きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

地域大会 3日間出席して

2012-07-30 19:14:15 | 日記
自分の地区でない大会に久しぶりに参加してみました。

期せずして、古い友人がメールしてきたことがきっかけで

バッジをつけないで入場しましたが、会場整理の兄弟たちはとても

親切で好感のもてる態度で接してくれました。

ステージ前の席に座り、聖書があるかどうかも気にしてくれ

本当にさわやかに扱ってもらえました。

シンポジウムの何でもない実演を一心に教訓をえようとする70代の兄弟

の素朴な態度をみて、やっぱり純朴な人たちのあつまりだなぁと感心しました。

プログラムのほうはせっかくのプログラムなのに心に触れるようにあつかえない

のが残念に感じました。

でも、うたはみんな本当に大きな歌声で歌い、素晴らしい雰囲気でした。

みなさん意外ににも幸せでいっぱいのように感じました。

若い人たちも純朴なものを感じます。

二日目にDVDを出す時にきいた小さな子どもたちの歌声を聴いて

泣けてきました。

こんな子供たちになにができるのだろう??

帰りの車で何度もこの子たちの歌声を聴きました。

本当に重要なことは、あれやこれやと論議するのでなく

この子たちのように従う心を持つだけでいいのではとも思えました。


最後の現代劇も今までだったら切り捨ててしまうような奔放な方の間違った

決定をしたかに見える姉妹のほうにも何とかその状況で幸せをみつけられるよ

う辛抱強く接していました。

旅行する監督とも話しましたが、組織の幅が最近ようやくひろくなってきた

という感想を述べていましたが、その通りになってきてるのかもしれません。


最終日に発表された劇のDVDは素晴らしい映像でした。

中身も良かったし演出もすばらしいです。

最近何を信じているか重要でないように感じてます。

組織の中枢部が何をどんな態度で決定するかも重要でないように思います。

末端の信者の心の中に神にしたがう気持ちがおき、

そのこころに神が聖霊を送り、この世で提供できない平安を得ていること

そのことがこの組織にいる価値だと感じます。


i PAD 伝道

2012-07-21 20:39:13 | 日記
もしも、現役だとi PAD で伝道してみたいなと思います。

いろんな国の人を見つけて、439の言語で協会の公式のサイトから

その国のわかる言語で情報を出してゆけます。

また、さまざまな言語の賛美の歌を聴かせてあげられます。

インターネットのネガティブになっている人がいたら、どのサイトを見たのか

実際にそのサイトから話してゆきます。

家の人は、そうすることでエホバの証人が最新の情報に通じたうえで

家の人に話しかけているとみなしてもらえやすくなるかもしれません。

多分将来的にネットを見た人がエホバの証人に抱く質問に、

答える情報がWEBでのみみれる形で協会が出すのではないかなと思います。

また、牧羊にipad を持参し、ネットで弱った兄弟姉妹がいたら、

みたサイトから実際的な話をする

そういう長老を訓練できたら日本で相当の信者を取り戻して行けると思います。

最近支部委員の リントン兄弟があの高齢でi pad を王国会館にもってきて

得意にいろんなことをi pad から調べていました。

誰が通信料を払うかは知りませんが、いいことだと思います。


エホバの証人内に存在している陰湿ないじめ

2012-07-19 09:00:51 | 日記
社会で今大津の学校でのいじめが問題にされていますが、

釈明に回る教育委員会の言い分を聴いていると、JW内の問題と重なって見えて

しまいます。

どちらもあってはならないところにそういった問題があると

それがなかったように扱われてします。

表向き正しいことを行い、人を愛さなければならなくなっているエホバの証人

にとって、本人の培った実際の人格と期待されていることの格差から陰湿ない

じめが多くあったように思います。

どこの会衆にいっても、実年の開拓者の主婦が幅を利かせ、普段幸せでない

彼女たちはしわせそうな年下を徹底的にこき下ろす傾向がありました。

なぜこんなに、陰湿な悪口があるのか?

