きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

マタイ5章3節 の 霊はだれの霊か?

2012-11-21 09:44:11 | 日記
コメントを見て

引き続きこの問題を書きなおそうと思いました。


私自身 マタイ5章3節の以前の思考は

霊→見えない世界→神の世界


という考えで  霊的な必要→霊的な世界への必要→神の領域

のようにとらえていました。

しかし、この霊は神の霊ではありません。


自分の霊なのです。

神の霊の必要を自覚する人でなく


自分の霊の必要を自覚する人なのです。

自分の内なる霊が何を欲しているのか

自分とは何か

つまり自分個人のアイデンティティを探る真剣さ調査が必要なのです。

自分が問題定義したいのは、

エホバの証人の多くは

外から張られるタイトル

開拓者、長老、奉仕のしもべ などに振り回されて

本当の自分がだれなのか?きちんと追求していますか?

という問いかけがこの説から正当に問いかけたいという点です。


この点を深く掘り下げているのは

黙想の公開講演の参照資料にもなっていますが

ものみの塔 78年6月1日号

あなたは一人だけの時間を大切にしていますか

という題の記事の

内面的な成長という副見出しが参考になります。

自分の内側を時間をかけて探ってゆくと最後に

深遠な真理と意義の貯蔵所を見出すと書かれています。

意義の貯蔵所という表現が素晴らしい。。

深く粘り深い自己分析で

自分のもつ6つのものがわかります。

1)見解

2)傾向

3)態度

4)感情

5)野心

6)願望

この6つを正確に時間をかけて内面を探り言い当てなければなりません。


そして、驚く事に内面を探ってゆくと

多くは正されるだけでなく、

捨てられる必要なものが多くある事に気がつくという事だ。

これが、自分の霊  の必要に意味する事と似ているかもしれない


つまり内面をさぐると乞食状態の内面しかない事に気がつくというものだ。

その点をこの記事ではこのように表現しています。


わたしたちの内面はなにかをいれることはできても、

大部分はからっぽで実を結ばない器に似ている


この表現に10代だった自分には、まるで雷を打たれたような衝撃を受けた。。


その日以降、内面の世界を考えてゆくあまり

血の中をはってゆくような苦しい時間を過ごした。

そうした意味では、バプテスマを受けてからの方がすごくつらかった。

外からつけられるタイトルにはなにも関心がわかなかった。