きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

再びマタイ5章3節

2012-11-22 21:33:45 | 日記
もういちど行間逐語訳を見直してみた。

逐語的には、

HAPPY the poor ones as to the spirit

makarioi oi ptokoi to- pneumati

しあわせなことだよ  貧しいひとたちは 霊に関して(向かって)

となり、よくみると自分の霊という言葉にはならない

定冠詞を打った霊に向かっている貧しい人たちだ。

この聖句に関する一般の注解をだれつしてみます。

これらの人は霊的なもの、つまり神の属性を常に求めている人、衣服や食物、健康など、命に至るまで全てを神に頼る人のことです。このような人々にとって、感謝の祈り、また導きと赦しと強さを求める心からの祈りを抜きにした生活は一日たりとも考えることはできず、これが日々の糧を得る基となっています。

主はすべての人を救うために来られた。神の子主イエス・キリストが感動して「幸いである」と宣言されると、そこに幸いが始まるのである。それは人間的な幸不幸の基準とは全く異なる幸いである。一時的に幸福になっても、やがて消えてしまう幸せとも違う。キリスト教の歴史を振り返ると多くの殉教者が出た。自分の命が危機に瀕しても失われることのない幸せを彼らはつかんでいた。

旧「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との有名な聖句から来る言葉で、原文のギリシャ語でも英語でも霊において貧しい(spiritually poor)ですが、真意は「謙遜あるいは謙虚な人、柔和な人、もしくは「神にのみより頼む人」と理解されたり、あるいは字義通り「霊的に乏しく教えの必要性を感じている人」したがって「教えを求めている人」と解釈されたりしています。

有名なMatthew Henry Commentary(注釈書)は下記のように説明しています。

It is designed to remove the discouragements of the weak and poor who receive the gospel, by assuring them that his gospel did not make those only happy that were eminent in gifts, graces, comforts, and usefulness; but that even the least in the kingdom of heaven, whose heart was upright with God, was happy in the honours and privileges of that kingdom.

「才能や資質に優れ、あるいは生活の糧に富み、あるいは何かと有用な人が幸福になるだけということではなく、天の国においてはもっとも小さなものでも神に心を向ける者が名を高められ特権を受けることで幸せとなるということを伝えることを目的としている。」とあり、その意味では、上記説明の両者が説明されているものと考えられます。
      

幸福(さいはひ)なるかな、心(こころ)の貧(まづ)しき者(もの)。天國(てんこく)はその人(ひと)のものなり。[引照]
口語訳 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳 ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳 「さいわいなのは霊に貧しい人々、
  天国は彼らのものだから。
新共同 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる酬(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかし「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。

辞解

[貧しき] 原語ptōchosは乞食を意味する。

3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。この箇所の直前、マタイ4章24節によれば、イエスのもとに集まってきた群集は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」でした。このまさに「貧しい人々」に向かって、イエスは「幸い」と呼びかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、神的受動形と言われるもので、実は「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」という意味です。ここでも同じように神のいつくしみと救いが約束されていますが、これこそがイエスの「福音=よい知らせ」だったのです。わたしたちはこの言葉を、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くことができるでしょうか。




ざっと見ても、どの説明もピンとこない感じがします

colin quackenbush コリン クワッケンブッシュ 兄弟にかんして

2012-11-22 15:36:40 | 日記
ホチキスさんの情報から

これまで意識していなかったコリン・クワッケンブッシュ兄弟が

すごく気になっています。

彼はハリーペロヤンとならぶ 目ざめよ の執筆委員です。

またものみの塔の記事も書いていました。

当時の目ざめよの編集委員は

Harry Peloyan, Sam Buck, Colin Quackenbush and Eric Beveridge.

また、ものみの塔の執筆者たちは

George Aljian, Eric Beveridge, Sam Buck, Steve Johnson, Syril Chan, David Iannelli, Dan Black, Eugene Smalley, Bob Pevy, Colin Quackenbush, Harry Peloyan, John Wischuck, Lee Waters, Manfred Vencebi, Circo Aulicino

