ヘッセの読書術でヘルマン・ヘッセは音楽や絵に比べて、独自の言語を持たない詩の難しさを嘆く。
音楽は音の変化であらゆる国の人に訴える力を持ち、絵画は絵筆の加減で万人にわかる光景を描く。
けれども詩は世俗の言語と同じ道具を用いて心の機微を伝えようとし、ことばは多すぎる意味の違いで
誤解を招き、なかなか意とすることが伝わらない。けれどもこのヘッセの嘆きは反語的である。
無意識から湧き出る言葉を意識の番人の検閲を逃れて書き止めることで詩人は宝の扉を開けるからである。
今日は有田潤の文法書を読み、古い宗教の英語の本を読み、錬金術の象徴について読み、最後にヘッセにたどり着いた。
ヴィルヘルム・ケンプの月光ソナタやテンペストを聞き、素朴で無骨なドイツ精神に触れる。ケンプのベートーヴェンのピアノソナタ全集はモノラル録音とステレオ録音の二種があり、最近日本でのライヴ全集が発掘されたけれども、私が聞いているのは旧録のモノラル録音の全集。
モノラル録音の全集はドイツグラモフォンの正規盤と、レジス社の廉価版全集があるが、私のは正規盤。
薄黄色の箱にケンプの白黒の横顔の写真が載っていて、鍵盤が印刷されている。デザインがいい。
ベートーヴェンのソナタ集では他にバックハウスの新録、クラウディオ・アラウの全集、シュナーベルの
廉価盤など特筆すべきものはいくつかある。
私が最初に聞いたのはシュナーベルのEМI盤で、これは正規録音だがリマスタリングされていない。後にドキュメントレーベルで出たシュナーベルの全集は聞きやすかった。
いずれにせよシュナーベルの後期ピアノソナタでベートーヴェンに触れた私である。
コンサートではヴァレリー・アファナシエフの30番台ライヴをサントリーホールで聞いたことがある。
アファナシエフは独自のテンポでゆっくりと暗く弾く奇才でブラームス作品集などが名品。
アファナシエフが未完成とブルックナーの9番を指揮したのも見た。
ギュンター・ヴァントの来日ライヴと同じ曲目である。
新聞で後日アファナシエフはピアノに要求されるほどの身体技法を指揮には要求されないと思っているらしいと書いてあった。ピアノはうまいが指揮は素人だという意味らしい。
どちらの演奏会も私には刺激的であった。幽玄な30番台のソナタの響きが印象深い。
いろいろな思い出が交錯する読書と音楽鑑賞である。
伝わらぬ思いをそっと鍵盤に託して鳴らすピアノソナタを