海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

「地を這う声のために」(3)上

2022-05-06 22:48:04 | 生活・文化

 以下の文章は、雑誌『越境広場』9号(2021年7月25日発行)に掲載された、私の時評「地を這う声のために」(3)の全文である。上下に分けて本ブログで紹介したい。

 三月一日から六日にかけて沖縄県庁前広場で、沖縄戦戦没者の遺骨収集を行ってきたガマフャーの具志堅隆松さんが、ハンガーストライキを行った。辺野古新基地建設に沖縄島南部の土砂が使用されようとしていることに対し、遺骨が混じることを理由に採取計画の断念を訴えての行動だった。ハンスト中は沖縄戦体験者をはじめ、支援する市民が数多く県庁前に集まり、具志堅さんを激励した。

 遺骨が混じった土砂を新基地建設の埋め立てに使うのは、戦没者への冒涜であり人道に反する。そういう具志堅さんの訴えに賛同する動きは、署名活動や県内市町村議会の決議、国会前、豊見城市庁舎前での連帯するハンストなど、大きく広がっていった。長年にわたりボランティアで遺骨を収集し、遺族に帰す取り組みを続けてきた具志堅さんだからこそ、これだけの訴える力を持っていた。

 私は名護市にあるティダの会という小さな住民団体に参加している。同会会員の一人に辺野古で新基地建設に反対してきた島袋文子さんがいる。一九二九年生まれの島袋さんは、今年四月で九二歳になった。歩くのが不自由になった現在も、車椅子でキャンプ・シュワブゲート前の座り込みに参加している。その島袋さんもいち早く具志堅さんのもとに行き、激励していた。

 島袋さんは沖縄戦当時十代半ばで、目の不自由な母親と十歳の弟の手を引いて、島尻の戦場を逃げ回ったという。夜、喉が渇いて水溜りの水を飲んだ。翌朝見ると、そこには死体が浮き、水は血で染まっていた。壕に隠れているとき、米軍の火炎放射器の攻撃を受け、半身に大やけどを負って米軍に拘束されている。そういう体験を持つだけに、居ても立っても居られないと県庁前に向かった。

 四月九日にティダの会と新基地建設問題を考える辺野古有志の会で沖縄防衛局に対し、「沖縄戦戦没者の遺骨が混じった土砂の使用計画と辺野古側埋め立ての中止を求める申し入れ」を行った。※1

 その際も、応対した若い防衛局員に島袋さんは戦争体験を語り、故郷である糸満市の土砂が使われることに怒りをぶつけていた。具志堅さんのハンストは、沖縄戦体験者の心を揺さぶり、あとに続く世代にも沖縄戦と基地問題のつながりを考えさせた。

 

 激戦地となった沖縄島南部・島尻の地には、まだ収骨されない戦没者の遺骨が数多く残っている。日本軍に壕やガマ(洞窟)から追い出された沖縄の住民は、米軍の砲撃、爆撃に身をさらした。山野に残る遺骨の多くは、逃げ場を失い、米軍の無差別攻撃を受けて殺戮された住民の変り果てた姿であり、戦闘で倒れた日米の兵士や朝鮮半島から強制連行された人たちの遺骨も混じっている。

 十年以上前になるが、沖縄戦に参加した元日本兵から話を聞いたことがある。末期癌で入院していた病室で、元日本兵のTさんは、自らが住民を壕から追い出した様子を語っていた。

 南部に撤退する際、昼間は米軍の攻撃が激しいので、部隊は夜間に移動した。夜通し歩き続けて空が明るくなり始め、そろそろ米軍の攻撃が始まりそうだという頃、たどり着いた地域で隠れる場所を探したという。当然、そこには先に隠れている住民がいた。

 ある壕では、住民を追い出す自分たちに一人の老女が、「うー、うー」と言いながら頭を下げていたという。Tさんは馬鹿にされていると思い「何が、うー、うーだ。さっさと出ろ」と老女を怒鳴りつけた。後年、沖縄の言葉で「うー」が「はい」の意味だと知り、あの老女は「はい、はい」と言って頭を下げていたのだと分かって、自分の仕打ちを後悔したという。

「自分たちは米軍の攻撃を避けられたが、攻撃が始まる直前に壕を出された住民はどうなったか……」とTさんは申し訳なさそうに語っていた。その話を聞いて、日本軍による住民の壕追い出しが、どの時間帯に行われたかを考えさせられた。

 それまでは、日本兵が住民に銃や日本刀を突きつけ、無理やり追い出す場面しか想像していなかった。しかし、日本兵の撤退、移動が夜間に行われたことを思えば、住民の壕・ガマ追い出しは、早朝が多かったのではないか。米軍の攻撃が始まる直前に追い出された住民は、新たに隠れる場所を探すことができないまま、犠牲を拡大していったのではないか。Tさんの話からそう考えた。

