きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

Hayden Covington 兄弟の葬式の話を聞いて

2012-11-22 21:55:31 | 日記
今すべてを聞いて

とにかく泣けた。

ヘイドン・キャビントン兄弟は

ラザフォードがなくなる前に臨終の床で

ノア兄弟、フランズ兄弟、キャビントン兄弟が呼ばれて

3人が堅くつくように強く訓戒を与えた

ラザフォード兄弟亡き後、キャビントン兄弟は法律の面で

エホバの証人の苦しい兄弟たちを一生懸命助けた。

葬式の話をしたのはコリン・クワッケンブッシュ兄弟だ。

彼はブルックリンの執筆部門という肩書でキャビントン兄弟の葬式の話を熱意をもって話した。

キャビントン兄弟は、猛烈にエホバの民のために闘ったのちに

アルコール中毒となり、それが改善されないために排斥されてしまう。

そして、のちに復帰した。

一般的に冷たくあしらわれるパターンの状況で

クワッケンブッシュ兄弟は、彼の葬式で

罪の本質について話したのだ。

葬式の話の中で404名の聴衆に向い

彼がアルコール中毒のために排斥された事を洗いざらい話した。

同時にアルコール中毒になる前の彼の本部での働きがどれほど過酷で

一生懸命法律面で闘ってきたかユーモア交えて事細かに話した。

彼のその時の状況は1日20時間働くワークホリック仕事中毒だったと述べた

そんな彼がアルコールにのめり込んでいったのだ。

クワッケンブッシュはイエスを否認したペテロや

エホバに敵対する崇拝を促進したマナセに人生や館員と殺人を行ったダビデの人生を生き気描写した。

そしてハマルチアノス 罪が人類に働いていることを思い起こした。

同時に  神は 人の外面を見て裁くのではないと強調した。

人の内面を見て裁く事を

内面でどんなプレッシャーにさらされていてある特定の罪を起こしてしまうか

キャビントン兄弟の異常なまでの弁護士業務のプレッシャーから

アルコールが進み、とうとうアルコール中毒になってしまう様子を考えた。

そして、「エホバの証人の中で誰が真の崇拝のためにこれだけの犠牲を払ってきたか考えるように勧めた。

そして箴言の義なるものは7回倒れ起き上がるという生育を引き合いに出した。

キャビントンは亡くなる前の日の日曜に数時間奉仕を行い、次の月曜に死んだ

その数時間の奉仕がどういったものか考えるように励ました。

そして罪をぬぐいさる意味はぬぐい去った後はもうそのお点がなくなってるんだという描写を思い起こさせた。

そして神が罪を

forgive する つまり許す事 同時に

forget する  忘れる  事に注目した。

自分たちはなかなかそこまでできないかもしれない

でも、forgive と forget


そしてヘブライ6章10節  覚えてくださる(remenber)に注目した。

そして聴衆に憐れみ深くあるように励まして話を結んだ。


クワッケンブッシュの友情と排斥というエホバの証人が眉をひそめる事態に

暖かい光を当てる話をした

人の外面で行った事でなく、その過程、持っていたプレッシャー

等人の内面を見るように励ました。

葬式は証人たちよ進めの歌で始まり

幸いなるかな憐れみ深い人の歌で終わった。

聴衆全員が心底温かい気持ちになった。

なんとすばらしいんだろう。


再びマタイ5章3節

2012-11-22 21:33:45 | 日記
もういちど行間逐語訳を見直してみた。

逐語的には、

HAPPY the poor ones as to the spirit

makarioi oi ptokoi to- pneumati

しあわせなことだよ  貧しいひとたちは 霊に関して(向かって)

となり、よくみると自分の霊という言葉にはならない

定冠詞を打った霊に向かっている貧しい人たちだ。

この聖句に関する一般の注解をだれつしてみます。

これらの人は霊的なもの、つまり神の属性を常に求めている人、衣服や食物、健康など、命に至るまで全てを神に頼る人のことです。このような人々にとって、感謝の祈り、また導きと赦しと強さを求める心からの祈りを抜きにした生活は一日たりとも考えることはできず、これが日々の糧を得る基となっています。

主はすべての人を救うために来られた。神の子主イエス・キリストが感動して「幸いである」と宣言されると、そこに幸いが始まるのである。それは人間的な幸不幸の基準とは全く異なる幸いである。一時的に幸福になっても、やがて消えてしまう幸せとも違う。キリスト教の歴史を振り返ると多くの殉教者が出た。自分の命が危機に瀕しても失われることのない幸せを彼らはつかんでいた。

旧「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との有名な聖句から来る言葉で、原文のギリシャ語でも英語でも霊において貧しい(spiritually poor)ですが、真意は「謙遜あるいは謙虚な人、柔和な人、もしくは「神にのみより頼む人」と理解されたり、あるいは字義通り「霊的に乏しく教えの必要性を感じている人」したがって「教えを求めている人」と解釈されたりしています。

有名なMatthew Henry Commentary(注釈書)は下記のように説明しています。

It is designed to remove the discouragements of the weak and poor who receive the gospel, by assuring them that his gospel did not make those only happy that were eminent in gifts, graces, comforts, and usefulness; but that even the least in the kingdom of heaven, whose heart was upright with God, was happy in the honours and privileges of that kingdom.

