ぼくちゃん & 相棒 の ひ・と・り・ご・と

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『四国八十八ヶ所巡りへ』 第47番札所から第53番札所まで

2014-12-13 18:23:38 | 四国八十八か所巡り

 

 

歩きお遍路 二日目

今日も良いお天気で歩くにはもってこいの日和です

朝、早い時間からの出発。冷え込み、靄もかかっていました

 朝もしっかり食べて、いざ出発 !!!

      

 

宿の前に昨日お参りした「46番札所 浄瑠璃寺」があったので立ち寄りました ↓ ↓

まずは朝のご挨拶からですね(笑)

心身堅固と文筆達成に霊験あらたかと言われる仏手指紋

昨日は他の参拝の方もいらっしゃって、手を置くことが出来なかったので今朝おいて見ました。ご利益あるかな???

 

第47番札所 八坂寺へ向かい、遍路道を歩きます

 

 到着!!!

 

 

第47番札所 八坂寺

八坂寺の歴史・由来

修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。

弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。
だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった

 

 

 

閻魔堂(えんまどう)

 本堂と大師堂の間にある閻魔堂には、「極楽の途」「地獄の途」の2つが設けられている。

それぞれが短いトンネル状になっており、

極楽には美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、修羅道などが不気味なタッチで描かれている。

  

先にやっぱり 極楽の道へ

  

 

 

 

 

 48番札所に向かう途中で、「別格 第九番 文殊院 ( 遍路開祖 衛門三郎旧跡 )」があります

 

 

  

文殊院

遍路の元祖といわれる衛門三郎の屋敷跡と伝えられている寺院。衛門三郎は、托鉢僧(弘法大師)に乱暴な態度をふるまったため、三郎の8人の子供達が次々に死んでいきました。三郎は「子供が死んだのは、私の罪のせいだ」と考え、大師の後を追いかけて札所を歩いたといいます。これが遍路の始まりといわれています。

「諸願成就」 お願いごとを唱えて回してください 「先祖因縁浄化」と書いてあったので、回しながらお参りしました

 

 

 文殊堂から少し歩くと、弘法大師の泊まった跡もありました

 

 

遍路道をテクテク  まだまだ元気です (*'▽')

 

 

 

 第48番札所 西林寺

西林寺の歴史・由来

寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
 

 

 

 ここでは、荷物を降ろしてしばし休憩  まだまだ先は長いので・・・・

 

 

 

第49番札所 浄土寺

浄土寺の歴史・由来

境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。
この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった

空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた 

 

 簡素ながらも堂々とした風格をたたえた本堂は、文明14年(1482)に創建されたもの。

本瓦葺き、寄棟造りで、重要文化財にも指定されているが、和様と唐様が折衷した室町時代の代表的な建物として興味深い。

本堂の内陣にある一間厨子も再建時そのままの貴重な建造物。

 

 

 再び、歩きはじめます。遍路道とは行っても、お墓の中を通る事も・・・・

 

ようやく50番 繁多寺へ着きました

 

 

第50番札所 繁多寺

繁多寺の歴史・由来

寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている
 

 

 

 

ぼくちゃん 鐘をつく  108とはいかないけれど煩悩は捨てられてかな???

 

愛媛県は、ミカンも有名ですよね。住宅地のすぐ横にミカン畑もありました

 

 

 

 

 

第51番札所 石手寺

石手寺の歴史・由来

縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。

 

 以前、道後温泉に旅行した時に、ここには来たことが有りました

その時は、ボランティアガイドの方に、色々と説明をしていただいていたので

きっとその時に「四国八十八か所霊場のひとつ」だときっと教えて頂いていたはずなんでしょうが・・・・

 

 

日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある

 この日も沢山の参拝者が。線香の煙で前が見えなくなるくらいです

五重塔の先には、巨大な弘法大師像も見えましたよ!!! デカッ (=゜ω゜)ノ

  

 

 

 ☆お砂踏みも有りました☆

「四国八十八ヶ所お砂踏み」とは、四国八十八ヶ所各霊場寺院の御本尊をお祀りし、各寺院より頂戴した境内のお砂をそれぞれの正面に敷き、それらを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八ヶ所霊場を巡拝されると同じような功徳を積んでいただけるものです。

 

 

<道後温泉にて> 

 

 

 

 道後温泉駅から、伊予鉄道で、大手町で乗り換え、三津まで

三津駅まで向かう電車の中で、地元にお住いの女性と歓談 15分くらいでしたが楽しいおしゃべり

太山寺行きのバスも出ているよ と色々な情報を頂きました

そこからは、テクテク歩きで 太山寺へ

三津駅前で太山寺行きのバスが止まっていましたが、発車時間まで1時間半位有ったので歩きました

登り坂も有ったけれども、バスより早くお寺まで到着できましたよ(4キロ弱くらいかな???)

  

着いたぁ!思っても、ここからも坂道が続きます

 

 

しかし、境内の前には、またまた長い階段 (-_-;;;)

ああ、しんど~~~い

 ぼくちゃん、一歩先に到着

 

第52番札所 太山寺

太山寺の歴史・由来

開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。
長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。

本 堂

四国霊場では二番目に古いといわれているそうです

 

 

 

鐘楼堂(しょうろうどう)

江戸時代に再建された堂は裃腰と呼ばれる曲線が美しい建物。壁画に描かれた地獄絵・極楽絵は圧巻です。

下がっている綱を引っ張って鐘を鳴らすようになっていました(鳴らせなかったけど)

 

仏足石は、苦しみや悲しみを解きほぐし、転禍私至福、緒願成就するとか

 

 

 今日はの目標は、あと一つ 53番札所 円明寺へ  2.5キロ位の平らな道のりです

 

 到 着 

 

ハイ、ポーズ (#^.^#)

         

 第53番札所 圓明寺

圓明寺の歴史・由来

縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された

 本堂の龍の彫り物

本堂の中には長さ4mはあろうかという、巨大な龍の彫り物が施されています。今にも動き出しそうなこの龍、一説には名工・左甚五郎の作といわれているそうです(目で見る事は出来たのですが、写真を撮ることが出来なかったので「いよ観ネット」より)

 

圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。 

 

聖母マリアを浮き彫りにしたキリシタン灯篭は、キリシタン禁制時代に隠れ信者の礼拝が行われていたそうです

 

 今日はこれでおしまい。道後温泉に宿泊なので 伊予和気駅から松山へ戻りました

     

美味しい物を食べて 明日も元気にがんばるよ

 

 

おまけ <お遍路の途中で発見>

 

 別格 第九番 文殊院で 自分でサッシの戸を開けた猫 最初誰も居ないのに扉が開いて驚きました 

 

 

 

 

 

 

別格 第九番 文殊院で  優しく頭をなでて何を言ったかは秘密です 

 

 第48札所 西林寺にて  金平狸(かな??)

その昔、弘法大師は利口者の狐を大層可愛がっていたが、だんだん頭がいいことを鼻にかけて人を騙して困らせるようになったんで、怒った弘法大師が四国から狐を追放し、その代わりにタヌキを可愛がるようになったらしい