だったようです。

この人たちがローテンションを組んで順繰りに記事を書いていたようだ。

それを執筆委員会のジョン・バーとバリー兄弟が承認したら

記事になって私たちが読んでいた。

1978年に家族生活の本をクワッケンブッシュ兄弟が執筆しています。

また、ADHDの問題が喚起された時、いち早く目ざめよのシリーズの記事に

したのもクワッケンブッシュです。

一般の信者に直に影響するマイナーな問題に敏感だったのかもしれません。

また、驚く事に

あの ヘイドン・キャビントン 兄弟

昔の協会の副会長であり協会の弁護士だった兵

躍進する新世界ののビデオに出てきますが、「まるでマフィアあがりのような

恐れをしらない大胆不敵なクリスチャンらしくない顔をした

兄弟の葬式の話をしたのが、コリン・クワッケンブッシュ兄弟でした。

確か途中ヘイドン・キャビントン兄弟は一度アルコールか何かで排斥されて

また復帰していたかと思います。

1979年コリン・クワッケンブッシュ兄弟たち執筆委員会と統治体が

意見の衝突をし始めたようです。

クワッケンブッシュうの主張は144000人は一世紀の終わりにすべて

集められたという内容だったようです。

理由は1世紀のクリスチャンだけですでに144000人以上いたはずだとい

至極もっともな意見でした。

この当時はいろいろ思いつき発言が許される風潮が本部にありました。

この直後にそれが許されなくなり

レイモンド・フランズなど背教という罪にでっち上げて排斥する

現代の許容範囲の狭い運営方法に変わっていったように思います。

彼が残している話は

(見る目、聞く耳、感じる心)

(来て、ナザレから来た人を見よ 1,2,3)

(知るようになる)

(書士たちのようでなく権威をもって話す人がいる)

(なぜイエスは彼が行ったように教えたか)

(全くの喜びとなる事を信じない)

と興味をそそる話のオンパレードです。

クワッケンブッシュは残念がら亡くなっています。

こうした寄り添ってくれる優れた執筆者が協会にいなくなっているのは

今の信者にとっては悲劇だと思います。

マタイ5章3節 の 霊はだれの霊か?

2012-11-21 09:44:11 | 日記
コメントを見て

引き続きこの問題を書きなおそうと思いました。


私自身 マタイ5章3節の以前の思考は

霊→見えない世界→神の世界


という考えで  霊的な必要→霊的な世界への必要→神の領域

のようにとらえていました。

しかし、この霊は神の霊ではありません。


自分の霊なのです。

神の霊の必要を自覚する人でなく


自分の霊の必要を自覚する人なのです。

自分の内なる霊が何を欲しているのか

自分とは何か

つまり自分個人のアイデンティティを探る真剣さ調査が必要なのです。

自分が問題定義したいのは、

エホバの証人の多くは

外から張られるタイトル

開拓者、長老、奉仕のしもべ などに振り回されて

本当の自分がだれなのか?きちんと追求していますか?

