きょうを生きて living in a moment

毎日 死ぬ直前までひとは生きている。

どうせ死んでおわる人生なら
本気で生きてゆきたい。





今贖われていると実感できないエホバの証人のかなしさ

2012-03-30 10:02:12 | 日記
日本のエホバの証人たちが初めて贖いという考えに接するのは、

見よというブロッシャーの天秤の絵だろう。

1方にアダムが1方にイエスがのっかってバランスを取っている挿絵だ。

多くの人はその絵を見て

アダムの中にいた人類とイエスが神の前に同じ命の価値があったと理解する。

問題はここからだ。

この天秤に自分の人生を乗っけることができないのだ。

これは以前にもものみの塔誌自身が記事で認めたことだ。

エホバの証人の中には、イエスの贖いが自分個人に適用されることを認めることが困難な人がいるということだ。

多くの姉妹と話して気がついたのだが、

心臓に毛がはえた横柄なベテラン開拓者を除いて、

自尊心を持っているエホバの証人が非常に少ないといった問題だ。

神は人類の罪を取り除いてくれたことは容易に信じても、

その人類にの一部に含まれている自分の罪を

取り除いてくれた事をどうしても信じれないのだ。

有名な聖句ヨハネ3章16節を読んでも、

神が世を深く愛したということは信じても

神は自分を深く愛しといった風に読むことができないのだ。

自分の罪を購われたという風に感じるエホバの証人の伝道はすのすべてが

感謝の表現に変わるはずだ。

何時間働いたか業績のようなもので自慢しあうこともないだろう。

また、逆に神に是認を得ようとして猛烈に奉仕時間を入れたり

何件もの研究をしたりしないだろう。

その必要はないのだ。

集会に行くことで神の是認を得る必要もない。

なぜなら、イエスの血が個人を贖ったのだ。

それ以外のどんな努力もあなたの罪を購えないのだ。

こうしたことを思い出すなら。

集会も伝道も感謝の表現の場所になっているはずだ。

やさしいやわらかな暖かい時間が流れているはずだ。

贖われたと日々感謝が深まり、見ている人をさわやかにするだろう。


実際にエホバの証人は

奉仕と集会に出席しないと大患難で滅ぼされるという強迫観念にうごかされて

頑張ってしまう方が多いのではないだろうか?




記念式に出席したほとんどのエホバの証人は、おあずけ状態なので

結局この贖いの取り決めに自分個人は部外者なんだとかんじてしまうのだ。

食べるものと食べない世界の違いを再認識する場で、

パンを食べ葡萄酒を飲むものがパンを食べず葡萄酒を飲まないものを

支配するという構造を否が応でも認識される場所になってしまっている。

出席者はせいぜい葡萄酒のにおいをこっそり嗅いで次の人に渡すという具合だ。


こうして、世界中でおこなわれ1000万人以上が出席するチャンスで

イエスの死を触れ告げる最大の機会を失ってしまっている。

毎年記念式をの翌週にどっと疲れたエホバの証人が、

何も特別な内容ない内容の薄い特別講演なるものをきき

励まされたという常とう句をつかいながら

一年のイベントが過ぎてゆくのだ。

その翌週は依然として

自分個人の罪が贖われたとかっ時ていないエホバの証人が

前と同じ疲れた表情で。。。。。。


そこに哀しさを感じるのです。



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贖いに始まり、贖いに迷う ものみの塔聖書冊子協会

2012-03-29 08:24:25 | 日記
それは、購いに関しての決定的な意見の違いだった。

朝の先触れという雑誌でネルソン・H・バーバーと共同編集していた

チャールズ・テイズ・ラッセルは購いに関して意見の相違を見るようになっ

た。バーバーはキリストが人類の身代わりとして死んだという考えを否定したの

である。丁度ピンに蠅が刺さっていることにたとえたのだ。

朝の先触れはその後24年間出版され、1903年廃刊となる。

ラッセルは購いを擁護するためにバーバーと決別し、現在のものみの塔誌が誕

生した。

つまり、現在のエホバの証人の歴史は1914年説でなく、贖いでidenntity

を確立したのだ。

人類の身代わり


この考えが後にエホバの証人の贖いの理解に迷走をするきっかけとなった。

わかったようでわからないこれが、贖いの教理だ。

聖書理解の助けを呼んでも洞察を読んでも

贖いの言語の解説などから見える部分部分は理解できるが本質的理解が

難しい

昔ある姉妹から相談がありどんなに自分は調べても贖いがわからない

といわれ調べてみるとうまくわかったように話せても

本質が難しい。

これについて、また書こうと思います。
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記念式の時期におもうこと

