~ その1からの続きでーす。 ~
桑津墓地の次のウォークラリーの場所の
『桑津大塚・桑津赤塚』 は JR美章園駅北側にあった 『鑵子(かんす)塚』 とともに
桑津三塚と呼ばれていました。
『桑津遺跡』
昭和4年(1929年)、桑津小学校の工事現場から弥生時代の土器や石器が出土。
その後の発掘調査で周辺地域から縄文時代前期のせきぞく石鏃(いしやじり)なども見つかり
桑津に人が住み始めたのは約1万年以前にさかのぼると判明しました。
また、平成3年(1991)、廃井戸の底からわが国最古の「呪符木簡」が発見され大きなニュースに
なりました。
(上=桑津遺跡弥生土器、
下=最古の呪符木簡出土地)
『桑津環濠集落』
戦乱が多かった中世以降、町や村は周囲を水濠や竹藪を巡らし自衛しました。
桑津もそうした環濠集落で環濠は昭和初期まで、およそ400年間残っていました。
環濠の目的は自衛の他、保水灌漑、洪水対策です。村落内の道は細く先が見えないように
屈曲したり、袋小路になっています。四辻も見通しが利かないようにずらされていて入って来た
よそ者をまどわすように作られています。
案内の方からは 「絶対に迷子にならないように付いてきてください。迷子になったら出て
来られませんから。」 とおどされて・・・。(笑い)
『最古の呪符木簡』
1991年に難波長柄豊碕宮が造営されたころの百済様式の大壁建物を含む
6棟の建物と井戸が発掘されました。井戸からは道教の記号と呪文が書かれた
木簡が出土しました。その後、日本最古の呪符木簡になるということが分かりました。
『京善寺』
古くは「金剛院」 と称せられ厄除祈願道場として栄えましたが、1615年(元和元年)
大坂夏の陣の兵火で焼失したため、詳細は不明です。その後、1653年桑津の篤信者により
再興、寺号を心王山殊勝院 『京善寺』 と改めました。
(上=京善寺、下=桑津天神社)
『桑津天神社・髪長媛・大坂の陣戦将士の碑』
「日本書記」によると応神天皇が日向の国から美女の誉高い髪長媛を召され
桑津に住まわせたと記されています。媛はのちに仁徳天皇の妃となりました。
桑津天神社の主神は少彦名命(すくなひこな)で、髪長媛が病にかかった時に
医薬の祖神・少彦名命に祈願して全快した縁故で祀られたと伝えられています。
境内には大坂の陣で戦没した将士の慰霊碑があり、桑津で豊臣方と徳川方の激しい戦いが
あったことを証明しています。
『見性寺』
現在は桑津天神社に隣接するこじんまりとした寺です。聖武天皇の勅命を受けて
行基菩薩が開いたと言われています。
『五輪塔・五輪橋』
桑津3丁目付近の駒川にかかる橋で、近くに五輪塔があるので 「五輪橋」 と
命名されています。
『駒川』
古くは高麗川(巨摩川)と書かれました。川沿いに百済などからの渡来人が住み着いた
と伝えられています。
『杭全庄(くまたしょう)』
大阪の難読地名の1つで、奈良時代に存在した郷名です。
(上=大阪の陣戦将士の碑、中=見性寺
下=五輪塔)
『嫁そしり堤・這いあがり堤』
大和川の付け替えが行われるまで、桑津から東方には駒川・西除天道川・西除今川の
3つの川が近接した間隔で北上し、堤が三重の堀となっていました。
大坂夏の陣で負傷した兵士が逃げ込むのに格好な場所で今川の堤をやっとの思いで
這い上がったことから 「這い上がりの堤」
江戸時代大念仏寺に参詣する老婆たちが この堤まで来ると、付近に人がいないために
嫁の不平や不満を安心して語り合ったことから、この名が付いたようです。
『難波大道』
日本書記に 「難波から京に至るまでに大道を置く」 という記述があり、「朱雀門跡」(中央区上町
1-9、市立聾唖学校内)と、松原市天美西の今池浄水場内にある「大道跡」 とを直線で結ぶと、
山坂神社の少し東、法楽寺境内の西を抜ける筋に当たります。
帰りは、JR東西線の 「東部市場前」 駅前で解散となりました。
私たちは、天王寺まで出て焼肉の夕食を取ました。
楽しい、有意義な一日が完了。
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