わたしは海老蔵と真央のブログを
最初に断っておきますが読んだことはありません。
真央さんについてはほとんど知りませんが
亡くなる前 非常に透明な達観した世界にいたように
おもいます。
がんに隠れて生きている
この一言に癌に隠れないようにしようとブログという手段で社会に出たと聞いています。
反面 海老蔵は悲しみのプライベートを
ブログにばんばんのせて
そのことを暖かくみてあげてほしいという声と
いまブログにあげる時期でないだろ?
という批判とがあがっているようと聞いています。
たしかにブログには魔物が潜んでいます。
わたしの周囲にはこの話題を出し
自分の人生と重ねて涙するひとが後を絶えません。
一方わたしは2人のブログを読んでいないから感情で
共有するものがなく涙がでないのです。
わたしもブログを書いて
あれだけ海老蔵が現実の世界に
歌舞伎という作られた世界だけの世界発信に満足しないで
ブログという個人の生活を交えながら
自分の悲しみの気持ちに一つずつ
不特定多数に報告という手法を取りながら
現実の自分のうちに生じた気持ちに一喜一憂克服して
行くというのもわかります。
書いてゆくということで抑えようもない恐怖と悲しみに
書かずにはいられない気持ちにも囚われて
あるいは書くことで見知らぬ誰かの役に立ちたい気持ちなど
同時にブロガーとして勘違いし
海老蔵が子供の私生活を晒しながら
悲しみや乗り越える姿を不特定多数に共有しとゆくことは一歩ひいてみたら慎しむべきでは
という気もいたします。
(どの口がいう?という声が聞こえてきますが)
賛否両論はあるとしても
現代人は 一個人が自分の私的な感情や生活を
不特定多数と共有する架空空間に
リアルな生きる空間を巣食ってしまう異常さに
直面してしまったのをわたしは肌で感じます。
これがブログの罠であり
わたしたちブログを書く側も読む側も
その境を注意しなければならないなと感じる次第です。
ブログはある意味 自分の内面で生じている
本当の人生の公開なのかもしれません。
わたし自身ができていないのですが、
ブログを書く側がいつのまにかこの不特定多数の
架空の世界が自己表現として大切になってしまう罠と
なってしまいます。
また読んでゆくほうもブロガーと人生のプライベートを
共有してしまい勘違いが生じてしまいます。
ブロガーと個人的に付き合っている感覚になり
このブログでもありましたが
読書モンスターになりブロガーに命令したり
強要する読者も生まれたりしてきます。
ブロガーは一部の読者にストーカーみたく晒されてしまいます。
人生の生じた出来事は
iPhoneのカメラに収めて公開するのでなく
自分の眼の奥の網膜にやきつけて
死ぬ前にひとりで思いだし
わたしの存在が消えてゆくのが最高の醍醐味なのかも
しれない。