20年前の1992年6月17日から8月13日まで、琉球新報は「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕」という連載を行っている。当時、大田昌秀県政のもとで同壕の調査が行われ、復元・公開を望む声も出されていた。連載では生き残った沖縄師範学校の教師や生徒らの証言を中心に、戦時下の司令部壕の様子や第32軍司令部の動向が明らかにされている。その中に住民虐殺や慰安婦についての証言もあるので紹介したい。
「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第7回」1992年6月23日付琉球新報掲載
〈虐殺/スパイのぬれぎぬで/「上原トミさん」
「ずっと、言えないでいることがあるんです。豊見城出身の上原トミさんのことです」。鉄血勤皇隊員だった弁護士の川崎正剛さん(六四)は表情を曇らせた。話すことを決心するまでに五十年近い歳月を必要とした。
一九四五年(昭和二十年)五月のある日。辺りは薄暗くなりかけていた。三二軍の第六坑道口に、一人の女性が憲兵に引き連れられてきた。それが「上原トミ」さんだった。三十歳ぐらい。半そで、半ズボンの軍服姿。頭は丸刈り。「スパイをしたら上原トミのようになるぞ」-この憲兵の発した名前が、川崎さんの頭に焼きついた。
「スパイをこれから処刑する」と憲兵。沖縄師範学校の田んぼの中、抗口から二十メートルほど離れた電柱にトミさんはひざまづいた姿勢で縛り付けられた。壕内にいた朝鮮人従軍慰安婦が四、五人、日の丸の鉢巻きを締めてトミさんの前に立った。手には四十センチの銃剣が光っている。
慰安婦が憲兵の「次」「次」との命令で代わる代わる銃剣をトミさんに突き刺した。憲兵は次に、縄を切ってトミさんを座らせた。「少尉か中尉だった。おれは剣術は下手なんだがなーと言って、日本刀を抜き出した」(川崎さん)。その軍人はトミさんの背後に立ち、刀を上段から振り下ろした。ふた振り目に首が切り落とされた。
その時だ。周りで見ていた兵隊や鉄血勤皇隊の何人かが駆け寄り、土の塊や石をトミさんに投げつけた。人間が人間でなくなる-。戦争の渦の真っただ中に巻き込まれ、学友を失った者たちは「おまえのために」とトミさんの遺体に襲いかかってしまったのだ。
「申し訳ないことをしてしまった」。自責の念は消えない。川崎さんは戦後十四、五年して現場を訪れ、手を合わせた。「トミさんの最期を見たものとして、事件を明らかにしなければならない」「当時の沖縄のあの状況の中でスパイなんてあるわけがない」。二十年余り、トミさんのことを書こうとするが「胸が苦しくなって」ついに書けないでいた。
「慰霊の日」を前に今年、川崎さんは再び金城町の現場でトミさんが埋葬されていると思われる所に向かい、一心に手を合わせた。川崎さんの心の中の沖縄戦はいまだ終わらない。(32軍司令部壕取材班)〉。
同連載記事に関連して、1992年6月24日付琉球新報には、虐殺された上原トミ(キク?)さんの遺骨に関する記事が載っている。以下に紹介したい。
〈スパイ容疑で虐殺の「上原トミさん」/遺骨はまだ虐殺現場に?/「現場の土が血で真っ赤…」/宜野湾の山城氏が証言/地下からのメッセージ/32軍司令部壕
沖縄戦の最中、首里城地下にあった三二軍司令部の憲兵らにスパイの疑いをかけられて虐殺された「上原トミさん」の遺骨は、いまだに那覇市首里金城町の旧日本軍第三二軍司令部壕第六坑道口近くの虐殺現場に埋まっている可能性が強くなった。本紙二十三日付朝刊連載「首里城地下の沖縄戦」を読んだ当時現場近くの墓に潜んでいた人から情報が寄せられたもの。この人は宜野湾市に住む山城次郎さん(五七)。
「名前はキクでは?」
「戦後二、三年して上原さんが埋められた場所に行ったが、草は伸び放題で掘り返された様子はなかった。七年前までは、清明(シーミー)の度にそこで手を合わせた。そのままの場所に埋まっているだろう」と話している。
山城さんは当時、三二軍の司令部壕の第六坑道口近くの墓に家族らと避難していた。そこは上原さんが虐殺された沖縄師範学校の田んぼのすぐそば。山城さんは虐殺そのものは見ていないというが「殺された翌日に埋められた場所を掘り返しに行ったら、土が血で真っ赤に染まっていた。恐くて掘り返すことはできなかった」という。
山城さんは「当時、目撃した人から聞いたところでは、上原トミではなく、上原キク(文字不明)という名前だった。年齢は十九歳。穴掘りをしていた女性の一人」と説明する。川崎正剛さん(六四)の証言と食い違う部分もあるが、虐殺現場と上原さんが埋められているという場所は一致している。
七年前、山城さんは立ち退きで墓を読谷村に移転。
「その前まで毎年シーミーなどで金城町の墓に来て、上原さんの埋められている所でめい福を祈った。そのままではかわいそう。早く掘り返してちゃんと埋葬できないものか」と話している。
また、山城さんによると、上原さんが虐殺される一週間ほど前から日本刀を下げた少尉が山城さんらの墓に毎夜やってきて、人を捜していたという。「坑道口から八本ぐらい電話線が通っていたが、一週間ぐらい前から線がスパイに切られているーということだった」。山城さんはこう説明する。一方、「戦後になって考えてもスパイなんてあの時はいなかった」と強調している〉。
以上、紹介終わり。
第32軍司令部壕の第六坑道口近くで住民虐殺が行われたことが、被害者の名前や殺害・埋葬場所も含めて具体的に語られ、報道されている。同壕の説明板問題で、沖縄県当局はこのような証言を覆すどのような証言、資料を得たのか。県民に示すべきだ。