 別の元日本兵・Mさんからは、沖縄戦末期の南部の状況を聞いた。私はサイパン島やテニアン島のバンザイクリフのようなことが沖縄でもあったのではないか、と考えていたのだが、それを裏付けるような話があった。Mさんは摩文仁の海岸で、母親が子どもの頭を何度も岩に叩きつけて海に放り投げ、自分も飛び込むのを見たという。

 Mさんは動員された学生たちの最期も目にしていた。数人の女子学生が胸に爆弾を抱いて米軍の戦車に歩いて行った。米軍はしきりに手を振って、戻れ、戻れと合図していたが、女子学生たちは進み続けた。最後は米軍の銃撃を受け、全員斃れたという。

 また、米軍との銃撃戦の際、銃弾を補給するために中学生たちが、岩に隠れた日本兵の間を走り回っていた。それを狙って米軍は集中射撃する。中学生たちは怖くて壕を飛び出せない。弾を撃ち尽くした日本兵は、馬鹿野郎、何をしている、早く持ってこい、と怒鳴りつける。壕を走り出た中学生たちは次々と撃たれていった。自らも銃を撃ちながらMさんは、ああ、この世の地獄だ、と思ったという。

 Mさんも南部への撤退、移動は夜間行っていた。仲間とはぐれて一人で移動しているとき、殺して、殺して、という女性の声が聞こえた。照明弾がしきりに上がるなか、倒れている女性に近寄ると、腹から内臓が出て助かりそうになかった。苦しいので楽になりたいのかと思い、殺そうか、と訊ねると女性は手を横に伸ばした。指さした草むらに赤ん坊が仰向けに寝ていた。自分はもう死ぬから、この子も一緒に殺してほしい、と言いたいのだと思い、Mさんはゴボウ剣を手にすると赤ん坊の胸に突き刺した。その瞬間、閉じていた赤ん坊の目が大きく見開いた。照明弾の明かりに浮かんだその顔が今でも夢に出てくる、とMさんは話していた。女性のところへ戻り「殺してやったぞ」と言うと、女性はかすかにうなずいたという。

 この話は以前、小説の一場面として描いたことがある。学生たちや母子の遺体は間もなく腐敗して膨張し、ウジ虫に食われて骨と化していっただろう。そのようにして死んでいった人々の遺骨が、七六年前の沖縄では南部だけでなく各地に散乱していた。

 私に戦争体験を話してくれた元日本兵は二人とも、疲れ果てて意識を失っているところを米兵に見つかり、捕虜となって生き延びることができた。Tさんは話を聞いてから一か月ほどが経って亡くなった。Mさんは存命なら百歳を越している。中学生たちの様子を話したあと、「だから沖縄には足を向けて寝られません」と言っていた。

 Tさんには、彼の息子の嫁が付き添いをしていた。一通り話を聞いたあと彼女が、「おじいちゃん、最後に言っておきたいことはある?」と聞いた。Tさんは「あの世に行ったら、置き去りにした仲間にお詫びをしたい」と言って涙を浮かべた。

 国体護持(天皇制維持)のために玉砕(全滅)覚悟で沖縄に送り込まれ、無残に死んでいった兵士たちの遺骨も沖縄の各地にまだ残っている。全国には遺族もいるだろうに、沖縄の土砂使用の問題に関しヤマトゥの人々の関心は低い。Tさんと同じように沖縄で死んだ仲間のことを思う高齢の元日本兵もいるかもしれない。しかし、その声を聞き取ろうという動きは見られない。

 十年前や二十年前、沖縄戦を体験した住民や兵士たちがもっと多くいた時代なら、日本政府・沖縄防衛局は、南部の土砂を辺野古新基地の埋め立てに使う、という計画を出せなかったかもしれない。政界を引退した元保守系議員の中からも、反対の声が上がったのではないか。しかし、沖縄戦体験者が少なくなり、政界から戦争体験者がいなくなることで、ヤマトゥの政治家、官僚には沖縄戦へのこだわりが消滅しているのだろう。

 これから先、沖縄島南部での土砂採取が行われるようになれば、沖縄戦に対する意識の変容をウチナンチューにも引き起こすだろう。南部をはじめとした沖縄各地での土砂採取の拡大は、大浦湾側の埋め立てに向けた土砂の確保や、県知事選挙をにらんだ利権のばらまきに加えて、沖縄戦へのこだわりを風化させ、軍事基地への抵抗を弱らせる狙いもある。この計画を許してはならない。

 


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