宗教に熱心な人に意地悪が多いということわざがありますが、

あまりにもそうした状態がひどかったので、その格言を会衆の必要で

言ったものだから、会衆の意地くそ姉妹たちに集会後総スカンされたことが

ありました。

集会に行くのをやめて、時々フラッと大会になどに行くと何十年もつかえて

いる現役の長老たちが自分を見つけて喜んで近づいて、一生懸命に何かを訴え

ます。

話を聞いてみると、巡回監督からいじめられてつらいという内容が、ほとんど

です。ある40年近く長老がいかに高慢な巡回監督にいじめられるか

最後には泣き始めてしまう有様です。

心ない巡回監督にいわれたいろいろなことが、よっぽど悔しかったのでしょ

う。やはり、40年近く長老していた兄弟は巡回監督と衝突し

プログラムを扱うことを一切取り上げられたそうです。

この兄弟は毎年巡回大会や地域大会で主な話を割り与えられていたベテランで

す。

これも一種のパワハラのいじめになるかと思います。

さっきまで、大声で組織を批判していた兄弟たちが、

次から次へ演壇にあがり地域大会のプログラムを扱ってる始末です。

ある巡回監督の悩みは地域監督に相談できないというものです。

地域監督に問題を包み隠さず話したら何をされるかわからない

という疑心暗鬼から来ています。

また、昔でいえば主宰監督がはばをきかせ、他の長老が右に倣えのいじめを

つくってゆきます。

以前宣教者のペテット兄弟の経験談で姉妹が市民講座で絵などを習っている

とものみの塔に書いていましたが、なぜそうしたのか本人にそのことを聴いて

みると

地域監督としてペテット兄弟が奉仕中に野外の姉妹にいじめにあったとのこと

です。

心を落ち着かせる手段が、エホバの証人のいない一般の人が学ぶ場で、静かに

絵を描くことだったのです。

こうしたいじめの問題は、ほとんどは表に出てこないと思います。

特に同年代の若い二世の姉妹たちは、微妙な関係に苦しんでいたように

思います。

人間関係の希薄な二世の長老や巧みな幅を利かす長老がよく用いる手段は、

特に注意をする人に指名して自分の嫌いな人を会衆から抹殺することが

あります。こうすれば、巡回監督も口をはさめないし本人をつらいめに

合わせることがあります。


さすがに誰かを殴るけるなどの暴力沙汰は少ないでしょうけれど、

無視される、ずっとあいさつされない、それとなく目をそらされる、

集会の席を対角線に座る 注解ににあたらない

などは、エホバの証人ならだれもが経験し実感していることだと思います。

互いに愛し合う存在から互いにいじめあう事態

ガラテア5章15節の昔のクリスチャンにあったように

あなた方がかみ合ったり食い合ったりすることを続けているのであれば

互いに滅ぼしつくされてしまうことがないよう気をつけなさい。

聖書の言葉がまさに当てはまる状況です。

支部の奉仕事務所の兄弟たちは

少なくとも自分たちが派遣しているものみの塔協会の代表者たちが

高慢になっていろいろといじめをおこなっている事態を把握しているべきで

す。

実際にいじめを行っている高慢な巡回監督を5人ほど実名を挙げても

いいのですが、控えておきます。


社会の一般の組織に比べ四六時中逃げられない環境の中

いじめがはいったら本当に悲惨な状況になります。



















J.リース兄弟

2012-07-12 21:27:49 | 日記
リース兄弟は、JWになって初めて思考力を持つ人になるよう

また、ありのままでいるように助けられた人です。

和歌山県の宣教者の家にいましたが、いきなり地域監督になりました。

でもぜんぜんいばらない兄弟でした。

一緒に奉仕した時、提案通り行おうとして緊張していた時、

創価学会の家でした。

学会の人に広報をもってきてもらいそこに池田大作がヨーロッパのキリスト教

の学者と対談している写真に家の学会員の人に注目しました。

そして、池田大作を尊敬している尋ねます。

家の人がもちろんというと、

じゃあ、池田大作に見習うなら今日ここでキリスト教の音信を拒否するのでな

く対談できるではないかと推論させます。

このような思考力を働かせ個人個人に関心を示す宣教の仕方に

本当に打撃を受けたのを思い出します。

ある巡回大会で演壇でたものの、聖書を忘れて取りに帰ったり

本当にほほえましい人柄でした。

支部委員のリチャード・ベイリー兄弟の告別式で何百人もの主だった人の前で

友人としてあいさつし、思い出に残ったのが

ギレアデを卒業して船便で貨物船で日本に来た時に、することがなくて

船でポーカーしたこと、そして宣教者になってもときどき月曜日に

ポーカーしたことが一番思い出に残っていると話していました。

リース兄弟は今東京の巡回監督でまわっているけど、いろんな意味で

根本にかかわる刺激を与えていると思います。

