キリスト教は性悪説に立っているという解説によく出くわします。教科書等にもそういう記述が当たり前のようにされています。確かに聖書の第一巻である創世記には
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。6:5
人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。8:21
等の記述が見られます。そこだけ見れば確かに性悪説に立っているではないかと考えられます。
しかし、聖書全体を通して考えると、必ずしもキリスト教は性悪説に立っていると言い切ることはできないように思います。少なくとも二つのことを考慮に入れて考えなければならないのではないかと思います。一つ目は、性善説の要素を持った記述も聖書の中には有るということです。そして、二つ目は、キリスト教における「悪」の定義や示すものが世間一般のそれとは異なっており、またその適用範囲がもっと広いということです。それぞれの要素を確認してみたいと思います。
先ず聖書の中に性善説の要素を持った記述もあるという部分です。
創世記の1章においては、神が人間をお造りになった時に「人をご自身のかたちに創造された。」としています、神に造形的な形が有るということではありませんから、これは神の性質に似せた部分を持つ存在として造られたということを示しています。神の性質に似ている部分を持つということは、基本的には良い存在であると考えることが可能になります。すると、必ずしも性悪説に立っていると言い切ることはできないのではないでしょうか。
新約聖書においては、パウロが人間の性質を述べるにあたって、人間には良心が有るのだということを、ユダヤ人以外の人々の心の動きを引き合いに出して次のように述べています。
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。2:14-15
人間には良心が有り、モーセの律法が命じるような敬虔な行いや良い行いをする場合が有るのだという理解を示しているわけです。すると、キリスト教は性悪説に立っていると言い切ることはやはりできないのではないかと思います。
二つ目の要素を考えてみます。キリスト教の考えている「悪」はどんなものかを見ます。説明が簡潔であるという理由で、聖書辞典の「悪」という項目を見ますと、「神の法則から離れていること、背いていること」という大枠の定義が示され、その後に不道徳、犯罪、宗教的な罪などが続いています。そうしますと、後半の三つに当てはまらなくても、大枠の定義、前提にひっかかるならば、それは「悪」ということになります。しかし、それは必ずしも私たちが性悪説という言葉を考える時の「悪」と合致しません。
例えば、私たちの社会においては無宗教であることは一つの生き方であり、なんら悪ではありません。無宗教の人達でも高邁な精神を持ち、善行を施して社会に貢献し、良い人だとか聖人だとか呼ばれて尊敬される人はいます。しかし、それは先に述べた大枠や前提からすれば「悪」ということになります。つまり、キリスト教における「悪」の定義はその適用範囲が特殊であり広いのです。そういう前提で聖書が語っていることを無視して、だからキリスト教は性悪説に立っているのだと言い切るような判断はやや不正確ではないかと私は思うのです。
キリスト教は性善説なのか性悪説なのかと問われれば、私はどちらでもない、もしくはどちらでもあるというどっちつかずの答えの方がむしろ相応しいように思います。私たちの中には基本的な性質として善悪が共に働いている部分が有り、ある意味二律背反な生き方をしています。少なくとも中国の荀子が人の性質は悪だと断言したような意味における性悪説では決してないと言えるでしょう。
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主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。6:5
人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。8:21
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しかし、聖書全体を通して考えると、必ずしもキリスト教は性悪説に立っていると言い切ることはできないように思います。少なくとも二つのことを考慮に入れて考えなければならないのではないかと思います。一つ目は、性善説の要素を持った記述も聖書の中には有るということです。そして、二つ目は、キリスト教における「悪」の定義や示すものが世間一般のそれとは異なっており、またその適用範囲がもっと広いということです。それぞれの要素を確認してみたいと思います。
先ず聖書の中に性善説の要素を持った記述もあるという部分です。
創世記の1章においては、神が人間をお造りになった時に「人をご自身のかたちに創造された。」としています、神に造形的な形が有るということではありませんから、これは神の性質に似せた部分を持つ存在として造られたということを示しています。神の性質に似ている部分を持つということは、基本的には良い存在であると考えることが可能になります。すると、必ずしも性悪説に立っていると言い切ることはできないのではないでしょうか。
新約聖書においては、パウロが人間の性質を述べるにあたって、人間には良心が有るのだということを、ユダヤ人以外の人々の心の動きを引き合いに出して次のように述べています。
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。2:14-15
人間には良心が有り、モーセの律法が命じるような敬虔な行いや良い行いをする場合が有るのだという理解を示しているわけです。すると、キリスト教は性悪説に立っていると言い切ることはやはりできないのではないかと思います。
二つ目の要素を考えてみます。キリスト教の考えている「悪」はどんなものかを見ます。説明が簡潔であるという理由で、聖書辞典の「悪」という項目を見ますと、「神の法則から離れていること、背いていること」という大枠の定義が示され、その後に不道徳、犯罪、宗教的な罪などが続いています。そうしますと、後半の三つに当てはまらなくても、大枠の定義、前提にひっかかるならば、それは「悪」ということになります。しかし、それは必ずしも私たちが性悪説という言葉を考える時の「悪」と合致しません。
例えば、私たちの社会においては無宗教であることは一つの生き方であり、なんら悪ではありません。無宗教の人達でも高邁な精神を持ち、善行を施して社会に貢献し、良い人だとか聖人だとか呼ばれて尊敬される人はいます。しかし、それは先に述べた大枠や前提からすれば「悪」ということになります。つまり、キリスト教における「悪」の定義はその適用範囲が特殊であり広いのです。そういう前提で聖書が語っていることを無視して、だからキリスト教は性悪説に立っているのだと言い切るような判断はやや不正確ではないかと私は思うのです。
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