寺のHP   http://nagaoji.com/

 

 

 

本 堂 

 

  本堂の横にお祀りしてありました

  

 大師堂

 

 

 今日も無事でありますように・・・・よろしくお願いいたします

  

 

 

香川県の保存木169号「楠」

立派な楠でした 

 

    

  

 

 静御前剃髪塚

大きな石像の横に、ひっそりと剃髪塚はありました

ここには、剃髪した静御前の髪が納められていると言われています

静御前と母の磯野は 1189年3月20日 長尾寺に到着した。この寺は739年の開基で、都の七堂伽藍のような巨刹である。 このあたりは先年屋島の戦いのとき義経が通ったところでありなにか郷愁のようなものを感じながら、静・磯野は本堂や薬師堂にうずくまり読経にふけった。
長尾寺の住職は9代宥意阿闍梨という近郷まれな高僧であった。宥意は母子の上品さとなにか哀愁のある巡礼姿に気をうばわれて、庫裡に招いて悩みを尋ねた。 事情を聞いた宥意が二人にさとしたのは「いままでの出来事を総て忘れて、いまから新しい人生の道をたどるのが最良」と諭し、更に"いろは歌"を示して仏教的な無常観を解説した。 母子は虚心坦懐な気持ちになり得度剃髪を懇願した。
得度して静は〔宥心尼〕、磯野禅師は〔磯野禅尼〕と名乗るようになった。 剃髪した髪は本堂の近くに葬り石を重ねた。いまも護摩堂の前に〈静御前剃髪塚〉があり、凝灰岩の五輪塔のようなものが残っている。
なお、本堂には静の位牌が安置されており、いつの時代のものか不明であるが《宥心法尼》と刻まれているそうです。

 

  

お参りも終わりました。ゆっくりと参拝し、納経所でも、まだ来られている人も少ないので、納経所の方と

お話もできました

  

 大窪寺まで 16.5キロ  でも登り坂有の意外と大変な道のりです  

 

 

頑張るぞ~

 

 

 

 

 

 

ここから先の遍路道には、色々なお遍路さんの史跡が残っていました

 

 

 

<市畑>

沢山の石仏・墓石・神社などがあり、ここを通るお遍路さんは手を合わせ、読経をしながら進んだそうです

 

 

<弁慶の馬の墓>

 

<河原の庵> 

  

  

<釈迦堂> 

釈迦像は、ほとんどが木像のものが多い中、お釈迦様の石造は数が少なく珍しいものです。堂の中には、宝珠のお地蔵さんもあります

 

<一心庵>

 

 

 庵のある塚原地区はへんろ道の原型をとどめています。一心庵は江戸時代にはるばる小豆島肥土山の接待講が「常接待」を行うなど、かなり広汎な地域からの出張接待がありました。
 毎年5月3日・4日に行われている小豆島肥土山の農村歌舞伎と同じ日に、近くの稲荷神社でも農村歌舞伎が行われていたようです

 覗いてみました。そして、手を合わせて・・・・・

 

<お遍路さん休憩所>   今日は、ここでは私たちは休憩なしです(笑)

 

<高地蔵>

 「高地蔵」は台座の上に座り、4mに余る高さがあります。このような地蔵は徳島県吉野川下流域に多く見られ、洪水などの水害で流されないようにするためにこの高さになったといわれています。毎年3月13日に、この地蔵を「流れ灌頂の本尊」として、この地で行き倒れたお遍路さんの魂を供養する法要が行われています。今もへんろ道を歩く人たちの安全を見守っています。

 

<馬の墓>

 旅の途中で病気や行き倒れのため、志半ばにして亡くなったお遍路さんを供養するための「遍路墓」も幾つかありました。お墓には亡くなった方の出身地など、生きた証が刻まれています。今も地元の人々やお遍路さんによって丁重に供養されています。その他、道中にはお遍路さんだけでなく、犬や牛のお墓まであります。後にこの道を通る幾人もの人が手を合わせたと言われています。

 

 

 

 

