雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2021年1月18日(月) 歌手・横井久美子さん亡くなる

2021年01月18日 10時14分56秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月18日(月) 歌手・横井久美子さん亡くなる


 ボクの大好きな歌手・横井久美子さんが亡くなった。昨日の「しんぶん赤旗」の(13)面に有名人の死亡記事として出ていた。76才で腎盂と書いてあった。


 ブログがあるそうなので見てみよう。最近は声に衰えが出てきた感じだったけど、病気のせい?


 夫は経済学者で資本論の解説者の友寄英隆さん。こういう夫婦っていいですね、尊敬します。


 今日から国会。政府のコロナ混迷はまだ続いている。そういうなかでの政府のデジタル都市攻勢をどう見るかですね。 


 


雨宮日記 2021年1月17日(日)の2 久しぶりのビデオ撮影

2021年01月17日 20時38分20秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月17日(日)の2 久しぶりのビデオ撮影


 お昼から則子さんとクリエート浜松へ行く。「スーパーシティってなあに?」講演会と発足総会をビデオ撮影する。


 まあまま、なんとかなった。ひとりで2台のビデオカメラを操作するのは大変。


 疲れたので、内容的感想はまた別の機会に。


 では、おやすみなさい。



雨宮日記 2021年1月17日(日)の1 パソコンやりすぎ?肩が痛い

2021年01月17日 10時29分40秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月17日(日)の1 パソコンやりすぎ?肩が痛い


 たぶんパソコン環境を快適にしすぎたので、つい打ち込み時間が以前より長くなって、どうも肩が痛い。


 パソコン打ち込み時間をセーブしないといけない。


 今日は久々に則子さんと外出し撮影予定なので、ウキウキし同時に緊張している。昨日からその準備。前だったら直前にしか準備はしなかったけど。今は片手で時間がかかる。


 天気は曇り。雨は降らないだろう。まあ屋内撮影だからいいけど。



雨宮日記 2021年1月16日(土) コロナ危機と日本の政治危機が重なる

2021年01月16日 15時51分19秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月16日(土) コロナ危機と日本の政治危機が重なる


 菅内閣の支持率がかなり下がって、不支持率と同じくらいになってきた。


 菅首相は官房長官としては優秀であっても、1国のリーダーとしてはどうなのかということが、自民党内でも話題になっているようだ。


 数日前は「福岡県」をわが「静岡県」と読み間違えて訂正もしなかった。かなりやばい精神状態かもしれない。


 コロナ危機は「不要不急の外出をやめる」「自助共助」だけでは抜けられない。日本政治の根本的治療が必要だろう。


 


人間宇宙生命社会 1 「「ジェンダーと平和運動」講義レジュメ 20210114 雨宮智彦」 20210115

2021年01月15日 06時13分26秒 | 人間宇宙生命社会
人間宇宙生命社会 1 「「ジェンダーと平和運動」講義レジュメ 20210114 雨宮智彦」 20210115
 


 いままで、いくつかに分散していた内容をすべて「人間宇宙生命社会」にひとまとめにして書いていくつもりです。


 掲載した過去のものも「過去記録」として再掲載をしていきます。


 第1回は、1月14日に浜松市平和委員会でおこなった学習会の講演レジュメです。実際にはレジュメの「1、2、3B」だけを話しています。


 たぶん原稿化するつもりです。




「ジェンダーと平和運動 レジュメ 20210114 雨宮智彦 


1 はじめに ー 平和運動と女性史サークルと私
 ◎① 女性史サークルでの学習、② 平和運動での公的経験、③ 私的体験などを経て
 ◎「人間社会をどう見るか その現在」「人間社会をどこからどうするか その未来」


2 社会的ジェンダーと生物的セックス
 ◎ジェンダーとは 「社会的歴史的性」「社会的に形成された性」 フランス語「ジャンル」
  誰か意図的に「作った」たのではなく、「形成された」「作られた」
  だから社会・歴史によって、男性ジェンダー・女性ジェンダーは驚くほど変わる
 ◎社会的性(ジェンダー)と生物的性(セックス)の違い
 ◎4つの指標 ①身体的性 ②性自認 ③性的指向 ④性表現


