きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

エホバの証人の冷たさはどこからくるのだろう?

2012-11-01 08:25:31 | 日記
エホバの証人は伝道先で、顔は優しく

声も優しく丁寧で

笑っているのだけど

目つきが冷たい



という表現を時々耳にします。



日本支部指導による北海道の広島会衆の多量排斥事件の失態や

統治体による1980年の仲間の粛清事件を見ているうちに

この組織のトップは人間の問題に関して極めて稚拙な反応しかできないのではないかという

事が見え隠れします。

人間と人間に対して深い人間関係で結ばれず

ただ単に家で座って質問と答えで培った人間関係

あるいは、何かのキャンペーンや業務で一緒に頑張った程度の

人間関係から生まれる愛で本当にイエスキリストに見倣った愛を表現できるのだ

ろうか?

池畑兄弟を観察してベテルの人間関係で自分が持てた洞察は

浅く広い人間関係をまんべんなく培いどの人とも仲良くやってゆこうと

とするあまり深い人間関係を培う時間も意思もなくしている感がしました。

当然二枚舌は日常茶飯事

その反面、強制収容所で培った愛を経験できた兄弟姉妹は

集会や奉仕と会食で培った友情ではなく

24時間人間の鬼気迫る本性の限界ぎりぎりで他者を思いやる

深い人間関係を築き上げれていた。



エホバの証人の場合、



アガペー

原則に基づく愛

この3つの言葉が繰り返し教わる。

この原則に基づく

がいつのまにか

原則に対する

にすりかわってしまっていないだろうか?

つまり、いろいろな愛が原則そのものに向けられ

原則に基づいて示される人格者(PERSON)不在になってしまうのではないだろうか?

一方イエスは原則を曲げて、人そのもの特にそのひとそのものに集中

できる人だったように思います。

異邦人に伝道する時がまだ先で、異邦人に教えてはならない原則が

あったとき、最初イエスはそれに従っていた。

しかし、スロフェニキアフェニキア人の女性が

パンを犬にやれないといったイエスに

子犬は落ちたパンくずでも食べるという一言に

注目したのは、固守する原則でなく

おお偉大です。あなたの信仰は!!!という

個人と個人の特質に注目する反応でした。

エホバの証人の目が一部冷たいと表現される背景には

人の全体を愛情をこめて見つめることが困難なためではないだろうか?

人の全体とは立派なことではなく

できない弱さやわかってても行う罪などいろいろなものが関係すると

思います。

信条で結びついただけの熱血な兄弟関係は、

北朝鮮や共産党で十分だ。

わたしたちが、感動したのは

人をひとりひとり一個の人間として顧みる


イエスの優しいまなざしなのだから。

だから、背後に原則はあるかもしれないが

もっと人そのもの神そのものに注意を集中し味わう時間を持とう。

それで、聖書は

たくさんの原則の集大成の600の律法のうち

何が一番かと聞かれたイエスは

原則に対する愛をひとことも注意をむけないで

まず

第一に 神を愛する事

次に

隣人を(人類全体ではない)

その時その瞬間、自分のすぐそばにいる人を愛するように

ただそれだけでいいと言ったのだと思います。

それ以は何もいらない

SIMPLE な教えだと思います。

この隣人はだれかという論争が起きた時、

当時の人は同じ宗教信条の人と定義しようとしましたが

イエスは善いサマリア人のたとえにあるように

同じ宗教の人に限定しませんでした。

エホバの証人がこの原則で人に接していたら

どんなにか変わってくるのではないでしょうか?
第一に