海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

資料:神直道氏(第32軍司令部航空参謀)の証言 1

2012-03-26 18:08:30 | 第32軍司令部壕説明板問題

 今日3月26日は、67年前に座間味島、慶留間島で強制集団死が起こった日である。犠牲となった人々の冥福を祈りたい。

 第32軍司令部壕説明板文案から「慰安婦」「住民虐殺」の文言が削除されたという報道のあと、沖縄県平和・男女共同参画課に電話をし、説明板担当のMという職員と話をした。削除の根拠となった証言は何かと問うたところ、担当職員があげたのは以下の2点であった。

①1992年7月22日付琉球新報掲載の神直道氏(第32軍司令部元航空参謀)のインタビュー。
②2011年11月28日にインターネットで放送されたチャンネル桜の番組に出てくる伊波苗子氏の証言。

 ちょうど手元に神氏のインタビュー記事のコピーがあったので、内容を確認しながら担当者と話をした。実は神氏のインタビューは単純に「慰安婦」や「住民虐殺」を否定したものではなく、むしろ「慰安婦」という記述の正当性を証明する面も持っているのである。その点を指摘しながら議論すると、担当者もしだいに削除の理由として説明できなくなっていた。
 以下に同インタビュー記事を紹介し、内容を検討したいと思うのだが、その前に1967年発行の神直道著『沖縄かくて壊滅す』(原書房)から、神氏の経歴を引用しておく。ちなみに明治44年は1911年である。

〈明治44年仙台市に生まる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。飛行中隊長、陸軍航空士官学校教官。大本営参謀、防衛総司令部参謀、台湾第八飛行師団参謀を経て、沖縄第三十二軍参謀として昭和20年3月現地に赴任、同年5月末、訓令により内地帰還、九州第六航空軍参謀となり終戦に至る〉。

 また同書の「はしがき」ではこう記されている。

〈私は沖縄作戦が始まる三週間前に沖縄第三十二軍に赴任した。突然の赴任のように見えるが実はそうではない。
 第三十二軍誕生にあたっては大本営にあって軍創設の業務に従事した。(昭和十九年三月〉その後防衛総司令部に転じ、沖縄軍の育成に努めた。(昭和十九年六月以降)
 次いで台湾の飛行師団の幕僚として、沖縄軍と生死を共にするはずの協力飛行部隊の一員として、沖縄軍を見守ってきた。(昭和二十年一、二月)そのような軍歴が示すように人一倍、沖縄に対する理解と愛情をもって沖縄に赴任したのである〉(P1~2)。

 神氏が沖縄に赴任したのは1945年3月1日だった。5月10日の正午頃に長勇参謀長に〈お前一つ内地に帰って、大本営や陸海軍航空部隊によく実情を話し、もう一度、一大航空作戦を再考するように話してくれぬか〉(『沖縄かくて壊滅す』P191)と命令を受け、同日の夜7時に首里の司令部壕を出発する。最初は飛行機で脱出を試みるがうまくいかず、いったん首里に戻って今度は刳船(サバニ)での脱出に変更し、5月30日の夜8時に糸満の名城海岸を出発。6月7日に与論島に着いている。3月には福岡、台湾への出張もあり、神氏が沖縄にいたのは正味2カ月半ほどである。
 以上のことを踏まえて、1992年7月22日付琉球新報の社会面に掲載された神氏へのインタビュー記事と一問一答を見たい。なお、このインタビューは先に見た〈首里城地下の沖縄戦 第32軍司令部壕〉の連載に関連して行われている。
 以下、引用を始める。

〈「軍は住民を守らない」/神直道氏(元第32軍司令部航空参謀)証言/作戦遂行上 足かせに/戦艦「大和」の出撃も辞退
 【東京】軍は住民を守らないー去る大戦で国内唯一の地上戦が行われ、県民十余万人が犠牲になった沖縄戦で、三二軍は「住民は作戦遂行上は足かせ」とみなし、住民を守ることは(軍事)作戦には入ったいなかったことが、三二軍司令部幹部の証言で、改めて明らかになった。沖縄戦では住民が軍と行動を共にしたのが、犠牲者を増大させることになったと言われてきた。今回の証言で「軍と一緒なら守ってもらえる」と信じ犠牲になった沖縄住民と軍の論理のすれ違いが、改めて浮き彫りにされた。

