人間の活動態度は、あることに参加するか、参加しないかのどちらかである。
あることに不参加の者が、自分の理解可能な域まで全体の情報の伝播を望むのであれば、少なくともそれを求める活動を自ら起こさなければ成就しない。
Skype というシステムは、このあたりのことを見事に体現し体感させてくれる。
「求めよ、さらば与えられん」
座して何かを待ち、求めるものが何であるかも言わず、入ってくるものに不満を感じ、そしてぼやく、生活をかこつ者の悪癖である。
脱線ついでだが、Skype という名には何か引っかかるものがあって、それがなんだかわからずにいた。
ある朝ラジオで、女性の装身具にスイカップというサイズがあるという駄ばなしを聞いて、ずいぶん智恵のない安易な命名をするものだ、もう少し気の利いた名はないものかと思ったことがある。
たぶん顰蹙を買うであろうこんなことは、夜打って朝送り出す「夜打ち朝出し」でなければ書くのに躊躇しただろう。まあ、Blue Sky のもとで読む話ではない。
さて、ある日のこと、Skype に誰か待ち構えていないかと起動してみたら、思いがけない方から呼びかけがあった。
ニュー・バージョンでは、5人まで会議形式の交信ができるというので、そのテスト中だという。
実際にやってみると、3人めが入ったとき、どちらか1人が退却させられてしまう。
ごちゃごちゃやっているうちに、相手の顔が写って口の動きは見えているのに、声がまったく聞こえなくなった。
やむを得ず両耳を指差して両手で×を描いたら、それで通じたらしく、○が両手で示され、交信終了となった。
そのときの Skype 体験には何かスカッとしないものが残ってしまった。
後でよく調べたら、無料契約では、3人以上になると顔の見える「ビデオ通話」はできないことになっているのだった。
呼び込みの看板では、このあたりがよくわからないように仕掛けてあるのが、いかにも今様で、なんとも憎らしいのである。