海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『語りつぐ戦争 第1集』より3

2008-02-24 17:31:07 | 日本軍の住民虐殺
 岸本金光氏の証言から本部・今帰仁における日本軍の住民虐殺について見たい。
 岸本氏は当時44歳。名護町役場で兵事主任を務める一方で、厚養館という旅館も経営していた。「見たこと、聞いたこと、出会ったことー兵事主任としてー」と題し、自らペンを取って記した文章で岸本氏は、昭和十七年に当時の羽地村長が、近畿地方に空襲があったとラジオ放送を聞き間違えて名護や近隣町村で混乱が起こったこと、名護市大兼久区出身の特攻兵・具志堅用清氏の逸話、防空訓練の様子、一九四四(昭和十九)年十月十日の空襲で名護で初めて犠牲者が出たことなどを記している。
 その中で本部村と今帰仁村で起こった住民虐殺について、実行者の海軍特攻魚雷隊長・白石大尉が語ったことを含めて、以下のように記している。

 〈私は、昭和二十年五月家族と一緒に喜知留川の避難小屋にいた時、突然運天港に駐屯待機している海軍特攻魚雷隊長・白石大尉以下将校五、六名が、喜知留川で洗濯している私の従姉・岸本カナに、厚養館と岸本旅館の避難小屋に案内してくれと来た。御飯もとっていないので、何でも良いから食わしてくれといったので、準備してあった夕食を、すっかり彼等にくれた。おまけに泡盛も飲ませると、皆よろこんで満足そうであった。
 丁度そこに遊びに来ていた名護校の宮里国本先生と私等家族がいる前で、白石大尉が話すには、昨日照屋忠英校長を八重岳に行く途中で殺したという。国本先生、私の妻と三人で、あんな立派な校長先生で、国頭郡教職員会長の要職にあり、住民から尊敬されており、しかもご子息長男・二男は現在出征中である。どんなことがあって殺したのかと尋ねたたら、スパイの疑いで、十分な証拠も得ているといった。次は今帰仁の長田盛徳郵便局長と名護町屋部国民学校長・上原盛栄を殺す番になっていると話していた。
 日本の兵隊たちは、沖縄人にスパイの汚名をかぶせ、無垢な住民が数多く虐殺されている。私が知っている今帰仁村の兵事主任・謝花喜睦が、ある日の夕方部落常会中、白石大尉に呼び出されて連行され、近くの畑で虐殺されたと聞いた〉(92ページ)
 
 文中に出てくる照屋忠英氏は、本部村字伊豆味の出身で、沖縄戦当時、本部国民学校の校長であった。地域住民の人望が厚く、一九七七年には遺徳顕彰碑が建てられ、その翌年には照屋忠英先生遺徳顕彰碑期成会編『鎮魂譜 照屋忠英先生回想録』が出版されている。照屋氏の虐殺に関しては、別の機会に詳しく見てみたい。ここでは白石大尉自らが照屋氏の虐殺を実行したことを語っていることに注目したい。
 白石大尉の話からは、日本軍が北部町村のリーダー達をリストアップし、計画的に虐殺していたことが分かる。
 謝花喜睦氏の虐殺も、白石大尉のやったことと岸本氏は聞いている。隣村で同じ兵事主任を務めていた謝花喜睦氏の虐殺は、岸本氏にとって他人事ではなかっただろう。
 前年には、岸本氏自身も白石大尉に抜刀されて脅される体験をしていた。

 〈昭和十九年のある日のこと、那覇市から名護町に転居した陸軍歩兵伍長・平敷慶久に対し召集令状が回送されたので、この令状を交付するため、平敷に役場に出頭するように通達した。平敷はすでに海軍軍属として海軍白石部隊に使役され、字世冨慶の男女四、五十人を集めて縄で擬装網作りの請負をしていた。役場に白石大尉が来て、これを拒否したので、私が兵役法に従ってその筋を伝えるといって、白石大尉と相当の議論をしたことがある。その後宜保吉仲助役と二人、三高女の部隊にある要件で行き、その帰りに校門のところで突然白石大尉に出会った。すると、先日の遺恨で二人に抜刀して殺してやるといった。私等は国家にご奉公しているのだ、殺すなら殺せ、と恐れることなく度胸を据えていたら、一言もなしに知らぬ顔してその場を去ってしまったこともある〉(92~93ページ)
 
このような体験に踏まえて岸本氏は、日本軍と米軍を比較しながら次のように述べている。

 〈日本軍が、沖縄のあちらこちらで県民を虐殺していたこと、沖縄県民がスパイをしたために日本軍が負けたのだという荒唐無稽のデマ、その他いろいろの沖縄県民に対する侮辱と犯罪は、すべての県民の怒りを買っていた。
 これと対照的に、アメリカは難民に親切であった。敵国人の沖縄県民に衣食住を供給した。個人的にもアメリカ人は一般におおらかで、思いやりがある。日本人とアメリカ人を比較した場合、言葉が通じないことを除けば、アメリカ人は良いとの結論に到達した〉(93ページ)

 こういう文章を目にすると、今なら小林よしのり氏あたりが、「だから沖縄は反日親米なんだ」と喚きそうである。だが、当時の沖縄人の圧倒的多数の実感は岸本氏と同じであっただろう。
 友軍と呼んで信頼を寄せ、できる限りの協力をしたにもかかわらず、沖縄の住民に向かって日本刀を抜き、スパイ呼ばわりして虐殺していった皇軍兵士たち。その事実の一つ一つが、自国の軍隊であっても住民を守りはしない、という認識を沖縄人に作っていったのである。米軍よりも日本軍の方が怖かった、というのは、沖縄戦を体験した住民の証言に頻繁に出てくる言葉であり、それは私が子どもの頃、祖父母から聞かされた言葉でもあった。

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