 証言したのは沖縄戦当時の第三二軍司令部航空参謀の神(じん)直道氏(八〇)=東京都世田谷区。神氏は、三二軍参謀として、沖縄戦終盤まで首里の司令部壕で「天号作戦」の遂行に当たった。首里司令部壕撤退を決める直前に、大本営への沖縄作戦の戦況報告のために、沖縄を脱出。その後は九州の第六空軍参謀として終戦を迎えた。三二軍司令部の幹部としては数少ない生存者。
 神氏は本紙のインタビューに答えて、沖縄戦全体の作戦について述懐した。その中で、沖縄戦で消失した首里城が「戦闘が始まれば消失はやむを得ない」と司令部は判断。また、司令部壕内に二十人から三十人の「辻遊郭の女性たちが炊事要員として軍に奉仕していた」こと、別に「良家の子女十人余が、将校の身の回りの世話をしていた」ことなど、司令部壕内の女性たちについて証言した。
 また三二軍の牛島司令官が、沖縄戦開戦当初から死を覚悟し「司令部壕の外に執務用の机を置き、艦砲射撃の放火に身をさらして、早く死にたがっていた」と証言。軍首脳も沖縄戦の「敗戦」を強く意識していたようだ。
 また沖縄特攻作戦でも戦艦「大和」の沖縄派遣に、三二軍首脳は「ありがたいことだが、辞退(出撃中止を)申し上げろ」と大本営に返電を指示。大本営が沖縄作戦の切り札として派遣した「大和」特攻でも「情勢は代わらない」と判断。大和派遣の中止を要望したが、すでに大和が出撃した後で、手遅れだったことも明らかにした。
 司令部壕内でのスパイ事件もあり、情報参謀が取り調べに当たったこと、スパイなどの取り調べに当たる「軍法務部」が南風原町津嘉山にあり、軍法会議の開催権限を持っていたが「沖縄戦の間は一度も軍法会議は開かれなかった」と証言。沖縄戦で多発したと言われる「スパイ虐殺」事件への軍の対応が、非合法的に行われていた可能性も示唆した〉。

