【お知らせ】
9月11日、2014年発行の『コケに誘われコケ入門』(文一総合出版)の新訂版が出ました。
コケの基本をしっかり押さえているのは前作そのままに、コケ図鑑ページが50種からなんと100種に大幅増量。
表紙、グラビアページ、顕微鏡写真のページが一新していたり、コケを使った遊びの紹介まであったりと、
すでに前作を持っている人にも「これはやっぱり買わねばなるまい!」と思わせる心憎い内容になっています。
文一総合出版のホームページには「立ち読み」ページも載っていますので、ご興味がある人はぜひ。
▲『生きもの好きの自然ガイド このは7 新訂版 コケに誘われコケ入門』定価1,728円(本体1,600円+8%税)
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さて、春に本作りも一段落して、時間の余裕が少し出てきた今日この頃。
この夏は、長らく〝積ん読〟になっていた本や、人から勧められた本を読んだり、
気になっていながらずっと行けていなかった場所を訪ねてみたりしていた。
この春までの「とにかくゴールに向かってできる限りを尽くして突き進む」という本制作の時間の使い方とはまた違った、
「どこに行くかは自分でもよくわからないけど、なんとなくピンとくる方に進んでみる」みたいなことを少し意識してやっていた夏だった。
(私だけかもしれないが、夏はそういう「どこ行くあてもない」ことをするのにぴったりだと思う)。
その一つとして、8月初旬に出かけたのが和歌山県の海沿いの街。
コケやキノコ関係の本を読んでいてたびたび名前を見かけては、
その存在がずっと気になっていた「南方熊楠」の足跡をたどる旅へ出かけた。
南方熊楠(みなかた くまぐす)とは、明治から昭和までを生きた和歌山県出身の学者(74歳で没)で、
私が普段よく話をするコケ屋界隈、生き物屋界隈の人々の間では周知の人物だ。
しかし一方で、幼なじみ(基本的にみんな文系)や分野外の知人には、「誰それ?」と名前さえ知らない人も多い。
熊楠を知っている人ならば誰もが思うように、この人のことをひと言で表すのはとても難しい。
粘菌やキノコなど隠花植物を日本で先駆けて追いかけた生物学者であり、
柳田国男とも交流が深かった民俗学者であり、夢や神話、哲学、性科学などにも精通していたという、人呼んで「知の巨人」。
20~30代の十数年間はアメリカ、キューバ、イギリスへ海外留学し、キューバでは新種の地衣類を発見。
十数か国語を理解したといわれ、イギリスの科学雑誌『Nature』に投稿・掲載された論文は50以上、
その投稿数の記録はいまだ破られていない(らしい)。
40代の頃は、「エコロジー(生態系)」という言葉の概念を日本でいち早く理解して使い、
日本各地の鎮守の森を国の伐採計画から守るために、地域の神社を統合する「合祀令(ごうしれい)」に猛反対した。
一時はそのせいで投獄されるも、結果的には世論を動かして法律の廃止に至らせる。
60代では、学者としての功績が認められ、キャラメル箱に入れた標本を携えて
和歌山を訪れた昭和天皇に、粘菌についてご進講(これが一番有名な話かも)。
国内外でそれだけの偉業を成し遂げながらも、どこの組織にも属さない生涯フリーの研究者で、
採集した動植物を公に発表することにはそこまで興味がなく、たとえば植物は植物分類学者の牧野富太郎や
岡村周諦(日本の蘚苔類学の草分け的研究者)に送って、代わりに新種として報告してもらっていたりした。
家族や友人、弟子たちのサポートだけを頼りに、森羅万象の成り立ちを追いかけ、
そのすべてを日記をつけるようにひたすら記録し続けた在野の学者。
これだけのトピックを並べてもまだその半分は取りこぼしているくらい、
とにかく熊楠がその一生でやってきたことは質量ともに常人のそれとは桁違いなのである。
さらに、無類の大酒飲みかつ癇癪持ちで、一度怒ると手が付けられなくなって暴力事件を起こすこともしばしば。
40代までは女性と交わったことがなく男色で、植物採集のために入った那智の森では霊的なものとも交信していたとか、
特技は自分の意思で自由自在に嘔吐することだったとか、その人となりについても、信じがたいほどにエキセントリックなエピソードばかり・・・。
これまで南方熊楠についての読み物を何冊か手に取ってみたが、
「本当にそんな人いたの?」「後世の人が勝手に話を膨らませてるんじゃなくて?!」
と知れば知るほど、なんだか疑念が湧くわばかりで、その姿はますますぼんやりとしてしまうのだった。
そのようにして何年も過ぎゆくうちに、この夏。
2017年はちょうど南方熊楠の生誕150周年という情報をネットか何かで知った。