2012-03-28 10:38:33 | 日記
ニサンの14日

エルサレムに新月があらわれて丁度14日目がニサン14日

普段エルサレムと関係のない世界から

いきなりエルサレムという空間

ニサンという特殊な時間の流れに突然と放り出される。

記念式の招待の活動の反面

真剣な自己吟味を昔はしていました。

そして、記念式の日

地球に働いている重力の力を感じ取るため貝堀に奉仕を行わずに

ゆきました。


今までに見たこともないような遠浅にこの日の特殊な月の引力を感じ取ります。

貝を掘りながら五感でこの月と地球の力を感じ取るのです。

月が地球を引っ張る力を感じとると同時に

2000年前のエルサレムに思いをはせます。

誰かが自分を呼んでいるような、不思議な天の声なき声を聴くような気持に

なっていました。


34年前 親から反対され

記念式に行けなかったとき

家でこっそり小麦粉でパンを焼き、自家製の無添加の葡萄酒をつくり

満月の神々しい姿をカーテン越しに眺めながら

イエスの死にひそかにをもいを寄せていました。

そして、こっそりとパンを食べてみました。

かけがえのない静かな時間。

この記念式のあと、イエスは一体どんな思いで死にむかっていたのだろう。

それから、

20代のころ記念式のころにいつも極度の自己吟味を真剣にしていました。

自分はふぁの人のために本当に自分の魂をなげうつことができるのか?

野麦峠の映画をみて、ショックでだれとも会話ができなくなりました。

クリスチャン青年が暴走する列車を止めるため

ヨハネの一粒の小麦が死ななければ全ての人を益さない聖句を読んで

自分はこうしたことができるだろうかと真剣に考えたものです。

その後 記念式の話を会衆でしている自分がありました。

筋書きをはなすのに、最初は意欲満々でしたが

二度三度記念式の話をするうちに何か違和感を覚えるようになりました。

筋書きにイエスの死を黙想できる場所がほとんどないのです。

だんだん記念式が詐欺のように思えてきました。

イエスの死を出汁にして、組織に人を増やすようにしていることに自分が

加担しているような気持です。


この日が近付くと複雑な気持ちがします。

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やっぱり悩んで

2012-03-27 14:50:42 | 日記
このまま記事を書き続けた方がいいのかやっぱり悩んでしまいます。

自分が何を表現したいのかもまだ見えてきません。

読んでるみなさんの多面的、多角度的な意見を必要としています。

みなさんは、どう読んでるのか教えてください。

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スウィングル兄弟の洞察 その2

2012-03-26 15:13:13 | 日記
統治体の地帯訪問があって意外と知られてないのがお買い物だ。

公式の日程が終われば、東京のデパートでお買い物をする。

池畑兄弟が三越のデパートでスウィングル姉妹が買い物をする間

何もすることない二人の男(池畑、スウィングル)がなすすべもなく

哀れに買い物を待っている。

会話に困った池畑兄弟がエレベーターガールに注目する

(いらっしゃいまーせ。)

三越のエレベーターガールよく教育された上品なしぐさに

池畑兄弟が、また単純に感嘆の声をあげて

スウィングル兄弟にむかって同意を求めこういう。

(いやぁ~! 素晴らしいお嬢さんですね。!!!)

スウィングル兄弟は

そのだるまのような眉毛をピクリとも動かさないでこういう。

(裏でなにやってるかわからんよ。)

いままで人を表でしか感嘆しなかった池畑兄弟はびっくり仰天する。

(物事には裏があるんだ。)

こうして池畑兄弟は物事は表の立派さだけでなく、

裏側も洞察しなけれならないと悟るようになったそうです。

おそるべし。ライマン・A・スウィングル

もっとお長生きして笑わせてほしかったなぁ。


あのだるまのような顔の中で光る鷲のような目が大好きです。
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