三連休の一日目は、JR九州ウォーキングで、香椎と黒崎へ
香椎宮は有名ですが、実は私は一度も行った事がなかっったのです 楽しみ
起源について
由来について
また、「続日本紀」天平九年(737)夏四月乙巳朔条に「使を伊勢神宮・大神社・筑紫の住吉・八幡二社(宇佐)・及び香椎宮に遣わし、幣を奉り新羅無礼の状を告げしむ」とある。当初、当宮は現在の古宮に仲哀天皇・現在の本殿の地に神功皇后をお祭りしていたのですが、大正4年11月10日より、この本殿にて仲哀天皇・神功皇后を主祭神として、皇子の八幡様・応神天皇・新羅遠征にご功績あった住吉大神を併せ祀っています。
今日も御朱印もいただきました
十月は、神無月ですね 出雲に行くと 神有月と書いていただけるのかな?とふと思ったりして
香椎を歩いた後は、黒崎へ・・・・ 香椎駅で電車を待っているときに、目の前を官兵衛列車通過
黒崎は、「官兵衛ウォーキングコース」 何だか、良い気分でいざ出陣じゃ~~~~
黒崎のウォーキングのもう一つの目的は、黒崎にある「岡田宮」です
ここは、私が百日のお宮参りをしたお宮なんです
神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。
古来当地は北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要に位置し、皇室、公家武門、武将等の崇敬篤く、祭礼法度を定め社領18所、末寺9坊と栄えたり。
天慶3年(940年)、藤原純友追討の折、追捕使の主将・小野好古、副将・源経基、戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉納す。此の神鈴今も当宮に伝来す。
建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せしむ。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興せしむ。此れの棟札今に残れり。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。
爾来、藩主はもとより、長崎街道参勤の九州諸大名の崇敬篤く、社殿造営・社参奉幣等多く、又上り下りの文人墨客等数多く参詣せり。
慶応元年(1865年)三条実美卿、大宰府に流謫の途次、従士・土方久元を伴いて当宮へ参詣し、維新回天の大願成就を祈念し和歌一首を奉納す。
御朱印を頂くときに、「〇〇年前に、お宮参りをしたんですよ」と話すと、
「そうだったら、この本殿は建て替わってますね」だって・・・・・ <その〇〇年は、秘密 笑>
その後、ウォーキング再会。途中で、タイムスリップしたような風景が
武者行列を見かけました
信号を渡り損ねた、二人に記念撮影をお願いしました
「十文字」のポーズを三人で取り、はいチーズ
曲里の松並木
江戸後期の狂歌師太田南畝(おおたなんぽ)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木をゆくゆく坂を上り下りて、また坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」とその紀行文(小春紀行)にこの「曲里の松並木」あたりの描写をしています。
この松並木は当時幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で、日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中山道)、さらに箱根の杉並木(東海道)はその代表的なものです。
昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて街道には多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の面影を留めているのみで、当時の松も残り2本となりました。
なお、史跡の指定範囲は幅20~30メートル、長さ約310メートル、面積約8000平方メートルで、現在旧街道緑地として整備されています
この中に、二本だけ江戸時代から残る松が有るそうです。
パワー貰えたかもねぇ
ウォーキングの後は、これがお楽しみ
新日鉄住金(旧新日本製鐵)のおひざ元ですもんね スチール缶をチョイスです
渇いたのどに、美味しい一杯でした