ゆかりの地では熊楠にちなんだイベントが多いという。
よし。どんな人なのか、よい機会だから自分自身で行って確かめてみよう。
結局、先人たちと同じようにその足跡をたどることしかできないが、
現地に行ったからこそ感じられることがきっとあるはず。
そんなわけで8月最初の金曜日の朝、熊楠が長く住んでいた和歌山県の紀伊田辺に向かうべく「特急くろしお」に飛び乗った。
▲車中から眺めた太平洋
紀伊田辺の駅から徒歩10分ほど、住宅街の中に突如として現れるのが「南方熊楠顕彰館」だ。
ここでは南方熊楠の蔵書や資料を恒久的に保存し、広く一般に公開している。
▲南方熊楠顕彰館の入口
この日は特急くろしおで移動中、紀伊半島を南下し始めたあたりから雨がざあざあ降りで、
紀伊田辺の駅に降り立った時にちょうど雨は上がったものの、肌はどこもかしこもじっとりとまとわりつくような湿気に包まれていた。
とはいえ、そんなに悪い心地はせず、むしろ普段、瀬戸内海式気候に慣れ親しんでいる者としては、
太平洋につき出た紀伊半島を想像しながら「これぞ多雨多湿な太平洋岸式気候!」とひそかにわくわくしていた。
南方熊楠がこの地でこのような空気に包まれながら研究の日々を送っていたのだと思うと、さらに気持ちが高ぶる。
高湿度の屋外とは対照的に館内はクーラーがよくきいており、
平日の昼間ということもあってほとんど人けもなかった。
▲館内。1階は主に熊楠の偉業別にその詳細をまとめたパネルが展示がされていた
▲2階。熊楠が存命中の新聞記事をはじめ、南方熊楠にまつわるさまざまな資料を手に取って読むことができる
▲熊楠の日記(レプリカ)と晩年の写真
▲右は植物採集用の野冊。左は植物採集に出かける際の一コマを収めた写真だが、
じつは「こんな格好で採集に行くんですよ」というのを見せるための〝やらせ〟写真なのだという
▲昭和天皇にご進講の際に献上したキャラメル箱(レプリカ)。この大きな箱の中にいくつも標本を収めていた。
キャプションには「桐の箱も用意していたが、手袋をはめて桐の箱のふたを開けるのは困難なので、キャラメル箱で献上したと言われている」とあった
1階、2階と館内をゆっくりと一周したあと、もう一度1階に戻り、
一番奥の展示室で開催中だった企画展「標本から読み解く南方熊楠」へ。
▲企画展のポスター。展示担当は、土永知子(和歌山県立田辺高等学校教諭) 、土永浩史(和歌山県立神島高等学校教諭)、
萩原 博光(国立科学博物館名誉研究員)、大和茂之(京都大学瀬戸臨海実験所助教)による(敬称略・あいうえお順)
この企画展の展示物はすべて撮影禁止だったのでここには載せられないが、展示内容がとてもよかった。
熊楠が採集した海産生物や植物の標本、彼が記した観察記録、図譜などの実物が拝めたことはもちろん、
それらにまつわるエピソードが本展の展示を担当された熊楠研究者たちによって丁寧に解説されていた。
やっぱり肉眼で実物を見るということは大切で、熊楠の屈強そうな見た目とは裏腹に、スマートで流れるようにさらさらと書かれた標本袋の筆記体、
茎葉の長いものなどはところどこを几帳面にテープでとめながら、丁寧に押し花状にされた高等植物やシダ類の標本、
ネットや本で見ていたよりもずっと淡く優しい筆致のキノコの図譜、そしてそれらを眺めながら添えられた解説文を読んでいくと、
これまで私の中の熊楠像のほとんどを占めていた「奇人」とはまた違った彼へのイメージが浮かび上がってきたのだった。
たとえば、それはどんなふうかというと、成果が出ようが出まいが決して手を止めることなく地道にこつこつと採集活動・標本整理を続けている姿や、
人よりも頭何個分も抜きん出ていながらも、じつはとても負けず嫌いで他人のこともちょいちょい気になり、悔しい時は大人げないほど正直に悔しがる姿、
とはいえ決してメゲたり恨んだりすることなく、それをバネにしてまた研究に打ち込もうとする姿など。
このような姿が自然と頭に浮かんできて初めて私は熊楠に親近感が持てたような気がした。
もちろんこれは単に想像にすぎないし、もし事実であっても、このようなことはすでにどこかの本で語り尽くされているのかもしれない。
ただ、実物を見てそう感じた、ということが今回の私の旅ではとても重要だったと思う。
ちなみに撮影禁止ということから、解説文で気になったところはすべてメモを取っていたので、
気付いたら1時間以上もさほど大きくない展示室に一人でこもっていた。
きっと顕彰館スタッフの人からしたら、なかなか企画展から出てこないアヤシイ人だったかもしれない(すみません…)。
ここまでずいぶん長々と書いてきたが、コケ関連でメモしたことをせっかくなのでこのブログにも記しておきたい。
<気になったエピソードのメモ(主にコケ関連)>
