もういちど行間逐語訳を見直してみた。
逐語的には、
HAPPY the poor ones as to the spirit
makarioi oi ptokoi to- pneumati
しあわせなことだよ 貧しいひとたちは 霊に関して(向かって)
となり、よくみると自分の霊という言葉にはならない
定冠詞を打った霊に向かっている貧しい人たちだ。
この聖句に関する一般の注解をだれつしてみます。
これらの人は霊的なもの、つまり神の属性を常に求めている人、衣服や食物、健康など、命に至るまで全てを神に頼る人のことです。このような人々にとって、感謝の祈り、また導きと赦しと強さを求める心からの祈りを抜きにした生活は一日たりとも考えることはできず、これが日々の糧を得る基となっています。
主はすべての人を救うために来られた。神の子主イエス・キリストが感動して「幸いである」と宣言されると、そこに幸いが始まるのである。それは人間的な幸不幸の基準とは全く異なる幸いである。一時的に幸福になっても、やがて消えてしまう幸せとも違う。キリスト教の歴史を振り返ると多くの殉教者が出た。自分の命が危機に瀕しても失われることのない幸せを彼らはつかんでいた。
旧「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との有名な聖句から来る言葉で、原文のギリシャ語でも英語でも霊において貧しい(spiritually poor)ですが、真意は「謙遜あるいは謙虚な人、柔和な人、もしくは「神にのみより頼む人」と理解されたり、あるいは字義通り「霊的に乏しく教えの必要性を感じている人」したがって「教えを求めている人」と解釈されたりしています。
有名なMatthew Henry Commentary(注釈書)は下記のように説明しています。
It is designed to remove the discouragements of the weak and poor who receive the gospel, by assuring them that his gospel did not make those only happy that were eminent in gifts, graces, comforts, and usefulness; but that even the least in the kingdom of heaven, whose heart was upright with God, was happy in the honours and privileges of that kingdom.
「才能や資質に優れ、あるいは生活の糧に富み、あるいは何かと有用な人が幸福になるだけということではなく、天の国においてはもっとも小さなものでも神に心を向ける者が名を高められ特権を受けることで幸せとなるということを伝えることを目的としている。」とあり、その意味では、上記説明の両者が説明されているものと考えられます。
幸福(さいはひ)なるかな、心(こころ)の貧(まづ)しき者(もの)。天國(てんこく)はその人(ひと)のものなり。[引照]
口語訳 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳 ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳 「さいわいなのは霊に貧しい人々、
天国は彼らのものだから。
新共同 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる酬(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかし「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。
辞解
[貧しき] 原語ptōchosは乞食を意味する。
3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。この箇所の直前、マタイ4章24節によれば、イエスのもとに集まってきた群集は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」でした。このまさに「貧しい人々」に向かって、イエスは「幸い」と呼びかけたのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、神的受動形と言われるもので、実は「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」という意味です。ここでも同じように神のいつくしみと救いが約束されていますが、これこそがイエスの「福音=よい知らせ」だったのです。わたしたちはこの言葉を、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くことができるでしょうか。
ざっと見ても、どの説明もピンとこない感じがします
逐語的には、
HAPPY the poor ones as to the spirit
makarioi oi ptokoi to- pneumati
しあわせなことだよ 貧しいひとたちは 霊に関して(向かって)
となり、よくみると自分の霊という言葉にはならない
定冠詞を打った霊に向かっている貧しい人たちだ。
この聖句に関する一般の注解をだれつしてみます。
これらの人は霊的なもの、つまり神の属性を常に求めている人、衣服や食物、健康など、命に至るまで全てを神に頼る人のことです。このような人々にとって、感謝の祈り、また導きと赦しと強さを求める心からの祈りを抜きにした生活は一日たりとも考えることはできず、これが日々の糧を得る基となっています。
主はすべての人を救うために来られた。神の子主イエス・キリストが感動して「幸いである」と宣言されると、そこに幸いが始まるのである。それは人間的な幸不幸の基準とは全く異なる幸いである。一時的に幸福になっても、やがて消えてしまう幸せとも違う。キリスト教の歴史を振り返ると多くの殉教者が出た。自分の命が危機に瀕しても失われることのない幸せを彼らはつかんでいた。
旧「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との有名な聖句から来る言葉で、原文のギリシャ語でも英語でも霊において貧しい(spiritually poor)ですが、真意は「謙遜あるいは謙虚な人、柔和な人、もしくは「神にのみより頼む人」と理解されたり、あるいは字義通り「霊的に乏しく教えの必要性を感じている人」したがって「教えを求めている人」と解釈されたりしています。
有名なMatthew Henry Commentary(注釈書)は下記のように説明しています。
It is designed to remove the discouragements of the weak and poor who receive the gospel, by assuring them that his gospel did not make those only happy that were eminent in gifts, graces, comforts, and usefulness; but that even the least in the kingdom of heaven, whose heart was upright with God, was happy in the honours and privileges of that kingdom.
「才能や資質に優れ、あるいは生活の糧に富み、あるいは何かと有用な人が幸福になるだけということではなく、天の国においてはもっとも小さなものでも神に心を向ける者が名を高められ特権を受けることで幸せとなるということを伝えることを目的としている。」とあり、その意味では、上記説明の両者が説明されているものと考えられます。
幸福(さいはひ)なるかな、心(こころ)の貧(まづ)しき者(もの)。天國(てんこく)はその人(ひと)のものなり。[引照]
口語訳 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳 ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳 「さいわいなのは霊に貧しい人々、
天国は彼らのものだから。
新共同 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる酬(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかし「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。
辞解
[貧しき] 原語ptōchosは乞食を意味する。
3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。この箇所の直前、マタイ4章24節によれば、イエスのもとに集まってきた群集は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」でした。このまさに「貧しい人々」に向かって、イエスは「幸い」と呼びかけたのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、神的受動形と言われるもので、実は「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」という意味です。ここでも同じように神のいつくしみと救いが約束されていますが、これこそがイエスの「福音=よい知らせ」だったのです。わたしたちはこの言葉を、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くことができるでしょうか。
ざっと見ても、どの説明もピンとこない感じがします