きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

カンボジア語会衆の長老との対話 2

2013-11-28 07:57:13 | 日記

そのカンボジア人の長老は

このように切り出した。

(僕たち カンボジア人は 恥ずかしいんです。)

と目を下にうつむく。

語られたのはポルポトへの憎しみでも 悲しみでもない。

恥ずかしいという感情だったのだ。

彼が説明するには、

日本に来て何度も何度も考えるそうです。

(宗教や人種の違いで戦争や争いがおきるのはわかる。)

(申し訳もたつ)

(でも。。。。。)

(ぼくたちは、同じ人種、同じ民族、同じ言語、同じ仏教徒だった。)

(それなのに

どうしてあのような虐殺が

自分たちの民族に起きることを許してしまったのか?)

 

 

どうして ?

 

どうして ??

 

どうして ???

 

 

 

その気持ちにただ黙って聞いた。

 

カンボジア人は日本に来て悲しさからポルポトのことを話せない人もいるかもしれない。

でも根っこには、民族としてのこの恥ずかしさがあるのだ。

 

 

自分たち

日本人のエホバの証人たちはどうだろうか。

かつては

あれほど互いを愛し合って

一緒に喜んで王国会館い行き

賛美を歌い

苦しきを忍び

おむすびを分かち合う仲間だった。

 

同じ民族。同じ言語。同じ人種で創造者を崇拝しながら

同時に

これほどの仲間に対する虐殺に近い抹殺を平気で行ってきた

日本のエホバの証人

 

日本支部や巡回監督や会衆長老 それを支持する無言の会衆の兄弟姉妹たち

過去一緒に崇拝していた仲間を

あのように追いつめてゆく

長老たちの殺人の息をはずませてゆくのは

いったいどこから来るのだろうか?

この15年間

8万人近い同じ日本人が組織から離れていった責任はいったい誰がとるのだろうか?

誰もその責任を感じないで

毎週 エホバに対して集会のプログラムの復習だけの意味のない祈りが

日本中の王国会館でささげられている。

 

 

 

 

 

 

 

 


カンボジア語会衆の長老との対話

2013-11-28 07:57:13 | 日記

海老名ベテルの横の王国会館にカンボジア語会衆がある。

20代の悩みが多かった頃

昔の永遠に生きるの本にカンボジアで100万人虐殺されたことに心を止めていた頃

キリング フィールド という映画が地元で上映された。

カンボジアの赤色クメールによる虐殺を扱った映画だ。

深夜のレイトショーを一人少ない観客の映画館にいて

見た内容に相当ショックをうけた。

自分が生きてるところとそんなに遠くない時間と場所で大変なことが起きたのだ。

特に判断できない少年を教育して

その少年たちの安易な判断でたくさんの大人殺されている洗脳教育の恐ろしさを感じた。

だれもない

木枯らしの吹くアスファルトの道路にうずくまり

震える慟哭のなか神に祈った

その時に感じた足の冷たさが今でも感覚に残っている。

 

そうした経験をしたカンボジア人がどのように人を許し、神を信じるようになったか

そのことに永年疑問があった。

昨年東京に行った折、海老名のカンボジア語会衆に交わってみた。

小グループのものみの塔研究を行っていた。

同じ王国会館の海老名会衆と比べとにかく仲がいい。

集会が終わっても誰一人その場を離れたくないらしい。

全体写真や個人写真を何度も何度もとっていた。

穏やかに微笑んでいいるカンボジア人の長老に

訊くのがつらい

質問をした。

(あのつらい虐殺を経験して どうして神を信じれるようになったのか?)

長老のにこやかな微笑みは消えた

重い言葉で重い口を開いて

こういった

(わたしたちは、あのことを恥ずかしいんです。。。。)

華やかに交わりを楽しんでいるカンボジア人を背にして

話してくれた。

 

 

 

続く

 

 


なぜwkipediaに注目したか。

2013-11-26 16:47:46 | 日記

1960年代から1980年代

神を失った仏教国の日本

科学的に証明しなければ納得しない社会風潮の中で

ものみの塔協会が持ってきた

科学的論理的な思考による

創造者という概念は一部の知的な人たちを刺激する十分な内容だったと思います。

仏教国になじみがない論法に見せられた私たちですが、

実は

西洋では中世から積み上げてきた思考の産物だったのです。

この発見にものみの塔に恩を負って

ものみの塔に否定できても

創造者や神を否定できない苦しみを抱えている人たちに

創造者を考えるこの論法は一般に確立されていることに注意し

過剰に恩義を感じる必要がないことを考えてもらいたかったからだ。

 

同時に

この西洋的な神の存在を立証できるかに見える論法で

はたして神を感じることが来きるのだろうか

という新たな疑問に直面してほしい。

 

この論法に頼る限り

神についたわかった気持ちに錯覚するけど

神について感じ取ることではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


wkipedia 神の存在の証明

2013-11-26 16:47:46 | 日記

神の存在の証明として

人間内部の道徳性 雑誌ではよく良心の機能がどこから来たかという問題があります。

 

それに関連するWIKIPEDIAの説明はこうです。

 

道徳論的証明[編集]

カントは理論理性によっては神の存在を証明することはいかなる方法でもできないと考えた。この点でまずデカルトアクィナスの存在証明とは質を異にする。カントの証明の特質は、たとえ理論理性では神の存在の証明が不可能であるとはいえ、道徳的実践の見地からすると、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためにぜひとも神の実在が“要請”されねばならない、とした点にある(『実践理性批判』)。

カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない、とした。したがって厳密に言えばカントは神の現実存在を決して証明したわけではない。この要請論をヘーゲルが「ずらかし」として批判したのは有名である(『精神現象学』)。

 

この理論は確かに本質論からするとはぐらかしといえると思います。

善がより完全であるには有徳に比例して幸福が配分されねばならないとは興味深いコメントだと思います。

エホバの証人内の善にかけてるのはこの点も多々あります。

正しいけどなぜか信者は幸福ではない。

日本の王国会館の集会に入るひとを客観的に観察すると幸福そうに入る人が少ない。

なぜだろうか。