きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

みなさんの意見

2017-06-30 03:44:29 | 日記
みなさんの意見は


どうだろう?



と問いかけてもまた400人のほとんどに無視される



1日が過ぎ去るのだ。



そして



1日が終わり



ブログを更新すると



大きな数字がでて



多量の不特定多数にまた繋がっていることを



思い知らされる。



これはひとを病的にさせてしまわないだろうか?












そろそろこうした繋がりを絶って



現実の繋がりに集中すべきなのだろうか。

海老蔵ブログを反面教師に

2017-06-30 03:08:57 | 日記
わたしはどうも海老蔵ブログがすきになれない。


と同時にじぶんのブログのあり方を


反省している。


しっくりこない 理由


母親を亡くして悲し子供達の様子を一挙一動


不特定多数に知らせる意味がどこにあるのだろう?


またそのように注目させつつ


子供を歌舞伎で現実の演目で舞台にあがらす


また彼の悲しみをブログで表現することで



彼の悲しみが逆に軽薄に写ってしまう。


テレビをつけると


彼のブログを読んだコメンテーターが


まるで彼の私生活をだれよりも知っているかのように


顔をぜんぶ覆って嗚咽して泣く姿に



非常な違和感を覚えるのだ。


あなたも不特定多数のひとりだろ と。



不特定多数にここまで影響を与えたことに


いちばん驚いてしまったのは海老蔵本人だと思う


それは歌舞伎の舞台に見にきた人たちへの


現実の世界の影響と違う無視できないのを感じたはずだ。


だから歌舞伎が終わりかれは真央さんの死を


本来ならこうしたかたちで死を報告するのもどうかと


思いますが、と断りながら真央さんのブログを読んで


励みにしていた読者を無視できない気持ちから


記者会見に応じたのだ


歌舞伎の世界はプライベートを俳優が見せないというのが掟だったと思いますが


ブログと不特定多数の結びつきでその掟が崩れた瞬間だ。



わたしも現実の世界での責任を対応するだけで


精一杯の生活だ。


ところが、このブログを書くことで


不特定多数とつながる展開になってしまった。



現実の世界の孤独を


不特定多数のつながりを励みに生きてしまう



この構造に病的な現代社会を感じ


同時に


その罠に自分自身が嵌ってしまっていることに


海老蔵ブログからわたしはみえてしまうのだ。



これ以上 わたしはわたしを不特定多数にプライベートん晒すべきでないという思いと


毒を食らわば皿までの勢いで


プライベートを書いてみるかという気持ちが交差する。


ただかもめ丸さんがコメントで書いたように


わたしに記事を書くように強要する姿を見ると


それはどこか違うとひいてすまうのだ。


納豆と温泉卵すら読者には伝わらない。


他のことを書いても実際には伝わるはずはないのだ。



そんな仮想空間より


リアルなわたしの人間関係で起きているほうが


よっぽどわたしのことを、理解してくれておもしろい。



わたしはわたしを理解しようのない不特定多数を


大切にするより


リアルな人間関係を大切にすべきではないだろうか?



答えはでない。









ブログのわな 海老蔵と真央のブログから

2017-06-28 06:00:17 | 日記
わたしは海老蔵と真央のブログを


最初に断っておきますが読んだことはありません。


真央さんについてはほとんど知りませんが


亡くなる前 非常に透明な達観した世界にいたように


おもいます。


がんに隠れて生きている


この一言に癌に隠れないようにしようとブログという手段で社会に出たと聞いています。



反面 海老蔵は悲しみのプライベートを


ブログにばんばんのせて


そのことを暖かくみてあげてほしいという声と


いまブログにあげる時期でないだろ?


という批判とがあがっているようと聞いています。



たしかにブログには魔物が潜んでいます。


わたしの周囲にはこの話題を出し


自分の人生と重ねて涙するひとが後を絶えません。


一方わたしは2人のブログを読んでいないから感情で


共有するものがなく涙がでないのです。



わたしもブログを書いて


あれだけ海老蔵が現実の世界に


歌舞伎という作られた世界だけの世界発信に満足しないで


ブログという個人の生活を交えながら


自分の悲しみの気持ちに一つずつ


不特定多数に報告という手法を取りながら


現実の自分のうちに生じた気持ちに一喜一憂克服して


行くというのもわかります。


書いてゆくということで抑えようもない恐怖と悲しみに


書かずにはいられない気持ちにも囚われて


あるいは書くことで見知らぬ誰かの役に立ちたい気持ちなど


同時にブロガーとして勘違いし


海老蔵が子供の私生活を晒しながら


悲しみや乗り越える姿を不特定多数に共有しとゆくことは一歩ひいてみたら慎しむべきでは

という気もいたします。


(どの口がいう?という声が聞こえてきますが)



賛否両論はあるとしても


現代人は 一個人が自分の私的な感情や生活を


不特定多数と共有する架空空間に


リアルな生きる空間を巣食ってしまう異常さに


直面してしまったのをわたしは肌で感じます。



これがブログの罠であり


わたしたちブログを書く側も読む側も


その境を注意しなければならないなと感じる次第です。



ブログはある意味 自分の内面で生じている


本当の人生の公開なのかもしれません。


わたし自身ができていないのですが、


ブログを書く側がいつのまにかこの不特定多数の


架空の世界が自己表現として大切になってしまう罠と


なってしまいます。



また読んでゆくほうもブロガーと人生のプライベートを


共有してしまい勘違いが生じてしまいます。


ブロガーと個人的に付き合っている感覚になり






このブログでもありましたが


読書モンスターになりブロガーに命令したり


強要する読者も生まれたりしてきます。


ブロガーは一部の読者にストーカーみたく晒されてしまいます。








人生の生じた出来事は


iPhoneのカメラに収めて公開するのでなく


自分の眼の奥の網膜にやきつけて


死ぬ前にひとりで思いだし


わたしの存在が消えてゆくのが最高の醍醐味なのかも


しれない。