※企画展の解説文から私個人が勝手に要約したメモ書きなので、正確でない部分があるかもしれないことをご了承ください。
・クマノチョウジゴケ
唯一、南方熊楠の名前が残されている蘚類。学名は「Buxbaumia minakatae」。
道端でつまずいた倒木を後ろの人のために取り除こうとした時に発見。最初はキノコの仲間と思って採集したようだ。
英国産のウチワチョウジゴケとよく似ていると思ったが、大きさや生育場所の違いから別種と推測。
同郷出身のコケの研究者・岡村周諦に送って確認してもらい、新種として発表してもらう。
葉や茎が退化したこのユニークなコケが見つけられたのも、熊楠が普段から菌類や変形菌に興味を持ち、
その類への観察眼が鋭かったからだろうとのこと。
・イソベノオバナゴケ(現:ホウライオバナゴケ/シッポゴケ科)
塩性蘚類で、1911年『植物学雑誌』に岡村周諦が国内で初めて本種を発表。これも採集したのは熊楠だった。
現在の白浜町(和歌山県)にあたる西牟患郡湯崎の海岸で採集。
それまで海岸に生育するコケは国外で数種が知られていたが日本では記録がなかった。
しかし、熊楠は子どもの時からすでにこのコケの存在を知っていたようだ。
ただ、後の1970年代にこのコケのタイプ標本を水谷正美博士(服部植物研究所)が詳細に調べたところ、
他の蘚類と比べて特段に塩分が多く含まれている可能性は低いとしている。
※『日本の野生植物 コケ』(平凡社)でも「ホウライオバナゴケ」を引いてみたが〝塩性〟の記述はなく、生育場所も「地上や土に覆われた岩上」とだけある。
・隠花植物への興味
留学先のアメリカのアナーバーの農学校で、植物・菌類のアマチュア学者ウィリアム・カルキンスと知り合ったことが、大きく影響している。
高等植物の標本・スケッチなどに一応のめどがつくと、熊楠は隠花植物も同様の手法で採集・整理を行っていくようになる。
なお同時期、高等植物についてはすでに牧野富太郎などによって美しいボタニカルアートが描かれ、図鑑として出版されつつあった。
それを知った熊楠は、まだ図鑑もできていない菌類や藻類により時間と労力をかけたいと思っていたという。
・ギアレクタ・クパーナ
熊楠自慢の地衣類。1891年(明治24年)、熊楠が24歳の時にキューバで採集し、
研究の師であったW・カルキンスを通じて植物学者のニイランデル(仏人)が新種として発表。命名もニイランデルが行った。
本種はサラゴケ科サラゴケ属の痂状地衣で、石灰岩性の岩上を好む。熊楠はこういった固着性地衣類にも興味を示し、
岩石を割るためのハンマーやタガネなどを用意し、本格的な採集を心がけていたようだ。
・熊楠の蘚苔類の採集標本点数
熊楠が海外留学を終えて帰国したのは1900年。33歳の時だった。
そこからコケや地衣類の採集が始まり、34歳で勝浦、35歳で那智(ともに和歌山県)へ移ってからは、どんどん採集点数が増えていった。
39歳で結婚して田辺に移り、42歳の頃がもっとも蘚苔類の採集が多く、標本の数は1年で200点を超えた(もちろん他の動植物の採集もしつつ)。
ちなみに地衣類の採集数のピークは1902年、熊楠35歳の頃。那智に滞在中、1年に約300点弱を集めた。
以降、採集記録がまったくない年もあるが、40代以降も蘚苔類の採集活動は続き、最後の記録は1935年、熊楠が68歳の時である(おそらく数点のみ)。
なお、高等植物の採集は、熊楠が74歳で没した1941年まで行われていた記録が残っている。
▲顕彰館のエントランス近くに展示されていたハンマーなど。これで岩場の地衣類を採集していたのかも
最後に、常設展示で忘れられないのが熊楠が息子・熊弥(くまや)のために手に入れたというこの顕微鏡だ。
この時代の顕微鏡がいかに貴重か。熊楠は40代で息子と娘をもうけているが、とりわけ息子には期待をかけ、かわいがっていたようだ。
しかし熊弥は10代の後半で突如、精神を病んでしまう。
発病の原因は不明だが「熊楠の息子」であることが精神的な重荷となったともいわれる。
熊楠は大きなショックを受けつつ、熊弥が自宅療養中は研究活動もしながら看護もし、熊弥の様子を克明に記録した。
自分が死ぬ間際まで熊弥のことを心配していたという。
しかし結局、熊弥は熊楠亡き後も病状が全快することはなく、52歳で没している。
この顕微鏡は熊弥が何歳くらいの時に購入したものなのか、展示の中ではとくにその解説はなかった。
発病後の熊弥は、発作が起こると感情が抑えられず、時に熊楠の大切な標本を投げ散らかしたり、図譜を破ったりもしたそうだ。
果たして、親子にこの顕微鏡を一緒にのぞいてコケや粘菌の世界を楽しむ穏やかな時間が少しでもあったのだろうか。