 ◎男性ジェンダー・女性ジェンダー ジェンダーは男性にも深く浸透している
  「あたりまえ」あるいは「男らしく」「女らしく」
  ジェンダー・バイアス(性的偏向・偏見)が不平等・差別・暴力・戦争の温床・苗床になってきた
  「呪縛(じゅばく)」「呪い」と「祝福」 内田樹(たつる)さん『呪いの時代』角川文庫
 ◎「虹(にじ)rainbow」の世界観 虹は7色なのだろうか 男性と女性のあいだの連続


 ◎性的マイノリティは犯罪処罰の対象、病気治療の対象、揶揄や軽蔑の対象とされてきた
  主体として扱われてこなかった性的マイノリティの一部も自ら声をあげはじめたのが今


3A ジェンダーはどう解放されてきたか 世界と日本戦後女性史のおおまかな流れ 
 ◎戦後女性の出発点 男女同権・参政権・議員になる権利
 ◎1970年代から1980年代 女性解放運動・フェミニズム・マイノリティなどの努力


 ◎国連安保理事会決議1325号「女性・平等・安全保障」(2000年) 
◎SDGsと国連の新時代 政府と民間NGOが協力しあう時代 日本原水協や新婦人
 ◎性的少数派(マイノリティ)(LGBTq)が声をあげはじめる


 ◎ハラスメントへの抵抗解放の運動 セクハラ・アカハラ・DV・・・・・・
 ◎1990年代以後 革新政治の性的少数派見直しの動き ◇1970年代の議論から


3B、2021年 日本の現状と「日本会議」などとの対抗右翼
 ◎「日本会議」のバックラッシュ
  ジェンダー・フリーへの「右翼派」の抑圧 → 彼らの危機感・恐怖感
  安部/菅政権・右翼的潮流は国民と矛盾、古い「家父長」「家制度」を右翼的潮流は固執
 ◎国会での論戦、性教育、夫婦別姓問題、ハラスメント、いじめ


4、「人間社会はどう変わってきたか その過去」 男女とオスメス
 ◎オスメスは地球生命の進化途中で現れた 
 ◎ミミズやカタツムリは雌雄両性体
  魚類は簡単にオスメス転換する ディズニーアニメ「ニモ」のクマノミ
  ウミガメは一定の温度以上以下でオスメスが分かれる
 ◎人類の祖先、サルや霊長類でもオスメス間の「夫婦」関係は一様ではなく多様です


5、歴史はどうやって発展するか 私たちの前に見える道
 ◎歌舞伎「風の谷のナウシカ」をテレビ録画で見て 2つぐらいの感想
  コロナウイルス危機、「トランプ現象」の「陰謀説」
 ◎平等に支配・管理・搾取・収奪されることから、さらに解放へ
 ◎暴力の段階的廃絶へ まず核兵器の廃止 → 軍隊の廃止 → 武器・兵器の廃止
→ 肉体的・精神的暴力が必要なくなり消滅する
< 主な文献資料 >
 川田忠明『市民とジェンダーの核軍縮』新日本出版社、2020年
 太田啓子『これからの男の子たちへ』大月書店、2020年
 杉山貴士『聞きたい知りたい性的マイノリティ』日本機関紙出版センター、2008年
 日本平和委員会、月刊雑誌『平和運動 20/3 特集 ジェンダーと平和』
 学習の友社、月刊雑誌『学習の友』
 日本共産党中央委員会、『日本共産党第28回大会特集 全記録』2020年」





遠州古代史 過去記録 4 「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210114

2021年01月14日 13時05分54秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 4  「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族」 20210114


「古代ブログ 6 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 1 東区安間町と海人族


 10月2日に「新・本と映像の森 91」で紹介した「(鄕土5) 浜松市東区役所『東方見聞録 東区の文化誌』2011年、A5版、321ページ、ダイジェスト版と併せて定価1000円。今まだ販売しているかは不明で、東区に問い合わせてください。まちづくり推進課 053-424-0164。」に以下の叙述がある。


 108p「第31話 安間を開拓した安間了願とその子孫」に、次のように出ている。


 「安間鄕は、江戸初期以前に、安間・安間新田・薬師・薬師新田・北島の五か村に分離した。安間氏の祖先は海人(あま)族と見られる。海人が阿間に変わり、安間になったと言われる。」


