小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

平城京はなぜ「ならのみやこ」と称されるのか ?

2007年10月16日 | 歴史

 奈良時代の大宰権帥・小野老(おゆ)の有名な歌「 あおによし 寧楽(なら)の都は 咲く花の 匂うが如く いま盛りなり 」。平城京は「ならのみやこ」と称されてきた。万葉仮名では「寧楽」とか「奈良」と表記される。なぜ「なら」なのか、これまで色々な説がだされてきた。土地をナラして造営したから「ナラ」だとか、朝鮮語の「ナラ(国)」が語源だとか。私は「ナラ」の語源は前漢・武帝が朝鮮半島に設置した楽浪郡(現在の平壌)にあると思っている。「楽浪」は朝鮮漢字音で「 nak - rang (ナラ)」と読める。このことをすでに指摘している人はいる( 駒井和愛『楽浪』中公新書 )。朝鮮漢字音では語頭の R音は脱落もしくは N音に変化する。ちなみに、韓国では姓の「李」は「イ」と発音するが、スポーツ選手などは対外的に「Li(リ)」を使っている。北朝鮮ではすべて「リ」に統一している。
 

 漢帝国の出先機関・楽浪郡は倭人をはじめ東夷諸民族の憧れの地でもあった。この間の事情を『前漢書』地理誌は「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」と記録している。ところが、世紀313年、北方の高句麗が南下して楽浪郡を併合し、427年にこの地を「平壌」と命名して首都にした。ここで旧名称「 楽浪(ナラ)」と新名称「平壌」の関係ができた。丁度、「江戸」と「東京」の関係と同じように。
 漢字「壌」は土や土地のほかに国や国土の意味もあり、「城」にも国の意味もあるので「壌」と「城」は音義ともに一致する。つまり、次のような関係が成り立つ。
          

                   高句麗    ・・ 平壌  ー 楽浪(ナラ)
       日本     ・・ 平城  ー 奈良(なら)

 ー楽浪府は土塁の城市ー
 高句麗が「城」ではなくなぜ「壌」の文字を使ったのか、その理由は簡単明瞭である。楽浪府は土塁で囲まれた城市であった。戦前の調査でも土塁の一部が確認されている。 日本の7世紀は、朝鮮半島の高句麗、百済が滅んで多くの半島人が日本に亡命してきた時代でもあった。故国を失った彼らは日本の地に自分たちの理想の国家像を重ね合わせ、日本の古代律令国家建設に貢献した。聖徳太子が建立した日本最古の寺・法興寺(現在の飛鳥寺)は高句麗の清岩里廃寺と同じ様式であったことが分かっている。『日本書紀』にも高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を設置したとの記事もある。現在、埼玉県日高市に高(句)麗一族を祀る高麗神社がある。足利尊氏の家臣、高師直もその末裔であろう。高句麗の王姓「高」を名乗っている。
 これらの事実を背景にして710年平城京の成立とともに「ナラのみやこ」と呼ばれるようになったと思われる。この時にはまだ亡命半島系の人たちの影響が残っていたのであろう。しかし、時代が経るにつれて半島の記憶はうすれ、いつしかなぜ平城京が別名「ならのみやこ」と呼ばれるのか誰も分からなくなってしまったのであろう。

 最後に朝鮮語の「ナラ(国)」との関係であるが、高句麗語、満州語、日本語では土地のことを「ナ」と言う。日本語では「名主(なぬし)」として江戸時代まで使われてきた。また、出雲神話の主人公「大国主命」は、古事記には別名「大己貴神」ともあり「オホナムチ」と読ませている。「ムチ」は尊称なので「己」(ナ)は「国」の意味でもある。だが、 朝鮮語の「ナラ」が高句麗時代に存在していたかどうかは資料がなく分からない。韓国・朝鮮の人が書いた本などに古代朝鮮語ではこうだなどの記述が散見されるが、古代朝鮮語の文献資料はほとんど残っておらず、せいぜい、李氏朝鮮時代(16世紀頃)までしか遡れない。この「ナラ(国)」もしかり。私は漢字「楽浪」を高句麗風に「ナラ」と読んだことから「国」の意味が生じたと思っている。なぜなら、漢の楽浪府こそ朝鮮半島で最初の本格的な都城、つまり、国都であったから。それが、なんと800年後の海東の日本にまで伝わり、平城京は「なら(楽浪)」と呼ばれた。
 
 <追記>

 万葉集の柿本人麻呂の有名な歌  「楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」
 

 この志賀にかかる枕詞「さざなみの」になぜ「楽浪」の文字を当てるのか、これまで明確な説明をした人はいない。誰も分からなかったのである。この枕詞「楽浪の」は別の歌で「楽浪(さざなみ)の 国つ御神・・・」ともあり、国にかかる枕詞でもある。私のこれまでの論証、「楽浪」=「ナラ(国)」であると7世紀の万葉人たちが認識していたと考えれば、「楽浪の志賀(近江京)」という表記が生まれた理由がわけなく理解できる。平城京=奈良の都の生まれた所以(ゆえん)である。
 また、近年発見された奈良県明日香のキトラ古墳(7世紀頃)の天井の星宿図がなんと紀元前一世紀頃の平壌(当時は前漢の楽浪府)の夜空の観測図であったとのこと、飛鳥時代の日本人の「楽浪」に対する思い入れの深さを如実に物語っていると言える。  


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