という問いかけがこの説から正当に問いかけたいという点です。


この点を深く掘り下げているのは

黙想の公開講演の参照資料にもなっていますが

ものみの塔 78年6月1日号

あなたは一人だけの時間を大切にしていますか

という題の記事の

内面的な成長という副見出しが参考になります。

自分の内側を時間をかけて探ってゆくと最後に

深遠な真理と意義の貯蔵所を見出すと書かれています。

意義の貯蔵所という表現が素晴らしい。。

深く粘り深い自己分析で

自分のもつ6つのものがわかります。

1)見解

2)傾向

3)態度

4)感情

5)野心

6)願望

この6つを正確に時間をかけて内面を探り言い当てなければなりません。


そして、驚く事に内面を探ってゆくと

多くは正されるだけでなく、

捨てられる必要なものが多くある事に気がつくという事だ。

これが、自分の霊  の必要に意味する事と似ているかもしれない


つまり内面をさぐると乞食状態の内面しかない事に気がつくというものだ。

その点をこの記事ではこのように表現しています。


わたしたちの内面はなにかをいれることはできても、

大部分はからっぽで実を結ばない器に似ている


この表現に10代だった自分には、まるで雷を打たれたような衝撃を受けた。。


その日以降、内面の世界を考えてゆくあまり

血の中をはってゆくような苦しい時間を過ごした。

そうした意味では、バプテスマを受けてからの方がすごくつらかった。

外からつけられるタイトルにはなにも関心がわかなかった。


レイモンド・ビクター・フランズのメッセージをどう読むか

2012-11-20 08:43:02 | 日記
ネットに入っているエホバの証人が通る道として、

必ずレイモンド・フランズの良心の危機を読むかどうかという問題が

必ず生じます。

大半のエホバの証人は背教者の本という事で読まない方を選ぶ人もいます。

その場合、組織に対して問題意識を持つ事もなく平安でいられると思います。

大変なのは、全く無防備で免疫のない状態のエホバの証人が

その本を読んだ後に生じる大変な状況です。

長年信じていた組織に裏切られたように感じ、急速に組織から離れたり

あるいはネットで攻撃的に組織を批判する人になったり、

急速にに組織のあらさがしをして

全否定してしまい、自分の人生もおまけに否定してしまって

自己崩壊的な事態が生じてしまっているように思います。

ものみの塔協会の方ももきちんと答えないで

北朝鮮や中国共産党と同じ路線でネットを見させない事で守ろうとし

余計に信頼をお落としてしまったように思います。


レイモンド・フランズ自体 組織を全否定しているわけでない







この組織の代表者たちが悪意を持って人をだます人たちでない

事は常日頃見聞きしてわかっている。

むしろ、信じ込みやすい人たちで組織が運営され言える事が問題だと

ものみの塔協会自体は、レイモンド・フランズを排斥した後で

自らレイモンド・フランズの指摘した点を少しずつ改善と変更を加えている。


アメリカにパーフェクト ワールドという言葉があります。

たとえば、野球で打席に立つごとにホームランを打てたら

パーフェクト ワールドになるけど現実はそのように行かない。

だから、パーフェクト ワールドが理想だけど

もしか全店を一つ上げるとすれば何を改善するかという思考で

問題を善処してゆくやり方だ。

ものみの塔協会は信者によって、統治体にパーファクトワールドの幻想を

与えすぎた

考えてみたらどんな人間も権力を握ったら、名声やお金やいろんな事に弱くなる

ものみの塔協会だけが例外でそのような事は起きないと考えるとすれば、

そうした事自体が現実的でない幻想を持つことになってしまう。

ものみの塔協会が宗教組織としてパーフェクトだと理想なんだけど、

改善があるとすれば何かという姿勢で臨んだ方がいいような気がします。

全否定していっても何も生じない

もちろん、全肯定はもっとたちが悪いですが・・・・

部分否定でもいいと思います。

ものみの塔の反対者たちが、どんなに声高に反対しても

それに代わるものが作れないわけですから。。。

自民党政権を反対して理想を述べた民主党政権でそれに代わるものが作れなかったように。。


むしろ、ものみの塔を全否定せずに

地方に作り上げた老若男女のまれに見るコミュニティーを

いかに幸せな時間を作れるコミュニティーに変えてゆく知恵が

地元の会衆のそれぞれの人に託されているように思えてなりません。

ものみの塔のゴマンとある間違いを指摘しあげつらっても何も生まれてきません。


自分が以前いたもてなしの素晴らしい姉妹がいました。

彼女はバプテスマを受けましたが、聖書や組織についてはほとんどしりません

ただ、仲間の兄弟姉妹を愛し

出汁から丁寧に取った料理を作り、それを食べて皆は幸せだった。

ある日、若い自分が当時のものみの塔協会の会長のフランズ兄弟の話を

熱心にしていた。

話を全部聞いた後、鹿児島出身のその姉妹はいった。

(ふらんずきょうだいって  だれけぇ???)

その前に唾を飛ばしながら熱心に話した10分間が音を立てて崩れた瞬間だった。


今考えでいいんではにかと最近思います。

ついて行けない変わってゆく教理に振り回されないで

このコミュニティーで幸福になる道を見つけられたらそれはそれで。。。







霊的な必要をどう説明するか?

2012-11-19 20:04:51 | 日記
エホバの証人は、マタイ5章3節から

霊的な必要という表現を使い

いとも簡単に日常でその表現を使います。

その霊的な必要ってなんだろうか?

20代のころその事が分らず、一日中考えた。

あるとき、当時支部委員だったジェームズ・マンツ兄弟(現在は執筆委員)


夕食するチャンスがあり

思い切って訊いてみた。

ところが、驚いた事にマンツ兄弟はその事を考えたことがなかったようで

しどろもどろでうまく答える事ができず、わからないといった。

霊的な必要の本当の意味を考えないでマンツ兄弟はその言葉を使っていた

ことに20歳の私は失望した。


マタイ5章には、見過ごしていた言葉があった

霊的な必要の前に

自分の  という言葉がある。

自分の霊 だったのだ。

行間逐語訳を見ても

HAPPY  THE POOR ONES

AS TO THE SPIRIT

THAT  of them

と彼らの 霊に  関して

と  自分の霊という 考えが  原語にあるらしいということがわかる。



その事を一番うまく説明していたのが

1978年発行のあなたの家族生活を幸福なものにするの書籍に書かれていた。

この書籍だけ筆者が珍しく

コリン・クワッケンブッシュが執筆している




15ページだ。

身体的なものがすべて満たされた後に

なくらない霊の飢えがだれの内にあるという認識に触れて

私たちの霊は個人としての自分を知る事

つまり、自分はだれで、どのような者であり

なぜ存在しているか これからどうなるかという事を知る事に切に望む


この説明に納得し衝撃を受けた


自分の霊のの必要を正直に見つめるのだ

なぜ存在し、どうなるかという問いかけは簡単だったが

個人としての自分とは何かを知る事は20歳の自分には容易でなかった。

あまりにもその問いかけが深刻だったため

20歳のとき、伝道用の自分の自転車に段ボールの箱を

かっこよく加工し荷台につけ、大きな文字で


我々は何者か?

どこからきたのか?

どこにゆくのか?


という質問を書いて

自転車をこいで市内を回り市民にといかけながら自転車をこいだ。



だから、


個人としての自分は何者か?


地の吐くような問いかけをしない人たちが


安易な感じで霊的な必要ということばをあまり使ってほしくないな。

と感じていた。


マタイの表現は

自分の霊ににかんして

極貧のような乞食のまねをできる人たちを指すのだから