 安間了願は、14世紀の南北朝期に生きた武人で、『太平記』巻二五に名前も出ている。


 以下の続く、六所神社については「古代ブログ」「浜松の遺跡・古墳・地名・寺社」の別項目とする。


 見ての通り、可能性はある叙述だが、その典拠がないので正しいとも、なんとも言えない。他日を期すことにする。


 海人族の移住というのは、魅力あるテーマなのだが、慎重を期す。


 ちなみに安間川は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」にも出てくる浜松の川で、東区豊町付近から11.5kmを南流し天竜川に注ぐ。最近、しばしばニュースで氾濫が話題になる川である。


 海人族というのは、いろいろ説があります。ボクは、天皇家の「天(あま)」つまり、「天族」も元々は「海人族」説ですが、同じ説の方も何人か、いるようです。


 これは、もっと後に詳述。」











青い銀河とオレンジの花 断片 14 2021-1 倒れてから5年 1 感動すると困る

2021年01月13日 16時22分05秒 | 青い銀河とオレンジの花


青い銀河とオレンジの花 断片 14 2021-1 倒れてから5年 1 感動すると困る
 
 脳出血で倒れたのは2016年の5月。もちろん生活も一変してしまったが、いろいろ変わってしまった。


 右半身麻痺の影響もありそうなのだが、前にはなかっったと思うが、テレビを見ていたり本を読んだりしていて、やたらと感激してノドがヒクヒク痙攣しるのだ。


 そばに則子さんがいると「何を笑ってるの?」と聞くのだが、笑っているわけではない。本人は感情過多で困っているのだ。


 若いときは、自分は冷血で泣けない、感情を外に出せない人間だとおもっていた。中年になってからそうじゃないことがわかった。


 今はすぐ涙がでてしまうので困っている。



遠州古代史 過去記録 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城 20210113

2021年01月13日 13時12分53秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城  20210113


 
「雨宮智彦の古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 
2017年09月03日 06時30分21秒 | 遠州古代史


 今年、NHKテレビで「井伊直虎」をとりあげたため、徳川家康の浜松侵攻時のことに注目があつまっている。


 家康が浜松(引馬城)には降伏を認めて、井伊家や気賀には武力を使ったのは、何か理由があるのかも知れない。家康にしては珍しく残虐な堀川城の虐殺はなぜか。もっと勉強しないと。


 さらに家康の正妻、瀬名姫(築山御前)は浜松の「東西線」である西来院に墓があるのは、なぜか。


 以下2つは、前に書いたことである。再録する。


    ☆


「雨宮日記 6月12日(木)の5 博物館の入り口に立っている「家康の道」の案内板
2014年06月12日 15時34分58秒 | 雨宮日誌


 この「家康の道:の案内板なのですが、位置関係が正確にかかれていないので、この案内板では、まるで蜆塚遺跡と宗源院と浜松城が東西線状にあって、西来院や普済寺はその線より少し南にあるように見えてしまいます。




 しかし、実際には、蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城(現在の東照宮)は東西の一直線上にあります。地図でみなさん、確かめてください。


 さらに明らかに、その線上に、蜆塚遺跡の東にある山神社が入り、山神社は東を向いていますから、山神社に祭られた神様は、山神社から3つのお寺と曳馬城を見守っていることになります。


 明らかな太陽信仰の名残だと、ぼくは思うのですが、「家康の道」に関連しては、まだ誰もぼく以外には気付いていないようです。


 浜松城は、この線から南へずれて建設されていることからして、明らかにこの「家康以前の道」を家康は、無視して、あるいは地元の信仰をねじ伏せて現地点に築いたことになります。


 それに対する地元の抵抗が実際はなかったかもしれない家康が曳馬城を攻め落とした時に闘ったとされる飯尾氏の妻「椿姫」たち、女性達の戦闘伝説として地元に残ったのではないでしょうか。


