小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

稲荷山鉄剣銘文の読み ー通説に疑問ー

2009年10月14日 | 歴史

 ー稲荷山鉄剣銘文ー
(表) 
 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比

(裏)
 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也

 上記銘文の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」の読みであるが、通説では「ワカタケル大王の寺が斯鬼宮に在る時」と読まれている。ここで問題となるのが「寺」である。「漢和辞典」によると「寺」は役所の意味があるので、この「寺」はそういう意味で使われたと言うのが定説となっている。はたしてそうであろうか。これは漢文としても不自然である。
 第一、漢語「寺」に役所の意味があるとしても、「記紀」「風土記」「万葉集」などに「寺」を役所の意味で使っている例があるのだろうか。あれば教えて欲しい・・・
 
 この「寺」こそ、倭王が対外的に漢字一文字で表してきたそれではないのか。五世紀、倭の五王は「讃」とか「興」とか「武」のように中国の王朝に朝貢したことが「宋書倭国伝」に記されている。この「寺」もそれであり、「獲加多支鹵大王寺」は「宋書倭国伝」風に書けば「倭王寺」となる。では「倭王寺」とは誰のことであろうか。

「辛亥年」は471年、雄略天皇(ワカタケル)の時代とされている。しかしこれは単なる推定に過ぎない。還暦60年後の531年もその候補となる。この時代の天皇はだれか。それはまさしく「寺」にもっとも相応しい人、欽明天皇となる。
 日本史教科書にもあるように、欽明天皇13年百済の聖明王が金銅仏と経典を倭国に送ったことが『日本書紀』に書かれている(仏教公伝・・538年)。この記事は百済の王が倭国王に公式に仏像などを献じたことを記録しただけで、仏教自体はそれ以前に多くの倭人が政治・軍事などの用件で半島に渡っている。また同様に、古代朝鮮三国からも多くの人が来朝しており、すでに倭国にもたらされていたであろう。仏教に帰依した欽明天皇は、自身の漢字一字表記を「寺」にしたことが十分考えられるからである。
 
 また、『古事記』には、「坐師木嶋大宮治天下」とあり、欽明天皇の宮殿は「師木嶋大宮(しきしまのおおみや)」、つまり銘文の「斯鬼宮(しきのみや)」と一致する。
 このことは、私がすでに論証した「隅田八幡神社の人物画像鏡の読み」とも関連してくる。 それには、「癸未年八月日十大王年」とあり、「日」は特定できないが、八月のある日、つまり「八月中」と同じ意味であり、後世の「寛政三年八月 吉日」の原形ではないのか、との私の説。漢字一文字で表した「十大王」を「宋書倭国伝」風に表記すれば「倭王十」となる。
 稲荷山鉄剣銘文は「ワカタケル大王、寺が斯鬼の宮に在る時」と読むべきであろう。「ワカタケル」は「若き勇者」という意味の通称にすぎない。(「記紀」には天皇の本名などほとんど書かれていない)

 <追記>
「獲加多支鹵大王」雄略説の根拠はこれが「ワカタケル」と読め、雄略天皇の和名(大長谷若建命)に一致することから来ている。しかし、雄略天皇は『古事記』によると「長谷朝倉宮」に居たとあり、ここが大和・磯城(しき)郡にあることから、「斯鬼宮」でよいとする。まさに牽強付会のご都合主義である。
 そもそも、「記紀」の記事というものは、実際の歴史の半分も書かれていないであろう。私は津田左右吉流に「記紀」は8世紀の朝廷の史官の創作とは思っていない。やはり、歴史の核となる事実があり、それが文字記録のない時代、神話化されたり、物語風に潤色され語り継がれてきたものだと思っている。(安本美典氏も常にこの点を主張している)。
 
 今、この小論を読まれている諸兄に聞きたい。現在の天皇の本名を知っていますか。まして、明治天皇や大正天皇の場合はどうですか。だれも即答出来ないでしょう。しかし、大量の記録文化を持つ現代では調べればすぐ判ることです。ちなみに明治天皇は「睦仁」(むつひと)。
 
 日本で文字文化が始まった時代とされている推古天皇(6~7世紀初頭)でさえ和名は「豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」とのみ記され、なにか食物の神様みたいな名前である。とても本名とは思えない。その父親の欽明天皇でも「天国排開広庭天皇」と記され、この中で「広庭(ひろにわ)」が本名のようでもあるが、なんとも言えない。史料的に実在が確実な中大兄皇子(天智天皇)でさえ、本名は分からない。「大兄」とは長兄、年長者の意味の尊称であり、つまり、通称のみである。天智天皇の和風諡号は「天命開別尊」であり、「開別」(ひらきわけ)が名前とは思えない。百済の武寧王の名前が「斯麻(シマ)」であったことが墓誌から証明されているが、これは奇跡的なことである。
 
 文字記録されなかった時代は、我々が明治天皇とか大正天皇のように通称で記憶しているように、様々な要素が組み合わされて生まれた通称名が記憶・伝承されてきたと見るべきであろう。「ワカタケル」は「若き勇者」、「ヤマトタケル」は「大和の勇者」、仁徳天皇の「オホサザキ」は「大きな鳥」(現在、堺市の仁徳陵の横に大鳥神社があるのは象徴的)。欽明天皇が当時、通称、ワカタケル大王と呼ばれ、漢字一字で「寺」と自称していたことは十分あり得ることである。ちなみに、ほぼ同時代の百済・武寧王は「余隆」を名乗って中国に朝貢している。「余」は百済の王姓なので「隆」を漢字名としていたのである。ほかにも、「余映」「余固」「余歴」などの名で中国・南朝に朝貢している。

 ー新証拠の発見ー
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の頭領・早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある。日付の数字は入っておらず、一文字空けてある。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので空けてあるのであろう。(実際は「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる)
 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「八月 日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないが、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。稲荷山鉄剣銘文の「辛亥年七月中記」も「辛亥年七月日記」とも表記できたのではないかと思う・・。






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