夏の庭ではプルメリアの花も咲いている。枝や幹が柔らかく折れやすいが、2メートル半ほどの高さに成長している。
20年前の8月13日は東京にいた。夕方のニュースで沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したと短く報じられ、そのあとホテルのテレビを見続けた。
だが、ナベツネの巨人オーナー辞任やアテネオリンピック開会式の報道ばかりで、ヘリ墜落事故については報じられない。
沖縄では大騒ぎになっているだろう、と思いながらも、ヤマトゥではろくに報道もされない現実に、怒りと焦りを覚えた。
あれから20年が経ったが、現実は変わらないどころか、さらに悪くなっている。
日米安保条約に基づく米軍基地の負担を沖縄に押しつけ、日本人の圧倒的多数は日米安保体制を意識することなく日々生活し、平和と安全を享受する。
その構図から目をそむけることが当たり前になり、沖縄がどれだけ基地の負担や犠牲を訴えようが、圧倒的多数の日本人にとっては「無関心領域」なのだ。
これが日本と沖縄の変わらぬ関係であり、この現実を沖縄人は認識したうえで、こんな腐り日本のために犠牲になることを拒否しないといけない。
陸上自衛隊15旅団がホームページに牛島満司令官の辞世の歌を掲げ、どれだけ抗議を受けても削除しない。自分たちが旧日本軍の継承者であることを隠さなくなったわけだ。
中国に軍事的に対抗するため、日本政府は琉球弧での自衛隊強化と米軍との一体化を進めている。
しかし、自衛隊がどれだけ「南西シフト」を強化しようと、自衛隊と米軍のみで戦争はできない。
沖縄戦の記録を読めば、軍民一体の総力戦であったことが分かる。住民の全面的な協力がなければ、戦闘を継続することはできない。
沖縄人が79年前と同じように日本のために命を捧げ、軍に協力することがあるか。沖縄の苦悩に無関心な者たちの言いなりになる馬鹿は、いても少数だ。
自衛隊の「南西シフト」など砂上の楼閣である。そもそも、少子化で隊員の確保もままならない自衛隊が、中国と戦えると考えることじたい愚かさの極みである。
沖縄人にとって中国軍よりも、日常的に頭の上を飛び回り、事故や事件をくり返す米軍と自衛隊の方がはるかに危険なのだ。