日本にいる権力でうぬぼれなかった数少ない尊敬できる兄弟です。




つらかったときに支えになった音楽

2012-07-10 07:17:39 | 日記
人生節目節目に音楽が流れた。

高校のころ、JWになるために家を勘当された時、

たったひとりの高校で

全てが止まって見えた時

なぜかポールモリアの曲が自分を前にすすめた。

JWの中で

裏切りに会い、なすすべもなかったとき

耳に飛び込んできたのが

JANE BIRKIN の L'aquoiboniste(無造作紳士)だった。

美しくも哀しい旋律に A quoi bon

(もうおしまい  )とリフレインする。

C'est un aquoiboniste
Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Un modeste guitariste
Qui n'est jamais dans le ton
A quoi bon

C'est un aquoiboniste
Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Un peu trop idéaliste
Qui répèt' sur tous les tons
A quoi bon

C'est un aquoiboniste
Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Un drôl' de je m'enfoutiste
Qui dit à tort à raison
A quoi bon

C'est un aquoiboniste

Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Qui s'fout de tout et persiste
A dire j'veux bien mais au fond
A quoi bon

C'est un aquoiboniste
Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Qu'a pas besoin d'oculiste
Pour voir la merde du monde
A quoi bon

C'est un aquoiboniste
Un faiseur de plaisantristes
Qui dit toujours à quoi bon
A quoi bon

Un aquoiboniste
Qui me dit le regard triste
Toi je t'aime, les autres ce sont
Tous des cons


人生前に一歩も進めなくなる時があると悟った。

平原綾香のJYUPITAR の歌詞は何度も何度も聞いた。

every day I listen to my heart

そして、一番つらかった時に平原綾香の新世界の歌詞に励まされた。

作曲:Antonin Leopold Dvorak
作詞:平原綾香
Find your way, no matter how hard it is.
Keep your feet on the ground and see what is waiting the new world is there.

When I'm lost 青い 月明かり
夢の続き 探してた

出会い 別れ 夢やぶれて
すべてが 終わりのように見えた

どんな 自分を 生きればいい
どこまで 人を 信じればいい

きっと 心に 夜明けは来る
まだ 見えない未来の 向こうから

When I'm lost 遠い道の先で
自分との決まりを 今 破る時


くるしいこころも そのままでいい
かなしいおもいも そのままでいい

それは 心なおすことなく 手放すこと
いつだって きっと自分は 生まれ変われる

いのち 満ちる この地球(ふるさと)
誰もが 帰る 旅の果てに

新しい世界から何が見える
まだ知らない この私が微笑んでる

どんな 自分でも 愛していたい
今起こる 何もかも 信じたいから

溢れ出す涙 夢を見せて
私だけに 出来る 何かが 必ずある

なつかしい大地を 強く踏みしめて
喜びも悲しみも受け入れてゆく

もう何も 迷わない そんな世界へ ゆけるはず
私は行く 新しい世界へ



心に響いた一節は、

それは 心なおすことなく 手放すこと
いつだって きっと自分は 生まれ変われる


それまでは、なんとかなおそうとおもっていた。

解決は手放すことだ。

有名な詩編55:22

あなたの重荷をエホバにゆだねよ

という詩も

英語ではthrow your burden to Jehovah

つまりエホバにゆだねるという概念でなく

THROW

ほうたりなげる

つまり  手放す   という考えだ。

その日以降 人生の手放す  楽しさを味わってきた。