<武田徳右衛門の道しるべ>

徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれ。
 今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場があって、今も根強い信者を擁しているという。この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門である。
 この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に遍路行をする者のための丁石の建立がある。彼は僧侶ではなく、格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民であった。その彼の身に降りかかった不幸というか、あるいは苦悩というか、彼は天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失った。
 そうした耐えかねるほどの悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなった。
 そして彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国遍路の旅であった。
 徳右衛門は、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就したと言われている。亡くなったのは文化11年(1814)で、享年は不明である。
 彼の丁石は、弘法大師の尊像を刻み、何寺まで何里と次の札所までの距離を明記するという特徴がある。
 彼の手によって建立された道標は、現在四国内では130基ほど確認されている。 
 真念法師から百年余時代が下って、寛政から文化年間にかけて遍路道の整備に尽力した徳右衛門は、札所の近くに道標を建立して、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたのであるう。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのであろうか

武田徳右衛門丁石の詳細

http://kukai1944.web.fc2.com/douhyou_tokuemon/tokuemon_mokuj.htm

香川県には、これも含めて 16基あるそうです

 

段々、登り坂になってきました  こんな道は意外ときついのです・・・・・

 前山ダムが見えて来た!

 

 

大窪寺に行く前に、立ち寄ります   前山おへんろ交流センター

後、少し・・・・・ 700メートル

 

 到着!!!  道路を挟んで真向いは「道の駅」です

 

 

<お遍路交流サロン>

 お遍路さんたちの情報交換や地域住民との交流の場になっています。また、交流サロン内にある「へんろ資料展示室」には、江戸時代の紀行本や古地図、また接待を受けたお遍路が残した江戸中期からの納札や古い納経帳、手形など、四国遍路の歴史を感じさせる貴重な資料となる品々が展示されています

 http://www.geocities.jp/sanukimaeyamanet/ohenro/

 

サロンの中に入る前に「記念撮影」

 思わず出てきます!  ピースサインwwww

 

 

 

 

 

資料展示室の前に、色々な時代のへんろ道の表示石がありました

    

 

歩き遍路・自転車遍路で結願した方には、「遍路大使任命書」を発行してくれます。
さらに2014年より「同行二人バッジ」も再会されたと言う事で、私達もしっかりと「任命書」と「バッチ」を授与して頂きました !(^^)!  嬉しいですね~  しっかり記念撮影も  やったぁ!!

 

 

サロンの真ん中には、「四国八十八ヶ所」のお寺と四国の山々のジオラマが有ります

これを見ると、それぞれのお寺の思い出、到着するまでの思い出、出会った方の事を思い出すことが出来ます。

不思議な事に、大変だったねぇと二人で話していましたが、それも含めて全部「楽しい思い出・記憶」になっていました

 

 ボタンを押すと、お寺に電球が灯ります。GWの時にお参りした「雲辺寺」

 

今から歩いて行く「大窪寺」  ここが本当の結願の所です  

  

 

おへんろ交流サロンには、色々な遍路に関する展示物もあります

時間をかけてゆっくりと見学しました

 

 

  

 

 

1時間位ゆっくり見学し、ここに立ち寄られた歩き遍路の方とも色々と話をしました

この後は、何ルートか大窪寺までのコースはありますが、

 

バス通りコース   花折道    前山名残の「花折道   来栖渓谷経由    多和神社経由

私達は、最初は バス通りコースを歩き、途中から ② 旧遍路道コース を歩くルートで大窪寺へ向かいます

 いよいよ、次は大窪寺です

しかし、ここからの道も長い登り坂が続き、

なかなか大変でした        ・・・・・・・・・  続く 

 

 


『四国八十八ヶ所巡りへ』 第60番札所から第70番札所まで(今回はこれで打ち終わり)

2015-06-02 22:46:51 | 四国八十八か所巡り

 

 

朝目覚めて、カーテンを開けると、快晴です 

GWのお遍路さんも今日で終わり  最終日もお天気に恵まれて、本当に良かった

日焼けしそうな日差しがサンサンと降り注ぎます

朝ご飯は、ホテルの部屋で 残っていたパンを食べ、自販機で購入した缶コーヒーを飲んで終わりました

今日も元気に歩くよ~    と 二人で出発 

 

今日は、まず昨日、見損ねた 「銭形」を見に行きます 

観音寺の街中には、沢山の「寛永通宝」がありました

 