 太陽信仰ですから、女性が「巫女」として関連することは確かでしょう。


 なお、この線に気付いて則子さんに最初話した頃に、このブログで書いておきました。


     ☆


「遠州の遺跡・寺社・地名(近世編) 119 蜆塚ー3つの寺ー曳馬城の東西線
2013年11月01日 22時23分59秒 | 遠州古代史


 神社の研究はしていますが、お寺の研究は、あまりしていません。神社のことを考えるために、浜松市の中心部を見ていて発見しました。


 浜松の縄文時代を代表する遺跡である蜆塚遺跡は、古墳もあり、真横に東向きの「山神社」があることからも、縄文時代以後も、影響力をもった遺跡であると思います。


 その蜆塚遺跡=山神社から春分・秋分の日の出の方向、真東に東西線を引いていくと、西から「宗源院」「西来院」「普済寺」と3つのお寺を通っています。


 地図を見てもらえばわかりますが、3つのお寺とも「かろうじて、かすめて」いるのではなくて、3つのお寺の北端・南端は3つともほとんど同じです。


 そして、さらにまっすぐ東へ伸ばして、「中世~近世」という時代限定で考えると、当時の「曳馬城」、つまり徳川家康が侵略してくる以前の「飯尾氏」の時代のお城を通ります。


 つまり、同時代の「過去の遺跡ーお寺ーお城」が同緯度になっています。このことは偶然ではなくて、意味があることだと思います。


 家康は、浜松を占領してから、新たに、この緯度よりかなり南へ「浜松城」を築きます。このことも、過去の伝統と決別する意味で、重要なことだと思います。


 これって、これまでに誰か気がついた人がいるという事実がありましたら、ぜひ、私までご一報ください。」



雨宮日記 2021年1月12日(火) 必死でレジュメと講義原稿をつくる

2021年01月13日 08時13分36秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月12日(火) 必死でレジュメと講義原稿をつくる


 またこういう羽目になるとは思わなかった。「ジェンダーと平和運動」という題で学習会をすることになって、その配布レジュメ(A4で1ページ)と原稿をつくっている。


 いつも配布レジュメは何回も作り直す。今回も。


 何年ぶりだろう。6年ぶりかな。でも今回はとくにやってよかった。情勢が激変、書いてういて新発見がいろいろあっておもしろい。


 原稿をずっと書いてはいられないので、歌舞伎「風の谷のナウシカ」前編をテレビ録画で見る。アニメ版でなくマンガ版の歌舞伎化ということがすごく優れている。ちょっと稚拙なところもあるが。



遠州古代史 過去記録 2 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210112

2021年01月12日 09時54分44秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 2  『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか 20210112


「遠州の遺跡・寺社・地名 『延喜式』「神名帳」の「朝日波多加神社」はどこか


 『延喜式』「神名帳」には、遠江国「長上郡」で5つの神社が掲載されています。「大歳神社・邑瀬神社・服織神社・朝日波多加神社・子倉神社」ですが、ここでは「朝日波多加神社」がどこか、考えます。
 候補になるのは、これまで掲載してきた「内野神明宮」と「半田町・六所神社」の2つの神社です。


 『浜北市史 通史 上巻』は「第3章 天宝堤と岩水寺、第2節 式内社於呂神社と岩水寺創建の頃、1 於呂神社と式内社」の中でこう考察しています。公平を期すために、省略無しで引用します。


 「朝日波多加(あさひはたかの)神社 『遠江風土記伝』ほか諸本とも内野神明宮にあてている、異説に『式社考』の半田邑説、『神社…録』の飯田村説があるが、両説とも、「波多」を渡来人秦(はた)氏の居住地と見て、半(は)田・飯(はん)田の語音からの類推と考えられる。
 しかし、既述のとおり渡来人の特殊な墳墓と考えられる積石塚古墳の所在、内野古墳群の集中からも『倭名抄』幡多(はた)郷の中心は内野辺にあったことは確実であり、式内社・朝日波多加神社も内野にあったと考えてよいだろう。
 同社が神明社になったのは、平安末期伊勢神宮を本家とする荘園美園御厨の形成以降のことであろう。また、県史は美園御厨に隣接して宇治乃御厨を内野神明宮にあてている。
 内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」(p488~489)【注:( )内は『浜北市史』のルビ】
 
 まず第1点は、神社名の「朝日」ですが、『浜北市史』は、この「朝日」についてまったく触れていません。当然、これは太陽信仰の「朝日」であって、この神社の信仰と深く係わっていると思います。通常、神社名は、地名か神名かであって、信仰内容を神社名に掲げていることの意味を深く考えるべきです。


 朝日信仰である以上、この「朝日波多加神社」は、日の出の東を向いていると考えるのが常識的です。では、そういう神社は、この「ハタ地域」にあるでしょうか。あります。それが半田町の六所神社であり、まさに小高い丘の上にあって、東に面しています。この神社の鳥居から神社に朝日が直接差し込むのです。


