今朝の琉球新報文化欄に文芸評論家の山崎行太郎氏の「大江岩波訴訟/保守論壇を憂う」という評論が載っている。
大江・岩波沖縄戦裁判が起こってから、あちこちのブログやホームページを見ているが、山崎氏の「毒蛇山荘ブログ」も、『沖縄ノート』をろくに読まずに言及している右派論壇への批判を始めた頃から時々読んでいた。同ブログでは『月刊日本』二月号に載った評論や『同』三月号に載った佐藤優氏との対談(一部)も載っている。今年から琉球新報で毎週土曜日に佐藤氏のコラムが連載されているので、佐藤氏を介して琉球新報の記者も山崎氏に関心を持ったということだろうか。
曾野綾子氏の『ある神話の背景』に関しては、山崎氏が指摘するように「厳密な文献批判」がなされたとは、沖縄においても言い難い。かつて太田良博氏が沖縄タイムスで批判し、曾野綾子氏と論争が行われたが、それ以降、太田氏の批判を受けて『ある神話の背景』の問題がどれだけ掘り下げられたか。八四年以降の家永教書裁判において曾野氏への批判がなされたと思うが、『ある神話の背景』の検証は十分なされないままだったと思う。沖縄戦研究者や平和運動を取り組む人達のなかで議論の対象にはされてきたと思うが、それがきちんと形として表されているか、寡聞にして知らない。沖縄から『ある神話の背景』を徹底的に論破してこなかったことが、今回の裁判につながったと言えるかもしれない。そういう意味では、沖縄の研究者や文学者は反省する必要がある。無論、私自身反省を込めてこの文章を書いている。
今回の裁判では、『ある神話の背景』を肯定的に評価した大城将保氏や仲程昌徳氏の文章が、原告側やその支持者に利用されている。また、「集団自決」(強制集団死)の「隊長命令」「軍命令」を否定する論拠として、宮城晴美『母の遺したもの・旧版』(高文研)、大城将保『沖縄戦』(高文研)、林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店)、大江志乃夫『花綵の海辺から』(朝日新聞)などが利用されている。全体の文脈を無視して一部だけを御都合主義的に利用する原告側とその支持者の問題はある 。しかし、これらの著作の記述が持つ問題については、きちんと検証し議論する必要がある。
宮城晴美氏は今回の裁判を契機に、『母の遺したもの』を改稿し、今年の一月三十日に新版を発行している。書き改められた部分や「なぜ《新版》を出したのか」に記された新たな分析、主張には納得できる。ただ、一つの証言によってこれまでの主張が大きく変わったことの問題は、改めて問われるだろうと思う。旧版の何が問題だったのか、そのことを改めて検証し、批判することは、旧版に依拠して「隊長命令」「軍命令」否定の論理を組み立てている原告側の主張を批判する上でも重要である。
同じことは、原告側の主張の論拠となっている他の著作にも言える。山崎氏の評論もそういう意味で注目している。
大江・岩波沖縄戦裁判が起こってから、あちこちのブログやホームページを見ているが、山崎氏の「毒蛇山荘ブログ」も、『沖縄ノート』をろくに読まずに言及している右派論壇への批判を始めた頃から時々読んでいた。同ブログでは『月刊日本』二月号に載った評論や『同』三月号に載った佐藤優氏との対談(一部)も載っている。今年から琉球新報で毎週土曜日に佐藤氏のコラムが連載されているので、佐藤氏を介して琉球新報の記者も山崎氏に関心を持ったということだろうか。
曾野綾子氏の『ある神話の背景』に関しては、山崎氏が指摘するように「厳密な文献批判」がなされたとは、沖縄においても言い難い。かつて太田良博氏が沖縄タイムスで批判し、曾野綾子氏と論争が行われたが、それ以降、太田氏の批判を受けて『ある神話の背景』の問題がどれだけ掘り下げられたか。八四年以降の家永教書裁判において曾野氏への批判がなされたと思うが、『ある神話の背景』の検証は十分なされないままだったと思う。沖縄戦研究者や平和運動を取り組む人達のなかで議論の対象にはされてきたと思うが、それがきちんと形として表されているか、寡聞にして知らない。沖縄から『ある神話の背景』を徹底的に論破してこなかったことが、今回の裁判につながったと言えるかもしれない。そういう意味では、沖縄の研究者や文学者は反省する必要がある。無論、私自身反省を込めてこの文章を書いている。
今回の裁判では、『ある神話の背景』を肯定的に評価した大城将保氏や仲程昌徳氏の文章が、原告側やその支持者に利用されている。また、「集団自決」(強制集団死)の「隊長命令」「軍命令」を否定する論拠として、宮城晴美『母の遺したもの・旧版』(高文研)、大城将保『沖縄戦』(高文研)、林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店)、大江志乃夫『花綵の海辺から』(朝日新聞)などが利用されている。全体の文脈を無視して一部だけを御都合主義的に利用する原告側とその支持者の問題はある 。しかし、これらの著作の記述が持つ問題については、きちんと検証し議論する必要がある。
宮城晴美氏は今回の裁判を契機に、『母の遺したもの』を改稿し、今年の一月三十日に新版を発行している。書き改められた部分や「なぜ《新版》を出したのか」に記された新たな分析、主張には納得できる。ただ、一つの証言によってこれまでの主張が大きく変わったことの問題は、改めて問われるだろうと思う。旧版の何が問題だったのか、そのことを改めて検証し、批判することは、旧版に依拠して「隊長命令」「軍命令」否定の論理を組み立てている原告側の主張を批判する上でも重要である。
同じことは、原告側の主張の論拠となっている他の著作にも言える。山崎氏の評論もそういう意味で注目している。
上記のサイト管理人さんが集めた資料が膨大です。
左側の「掲示板」に私がBeethovenのハンドルネームで「ある神話の背景」は実証に耐えるものではなくデマ文書にすぎないことを具体的に視点を変えて書いております。是非ご覧下さい。