國分功一郎著「はじめてのスピノザ」読む。
その筋の人しか読まないと思われる。
以下内容を紹介する。
スピノザと言えば、自然すなわち神。
自然には本来、善いも悪いもない。
人間にとって好都合な組み合わせなのが、人の言う善。
不都合な組み合わせなのが、人の言う悪。
個々の自然は、それぞれが造りとしては完全である。
では誰かのせいで人がひどい目に遭ったりするという意味での
悪をどうとらえるか。
個別者の個性をコナトゥス(自存力)という。
自分を維持成長させる力がコナトゥスである。
コナトゥスを増大させるものが「喜び」となり、
阻害するものが「悲しみ」を引き起こす。
コナトゥスを増大させることは当然の権利であり、
阻害するものに抵抗するのも当然である。
自由とは人が何かをする際の能動性であり、人に強いられるのは自由ではない。
人はできる限り自由に生きるべきだが、自由とは「自由意志」ではない。
人間には自由意志はない。何かを決めるとき目に見えない力=必然が働いている。
デカルトの「神の証明には精錬が要る」という主張は、真理は実践でわかるというスピノザと近い。
この二つには、今ある近代とは違った可能性を感じさせる。以上がこの本の要旨である。気づきがあった。
ちなみに、著者はいつものように、古代ギリシャには「意志」という言葉はなかったというが、そんな基本語がないはずがない。牽強付会だと思う。(ちなみに、意志はβουλησιςである。)
その筋の人しか読まないと思われる。
以下内容を紹介する。
スピノザと言えば、自然すなわち神。
自然には本来、善いも悪いもない。
人間にとって好都合な組み合わせなのが、人の言う善。
不都合な組み合わせなのが、人の言う悪。
個々の自然は、それぞれが造りとしては完全である。
では誰かのせいで人がひどい目に遭ったりするという意味での
悪をどうとらえるか。
個別者の個性をコナトゥス(自存力)という。
自分を維持成長させる力がコナトゥスである。
コナトゥスを増大させるものが「喜び」となり、
阻害するものが「悲しみ」を引き起こす。
コナトゥスを増大させることは当然の権利であり、
阻害するものに抵抗するのも当然である。
自由とは人が何かをする際の能動性であり、人に強いられるのは自由ではない。
人はできる限り自由に生きるべきだが、自由とは「自由意志」ではない。
人間には自由意志はない。何かを決めるとき目に見えない力=必然が働いている。
デカルトの「神の証明には精錬が要る」という主張は、真理は実践でわかるというスピノザと近い。
この二つには、今ある近代とは違った可能性を感じさせる。以上がこの本の要旨である。気づきがあった。
ちなみに、著者はいつものように、古代ギリシャには「意志」という言葉はなかったというが、そんな基本語がないはずがない。牽強付会だと思う。(ちなみに、意志はβουλησιςである。)