〈神 直道氏(第32軍司令部元航空参謀)との一問一答/軍隊は敵のせん滅が目的/撤退は押された結果/首里城、絶好の攻撃目標
 神(じん)直道氏との一問一答要旨は次の通り。
 -首里城地下に司令部壕を造った理由は
 神 津嘉山の司令部壕は規模が小さすぎて新たに作る必要があった。首里は那覇市内を一望でき、海も平野もすべて視界に入る優れた立地。首里に司令官がいるということで最前線の兵士に無言の支えとなった。
 -首里城破壊について
 神 軍事的一般常識として司令部があろうがなかろうが首里城は爆撃や攻撃の対象になった。米軍も日本軍も貴重な文化財だろうが軍事作戦上必要であれば攻撃した。首里城にしても空から見れば「何か潜んでいそうだ」と絶好の攻撃目標になる。
 -「天の巌戸戦闘司令所」の名称について
 神 長参謀長が勝手に付けた。「天の巌戸」という名前を付けるのは不謹慎な話だと思っていた
 -壕内に女性がいたか
 神 将校の世話をする良家の女性と女子師範学校の学生も何人かいた。
 -「慰安所」について
 神 指令部内に慰安所はなかった。朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった。辻遊郭の女性は二、三十人ぐらいいて、飯炊き要員として駆りだされた。遊郭の女性だというので兵隊の中にそのような行為に及ぶ者があり、壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった。
 -スパイについて
 神 男がスパイ容疑で薬丸参謀の取り調べを受けていた。たぶん処刑はなかったと思う。沖縄戦の間、軍法会議は開かれていない。
 -捕虜について
 神 一人いた。二人も殺したという話(本紙連載)は信じ難い。私が見ていないだけで、実際にあったかもしれない。士官・幕僚クラスならハーグ条約(捕虜に関する国際法)を知っていたはずだが、一線の兵士はほとんど知らないはず。
 -情報戦について
 神 情報参謀は結構米軍情報を傍受、かなりの精度で収集していた。
 -武部隊の台湾移動と増援中止について
 神 武部隊移動の影響は大きいが沖縄も台湾方面軍の指揮下にあったから従うほかなかった。(その後)姫路の一個師団が派遣中止になったが、その師団がいても沖縄戦は勝てなかった。
 -持久戦について
 神 「持久戦」と言われているが第三二軍としてはあくまでも「決戦」(攻勢を主とする作戦)ととらえていた。「沖縄決戦」は大本営で決定された。首里から南部への撤退は、「持久戦」のためではなく「押されて下がった」というのが本当だ。
 -沖縄戦をめぐって第三二軍司令部内の対立は
 神 「持久戦」か「決戦」かでもめた。八原高級参謀は終始「持久戦」を主張したが、長参謀長は気が強くて右翼。作戦遂行上は「持久戦」しかないと理屈で分かっているが攻撃に出たくて八原と衝突した。総攻撃をかけなくても兵力はどんどん減っていた。「持久戦」を続けても、そう大した差はなかったと思う。
 -沖縄戦の主力は空軍か地上軍か
 神 沖縄は離島。離島作戦になると航空が主要な兵力になる。当然の話だ。八原高級参謀は航空に対して信頼していなかった。沖縄には特攻機を合わせて七、八千機の航空兵力が残っていた。沖縄には二十数隊の陸海軍特攻隊を配置する予定だった。
 -戦艦「大和」の出撃について
 神 無謀とは思わないが、(出撃しても)情勢は変わらなかったと思う。
 -首里の司令部壕放棄
 神 参謀長や司令官の二人の間で極秘に決定した。
 -沖縄脱出後、大本営に報告した内容は
 神 沖縄のためにもう一度攻撃してほしいと要望した。報告の後、参謀次長は「それは無理な話だ」と言った。
 -住民対策について
 神 非戦闘員対策は県当局が行うべきもの。民間人に軍は命令できない。米軍上陸前に県知事を通じて北部へ疎開・避難勧告した。自分の家で死にたいと、疎開しない者もいたが、戦闘が始まってからいよいよ慌てて焦ったようだ。それで軍と一緒に南に下がって犠牲になった。
 -「軍隊は決して住民を守らない」という意見について
 神 その通り。軍隊は敵のせん滅が役目。住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる。純粋に軍事的な立場からは住民を守るゆとりはない〉。

 以上、引用終わり。
 〈壕内の女性〉と〈慰安所〉について神氏は次のように語っている。

〈-壕内に女性がいたか
 神 将校の世話をする良家の女性と女子師範学校の学生も何人かいた。
 -「慰安所」について
 神 指令部内に慰安所はなかった。朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった。辻遊郭の女性は二、三十人ぐらいいて、飯炊き要員として駆りだされた。遊郭の女性だというので兵隊の中にそのような行為に及ぶ者があり、壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった〉。

