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ビール飲みオヤジの日々雑感

ビール飲みオヤジが日々感じる雑感を徒然なるままに。

シリーズ「祝!ショスタコーヴィチ生誕100年」その3

2006年04月01日 | 音楽
たまたま今日付けの日経朝刊の文化欄がショスタコーヴィチの生誕100年を取り上げていました。
「ショスタコーヴィチは旧ソ連の閉鎖社会に生きたため、20世紀の大家にもかかわらず、人物像や作曲の真意に不明な点が多い。真贋諸説が渦巻く中、薫陶を受けた音楽家たちが今、重い口を開き始めた。」
ということで、マリス・ヤンソンス、クシトフ・マイヤー、イーゴリ・ブラシュコフそして外山雄三等の声が書かれていました。

記事の最後の部分では、純粋音楽として見直す機運の中で楽譜が体制の影響の中で作曲者の意図とは違って改竄されている可能性、その代表例として交響曲第5番最終楽章の終結部のテンポ設定のことが書かれていました。

ムラヴィンスキーの重々しく革命の栄光を感じさせる演奏か、バーンスタインの疾走しながらティンパニが連打され、ほぼ贋作とされたヴォルコフの「証言」に記された弾圧・強制された喜びを感じさせる演奏か。
聴く人の考え方、感じ方によっても大いに変わってくるでしょう。どちらであっても作品自体の魅力が変わらないところに作品のクォリティの高さがあると思います。そして音楽の持つ抽象性とテーマ性の関連の曖昧さ、そしてそれを旧ソ連体制化で大いに活用したであろうショスタコーヴィチの凄さがあるともオヤジは感じるのです。

純粋音楽として見直されて日が当たることはタコキチの一人を自負するオヤジとしては大変うれしいことでもありますが、やはりショスタコーヴィチはその生きた社会とその社会での彼の生き方という背景にもまた大きな魅力があり、そこにも光がもっとあたって欲しいと思います。

さて、今秋いよいよオヤジもタコ5を演奏できるのですが、果たして最終楽章終結部のテンポやいかに・・・