「才能や資質に優れ、あるいは生活の糧に富み、あるいは何かと有用な人が幸福になるだけということではなく、天の国においてはもっとも小さなものでも神に心を向ける者が名を高められ特権を受けることで幸せとなるということを伝えることを目的としている。」とあり、その意味では、上記説明の両者が説明されているものと考えられます。
      

幸福(さいはひ)なるかな、心(こころ)の貧(まづ)しき者(もの)。天國(てんこく)はその人(ひと)のものなり。[引照]
口語訳 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
塚本訳 ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
前田訳 「さいわいなのは霊に貧しい人々、
  天国は彼らのものだから。
新共同 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
NIV "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

註解: 真に幸福なるものは自己に道徳、知識、学術、智慧等を豊かに持っているとの自信がある人ではなく、却って乞食のごとくに自己に一物の誇るべきなく、すべてを神にまかせ、神より時々刻々にその必要なる心の糧を与えられる人である。かかる人々の受くる酬(むくい)はこの世における名誉地位権勢ではない。しかし「天国はその人のもの」であって、キリスト再臨のとき天国はかかる人によりて占められるのであり、かつ現在においても既にその一部を握っているのである。▲何となれば天国とは「神の支配」を意味し、この支配に服従するところに天国は存在するからである。

辞解

[貧しき] 原語ptōchosは乞食を意味する。

3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。この箇所の直前、マタイ4章24節によれば、イエスのもとに集まってきた群集は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」でした。このまさに「貧しい人々」に向かって、イエスは「幸い」と呼びかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、神的受動形と言われるもので、実は「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」という意味です。ここでも同じように神のいつくしみと救いが約束されていますが、これこそがイエスの「福音=よい知らせ」だったのです。わたしたちはこの言葉を、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くことができるでしょうか。




ざっと見ても、どの説明もピンとこない感じがします

colin quackenbush コリン クワッケンブッシュ 兄弟にかんして

2012-11-22 15:36:40 | 日記
ホチキスさんの情報から

これまで意識していなかったコリン・クワッケンブッシュ兄弟が

すごく気になっています。

彼はハリーペロヤンとならぶ 目ざめよ の執筆委員です。

またものみの塔の記事も書いていました。

当時の目ざめよの編集委員は

Harry Peloyan, Sam Buck, Colin Quackenbush and Eric Beveridge.

また、ものみの塔の執筆者たちは

George Aljian, Eric Beveridge, Sam Buck, Steve Johnson, Syril Chan, David Iannelli, Dan Black, Eugene Smalley, Bob Pevy, Colin Quackenbush, Harry Peloyan, John Wischuck, Lee Waters, Manfred Vencebi, Circo Aulicino

だったようです。

この人たちがローテンションを組んで順繰りに記事を書いていたようだ。

それを執筆委員会のジョン・バーとバリー兄弟が承認したら

記事になって私たちが読んでいた。

1978年に家族生活の本をクワッケンブッシュ兄弟が執筆しています。

また、ADHDの問題が喚起された時、いち早く目ざめよのシリーズの記事に

したのもクワッケンブッシュです。

一般の信者に直に影響するマイナーな問題に敏感だったのかもしれません。

また、驚く事に

あの ヘイドン・キャビントン 兄弟

昔の協会の副会長であり協会の弁護士だった兵

躍進する新世界ののビデオに出てきますが、「まるでマフィアあがりのような

恐れをしらない大胆不敵なクリスチャンらしくない顔をした

兄弟の葬式の話をしたのが、コリン・クワッケンブッシュ兄弟でした。

確か途中ヘイドン・キャビントン兄弟は一度アルコールか何かで排斥されて

また復帰していたかと思います。

1979年コリン・クワッケンブッシュ兄弟たち執筆委員会と統治体が

意見の衝突をし始めたようです。

クワッケンブッシュうの主張は144000人は一世紀の終わりにすべて

集められたという内容だったようです。

理由は1世紀のクリスチャンだけですでに144000人以上いたはずだとい

至極もっともな意見でした。

この当時はいろいろ思いつき発言が許される風潮が本部にありました。

この直後にそれが許されなくなり

レイモンド・フランズなど背教という罪にでっち上げて排斥する

現代の許容範囲の狭い運営方法に変わっていったように思います。

彼が残している話は

(見る目、聞く耳、感じる心)

(来て、ナザレから来た人を見よ 1,2,3)

(知るようになる)

(書士たちのようでなく権威をもって話す人がいる)

(なぜイエスは彼が行ったように教えたか)

(全くの喜びとなる事を信じない)

と興味をそそる話のオンパレードです。

クワッケンブッシュは残念がら亡くなっています。

こうした寄り添ってくれる優れた執筆者が協会にいなくなっているのは

今の信者にとっては悲劇だと思います。