16日(水)は八重岳からの帰りに、本部町伊豆味にある「照屋忠英先生遺徳顕彰碑」に寄って手を合わせてきた。
照屋氏は本部や今帰仁で国民学校の校長を務めた教育者である。
80年前の4月17日、照屋氏は日本軍にスパイの疑いをかけられ虐殺された。
実行したのは今帰仁村の運天港に配置されていた海軍部隊である。
彼らは米軍の攻撃で魚雷艇や特殊潜航艇(蛟竜)が破壊されたあと、陸戦隊となって国頭支隊に合流していた。
4月16日に米軍が伊江島に上陸し、それを機に国頭支隊は旧羽地村の多野岳に移動(敗走)する。
地域のリーダーとして日本軍に協力していた照屋氏は、家族を先に逃がし、あとを追おうとして海軍部隊に捕らえられ、虐殺されている。
海軍部隊はその後、嵐山に移動して敗残兵となり、周辺地域で住民虐殺や食料強奪をくり返している。
嵐山は現在、ジャングリアというリゾート施設が7月にオープンしようとし、話題になっている場所だ。
今帰仁で生まれ育った私にとって嵐山は、パインの産地や羽地内海を望む景勝地であると同時に、ヤンバルの住民を苦しめた日本軍の血なまぐさい歴史を負った場所でもある。
照屋氏の顕彰碑は本部町伊豆味の交番の近くにある。
名護から美ら海水族館に向かう途中、気付かずに通り過ぎている人も多いだろう。
機会があれば車を止めて、顕彰碑を訪ねてほしい。そして、碑に関わる歴史を知ってほしい。
軍隊は住民を守らない。それが沖縄戦の教訓として言われるのはなぜか。
友軍と呼んで献身的に協力をした日本軍に裏切られ、スパイと濡れ衣を着せられて虐殺される事態が各地で起こったからだ。
アメリカ―たーよか、友軍がるうとぅるせーたる(米軍よりも友軍の方が怖かった)。
子どもの頃、祖母から聞かされた言葉である。
これは決して過去のことではない。