 神氏は〈司令部内に慰安所はなかった〉とする一方で〈辻遊郭の女性たち〉に対し〈遊郭の女性だというので兵隊の中にそのような行為に及ぶ者があり〉ということを認めている。〈そのような行為〉がどこまで指すかは微妙だが、当時は公娼制度があった時代であり、辻もたんに酒や歌舞音曲を楽しむ場所ではなかった。壕の中に「慰安所」として特定の場所は設けられてなく、大半の将兵は戦闘に追われてそれどころでなかったろうが、一部の将兵に辻の女性たちを「慰安婦」として扱う者がいなかったのかどうか。
 今まで見てきた八原博通『沖縄決戦』、上原栄子『辻の華 戦後篇上』、濱川昌也『私の沖縄戦記』、大迫亘『薩摩のボッケモン』などによると、第32軍の将校たちの中には、八原高級参謀や神航空参謀のように司令部壕内で女性たちを遠ざけようとする者と、長参謀長を中心に〈みるに耐えない痴態を繰り広げ〉(濱川『私の沖縄戦記』P89)る者たちがいた。
 八原氏や神氏が女性を遠ざけたのは、風紀上の問題や彼らの人柄もあるだろうが、同時に作戦を立案、審議する参謀として、女性軍属とはいえ民間人をみだりに近づけないという防諜上の配慮もあったはずだ。
 それに対し長参謀長や彼の右腕だった坂口次級副官、葛野高級副官らは、長参謀長の型破りの性格と副官および特務としての役割から、辻の女性たちとの関わりも多く、司令部壕に入ってからも一緒に酒を飲んで騒ぐことがあった。32軍司令部幹部と一括りにするのではなく、各幹部らの個性や職制、人間関係などもふまえて、そのような違いがあったことを押さえる必要がある。
 大迫『薩摩のボッケモン』には、摩文仁の司令部壕で命を絶った若藤楼の初子は坂口次級副官の、菊子(富子?)は葛野高級副官の「愛人」だったと記されている。千原繁子『カルテの余白』には〈砲兵将校の現地妻〉という表現が出てくるが、沖縄における「慰安婦」には、不特定多数の将兵を相手にさせられた女性たちと、特定の将校の「専用」となる女性たちがいた。「愛人」「現地妻」と表現されるのは、そのような特定の将校だけを相手にした女性たちである。それが辻の伝統に近い形ではあっても、戦時下という特殊な状況での関係であり、「慰安婦」であることに変わりはない。
 若藤楼の初子、菊子(富子)が自決する坂口次級副官、葛野高級副官と運命を共にし、摩文仁の司令部壕で自ら望んで命を絶ったのは、それだけ両副官と深い関係にあったからだ。若藤楼の女性たちが、たんに酒を注ぎ、歌や踊りで楽しませることを役割にしていただけなら、二人もそこまではしなかっただろう。
 首里の第32軍司令部壕にいた八原高級参謀、濱川衛兵司令、大迫軍医と並んで、元航空参謀の神氏も同壕に辻の女性たちがいたことを認めているのは、説明板に「慰安婦もいた」と表記することの正しさを、むしろ証明している。説明板には同壕内に「慰安所があった」と書いていたのではなく、戦時下で「慰安婦」を強いられた女性がいたことを記しているのである。神氏の証言を「慰安婦」を削除する理由にするのは不当である。

 神氏は〈朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった〉とも述べている。〈朝鮮人女性〉については、いたという証言もあり、さらに検討が必要だが、〈本土の芸者〉については、大迫『薩摩のボッケモン』に偕行社について詳細な記述があり、八原『沖縄決戦』でも〈参謀室から遠く離れた第六坑道には、はるばる内地から渡来し、長堂の偕行社に勤務していた芸者十数名と、辻町の料亭若藤の遊女十数名が収容されていた〉(P179)と記されている。

 他にも、米軍G2(情報参謀部)作成『INTELLIGENCE MONOGURAPH』に第32軍司令部壕の実測図があり、それには「WOMENS QUARTERS 《12 JAPANESE,19 OKINAWAN》」とあり、第32軍司令部壕内に日本人女性12人と沖縄人女性19人の宿所があったことが記されている。
 また、第32軍司令部の「日々命令綴第一〇七号 球軍日々命令 五月十日」には、首里の司令部壕を出て与座に向かう女性グループの第四梯団として〈水石一登以下十三名(偕行社)〉と記されている。同資料は「内閣府沖縄振興局 沖縄戦関係資料閲覧室」のサイトで見ることができる。下記資料の(115/140)を参照のこと。

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0303004

 以上の点から見て〈本土の芸者はいなかった〉とする神氏の証言は誤りであり、神氏の記憶違いか、偕行社の女性たちがいたことを、そもそも知らなかったと見た方がいい。八原『沖縄戦記』によれば、偕行社の女性たちがいた第六坑道は〈参謀室から遠く離れた〉場所にあり、神氏が知らなくても不自然ではない。また、大迫『薩摩のボッケモン』の記述が正確なら、偕行社の女性たちは5月6日から10日までの短期間しか司令部壕にいなかったことになり、それも神氏が知らなかった理由と考えられるが、この点はもっと検証が必要である。
 神氏の『沖縄かくて壊滅す』を読むと、洞窟(司令部壕)内のようすはわずかしか記されず、学徒や女性軍属のこともまったく出てこない。内容は沖縄戦の作戦・戦術・戦闘状況の考察と自らの脱出行がほとんどで、八原『沖縄決戦』と読み比べると、周囲への目配り、観察眼に大きな違いがある。元もと神氏には、作戦面以外での関心が乏しかったのではないかと思える。

 


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