きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

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霊的な必要をどう説明するか?

2012-11-19 20:04:51 | 日記
エホバの証人は、マタイ5章3節から

霊的な必要という表現を使い

いとも簡単に日常でその表現を使います。

その霊的な必要ってなんだろうか?

20代のころその事が分らず、一日中考えた。

あるとき、当時支部委員だったジェームズ・マンツ兄弟(現在は執筆委員)


夕食するチャンスがあり

思い切って訊いてみた。

ところが、驚いた事にマンツ兄弟はその事を考えたことがなかったようで

しどろもどろでうまく答える事ができず、わからないといった。

霊的な必要の本当の意味を考えないでマンツ兄弟はその言葉を使っていた

ことに20歳の私は失望した。


マタイ5章には、見過ごしていた言葉があった

霊的な必要の前に

自分の  という言葉がある。

自分の霊 だったのだ。

行間逐語訳を見ても

HAPPY  THE POOR ONES

AS TO THE SPIRIT

THAT  of them

と彼らの 霊に  関して

と  自分の霊という 考えが  原語にあるらしいということがわかる。



その事を一番うまく説明していたのが

1978年発行のあなたの家族生活を幸福なものにするの書籍に書かれていた。

この書籍だけ筆者が珍しく

コリン・クワッケンブッシュが執筆している




15ページだ。

身体的なものがすべて満たされた後に

なくらない霊の飢えがだれの内にあるという認識に触れて

私たちの霊は個人としての自分を知る事

つまり、自分はだれで、どのような者であり

なぜ存在しているか これからどうなるかという事を知る事に切に望む


この説明に納得し衝撃を受けた


自分の霊のの必要を正直に見つめるのだ

なぜ存在し、どうなるかという問いかけは簡単だったが

個人としての自分とは何かを知る事は20歳の自分には容易でなかった。

あまりにもその問いかけが深刻だったため

20歳のとき、伝道用の自分の自転車に段ボールの箱を

かっこよく加工し荷台につけ、大きな文字で


我々は何者か?

どこからきたのか?

どこにゆくのか?


という質問を書いて

自転車をこいで市内を回り市民にといかけながら自転車をこいだ。



だから、


個人としての自分は何者か?


地の吐くような問いかけをしない人たちが


安易な感じで霊的な必要ということばをあまり使ってほしくないな。

と感じていた。


マタイの表現は

自分の霊ににかんして

極貧のような乞食のまねをできる人たちを指すのだから