 

昨日、歩いた道を逆戻り   68・69番札所へと歩を進めます

 

銭形へは、どこから行ったら良いか判らなかったので、納経所に行ってみると「案内図」があり、説明をしてくださいました。昨日も判っていれば、この案合図に気づいていたんでしょうが(笑)  すっかり見落としていました

昨日、「階段大変そう~」と、登らなかった薬師堂への階段を登ると、遊歩道につながるそうです

納経所にあった案内図に気が付いていたとしても、昨日だったら、登ってたかなぁ???? 疑問だなぁ 

 

 

  こんな感じで登り、「琴弾公園内の展望台」に着きます  5分位登ったでしょうか?

地元の方も、丁度良い散歩道らしく、思ったより人は歩かれていましたね

 

展望台まで上がってきました  下に何やら見えます

 肉眼で見ると、もう少しはっきりと「寛永通宝」の文字が見えるのですが・・・・・

写真では、判らないですよね  

地元のおじさんから「朝は、良く見えないよ。昼過ぎになったら、影の加減で文字がはっきりと見える」と教えてもらいました

残念~~~~   

心の目で見てみる・・・・・いやいや、やっぱ見えんぞwwwww 

そのおしゃべり、いや、案内好きのおじさん曰く、「4月の連休前に、文字を綺麗にやり直した。何人も下で作業をして、展望台の上から、号令をかける人がいる。その、号令をかける人が一番いばってる」との事

その様子は想像しかできないですが、大変だろうな~ 

 

有明浜の白砂に描かれた「寛永通宝」は、東西122m南北90m周囲345mもある巨大な砂絵で、琴弾山々頂から見るときれいな円形に見えます。一般には、寛永10年(1633)藩主、生駒高俊公を歓迎するために一夜にして作られたといわれ、他に類を見ないものといえます。この銭形を見れば健康で長生き、しかもお金に不自由しなくなると伝えら、多くの人がこの地を訪れています。

 

 

時間が合えば、こんな風に見えるようです   

<HPより 写真抜粋>  

これを拝めば、ご利益あるかもね  

 

銭形砂絵もしっかり拝みました(ご利益たっぷり有るように 

70番 本山寺へ向かいます 

 

川沿いの道がお遍路道  日差しが強く、暑い・暑い    日焼けしそう

  約5キロ  平坦な道をテクテク歩きます

昨日までの、山道・登り坂が嘘の様でした  でも、こんな道も意外と長く感じる物です

不思議ですよね

 

ぼくちゃんから激写   されました  

3日間の登り・下りの歩きの為か、更に立派なふくらはぎになった気がします(元から立派だった  

 

 

二人で話しながら歩いていると、見えて来たよ   

 

到着~~~  

 

     

 

 

第70番札所 本山寺

本山寺の歴史・由来

大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。

天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれます。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「本山寺」と名を改め、今に至ります。

 

三豊市のHPの中にも本山寺の詳しい案内がありました

http://www.city.mitoyo.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=457

 

 

今回の打ち終わり 「本山寺」へお参りです  今までより少し深く頭を下げて、大門をくぐります

 

 

 

まずは、本堂へ・・・・

 

 本 堂

昭和30年6月22日 国宝に指定され、一重寄棟造り、本瓦葺きの風格あふれる建物。正安2年(1300)建立の折衷様式で、外観は京都風、内部は奈良風の造りです。

 

国宝です 

  

 

 

本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様です。そのため、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています  

競馬の神様じゃないんだよ~

 

その他、本堂の近くで見かけたもの・・・・

お接待の「重し石」 一つ一つ手書きで本山寺のシンボルの五重塔が描かれていました

ありがたく、一人ひとつづつ、記念にいただきました ありがとうございました 

 

 

太子堂

寛政7年 (1795) 建設、明治16年改修、入母屋造屋根の三間堂

平成26年に 国の登録文化財に登録されました

     

沢山の方がお参りされていました

 

 

 

五重塔

 明治43年、住職の頼富実毅(よりとみじっき)が再建。盲目だった実毅は五十九番国分寺を巡礼後、目が見えるようになり、その恩に報いるため堂宇の復興に意欲を燃やしました。遠くからでも目に付き、本山寺のシンボルとなっています。四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。大同4年(809)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました

本山寺へ歩いているときに、遠くから見えていたのはこの五重塔だったのですね

 

竹林寺・志度寺・善通寺の五重塔の事は思い出せますよ。どこも敷地が広くてお参りの後、中を散策するのに時間をかけたのを思い出しました

 

 

大日堂

 

 

十王堂

  

仁王門

室町時代中期建立の三間一戸八脚門。切妻造、本瓦葺。主柱、前後の控柱ともに円柱とする。建築様式は和様を基調とするが、柱の下部に礎盤を設ける点など細部に禅宗様を取り入れている。明治37年8月29日に重要文化財に指定

 

 

 

鐘 楼

 

冠木門

ゆっくりと時間をかけてお参りとお寺の中を見て回りました

難所もあった今回のお遍路さんもこれで終わり

達成感、ほっとした感、色々な気持ちを感じていました

でも、心配してたお天気もほとんど雨に降られることもなく、本当に恵まれていました

これで、2月から4月で歩いた 讃岐の国の 71番 弥谷寺から 86番 志度寺まで繋がりました

後は、87番 長尾寺  そして結願の寺 88番 大窪時を残すのみです

 

ここから、1キロ位離れたJR本山駅まで歩き、帰途につきます

 

本山のショッピングモールで、アイスコーヒーと軽食  冷たい飲み物がすごく美味しかった 

生き返ります

涼しい所でゆっくりと休憩&お土産も購入

 

本山駅へ

 

 

多度津で特急に乗り換え岡山へ    ここでも、1時間くらいのんびりしてました

 そうそう、JR四国は駅の表示も 「駅ナンバリング」されていました

HPより( http://www.jr-shikoku.co.jp/01_trainbus/st_number/index.shtm )

四国を鉄道で旅行される外国人をはじめとして、誰にでもわかりやすくご利用いただくため、乗換駅や下車駅を簡単に理解できるよう、路線記号・番号を併記したものです。列車運行体系を考慮して、乗換えが必要な分岐駅等は複数の駅番号を表示しているんだそです

↓ 多度津  Y12 予讃(YOSAN)線12   D12 土讃(DOSAN)線12  

慣れれば、とても判りやすい表示ですね

 

 

そして、撮り鉄では無いけれど、多度津でもJR九州とは違った車両も見かけたので、パチリ

 本山駅ホームで電車待ちの時    色が鮮やか

アンパンマンのトロッコ列車

 伊予西条行 と  大歩危行

 

8600系特急電車 が停車中

平成26年6月より、22年ぶりの新型特急電車として、利便性・快適性の向上、話題性を兼ね備えた車両なんだそうです。「いしづち103号」および「いしづち104号」として高松~松山間を運転します。

見るだけで、今回は乗ることは無かったですが・・・・・

 

 そんなこんなで、一路岡山へ・・・・・ 瀬戸大橋

 

最後は、新幹線の中で、お弁当  これも楽しみの一つです

 

          

 

GW 5/1の夜出発して、5/5で今回のお遍路さん、無事に終了しました

焼山寺・雲辺寺と険しいと聞いていたので、無事に歩けるのかと、本当に本当に二人とも心配でした

この連休でお遍路さんに充てられる日にちは、最高で5日間(暦通りのお休みなので)

「GW明けの仕事等を考えたら、4日間フルに頑張って歩いて、最終日はやっぱり休息日にした方が良いよね・・・・」

「お天気はどうなるやろうね???」 等々

心配な事ばかりでしたが、何とか二人で励ましあいながら計画をクリアできました

きっとひとりで歩いてたら、無理だっただろうな~ 

(天候は本当にラッキーだったけど 

歩いている時は、慣れない山道の登り下りで、足もいつものウォーキング以上にダメージがありましたが、

それでも、バスやJRをうまく利用しながら(と思ってる)、今思えば、楽しい4日間だったです。

お寺の中、宿泊した宿で、歩いている道で、沢山の方と出会い有、楽しい話の時間有の

「一期一会」という言葉がぴったりの旅でした

 

 

 そして、次に四国に行くときは、いよいよ結願のお参りです