 それに対して、内野神名宮はどうでしょうか。内野神名宮は神社が南向き、参拝者は北向きで、朝日の出る方向とはまったく関係がありません。
 
 第2点。『浜北市史』が「内野神明宮の祭礼には、現在も「朝日波多加神社」の大きな幡が立てられる。内野の人たちの心に千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである。」と述べている内容はどうでしょうか。


 六所神社の鳥居には「朝日宮」という看板が掲げられていて「千年の時を経て、式内社「朝日波多加神社」の伝承が息づいているのである」と言えます。


 第3点は、この六所神社の裏山が、いま浜松医大のある「半田山」であるという点です。、まさに「ハタ地域」の真ん中にある神社です。
 内野はハタ地域の中心という推定にたよった地名論議より、確実な「ハタ地域」そのものという点でも、この六所神社の方が候補としてはベターです。


 第4点は、秦氏は渡来人の系統でいうと、主にカラ・新羅の系統であって、浜北内野の積み石塚古墳は高句麗の系統で、系統が違うという点です。


 本国の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済・加羅の4国が長期に軍事対立して戦争をしているのであって、「渡来人」という概念だけでおおざっぱに考えてはいけないのではないでしょうか。


 この地方でも「有玉伝説」で有名な坂上氏は、百済系統であって、秦氏とは系統が違います。


 「内野古墳群の集中」は誰が作ったのかは不明ですが、秦氏のものと断定するには資料が足りないと思います。


 以上4つの論点により、現在のところは「朝日波多加神社」は、半田町の「六所神社」であるとしてほぼ間違いないものと考えます。


 (2013年11月14日 「ボクの太陽」の誕生日に捧げる)」



遠州古代史 過去記録 1 西区雄踏町の息(おき)神社 20210111

2021年01月11日 10時03分40秒 | 遠州古代史
遠州古代史 過去記録 1 西区雄踏町の息(おき)神社 20210111


 雨宮ブログを検索すればわかることですが、遠州古代史の過去記録が膨大になるため自分で書いた原稿をみごとに忘れている場合もあります。自分の再認識のためにも「過去記録」の再掲載をしていきます。


 過去に1枚しか使えなかった写真も掲載していきたいと思います。


 新しい叙述は、もっと記録を勉強してからでないと、できません。


 あるいはこれまで掲載しなかったものもボクのファイルのなかには、あるかもしれません。




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社の2


 この息神社には、南北朝時代の2つの獅子頭(ししがしら)と、室町時代の7つの古面が伝わっています。獅子頭というのは獅子舞の踊りに使う木製の獅子の頭です。古面は、もちろん仮面劇で使われる、顔にかぶるお面のことですから、推測では、冬至の「能舞台」で使ったもの、あるいは能で使われることを想定して作られたか、奉納されたものということでしょうか。


 獅子頭には「永和元年乙卯十月吉日」「応安七甲寅七月一日」とあるので、永和元年は南北朝時代の北朝の年号で、西暦1375年のこと、応安七年は1374年ですから、近接する1年3ヶ月くらいの間隔で2つの獅子頭は作られたか、奉納されたことになります。


 この年代が「製作年月日」なのか「奉納予定年月日」なのかは、不明です。





 今日、書きたいのは、能面の方です。7つの能面のうちの1つの「女面」には、なんと「いらこ里う志ん参」という文字が記されているのです。


 「いらこ里」とあるのは、この雄踏から船でそう遠い距離ではない、渥美半島の先端「伊良湖岬」の「いらこ」でしょう。だとすると、問題は「里」です。


 8世紀初頭から、それ以前の「国ー評ー里」制から「国ー郡ー里」制へ替わり、さらに「国ー郡ー郷ー里」制に変わったのが、霊亀元年(西暦715年)です。そして郷の下の単位としての「里」が廃止されたのは天平十二年(740年)ごろですから、「里」の呼称は、正式にいえば、西暦740年以前ということになります。


 「8世紀半ば以前の古面」??


 観阿弥や世阿弥による「能」自体が室町時代なのに、「8世紀の能面」というのは形容矛盾ですね。でも、室町以前でも、日本列島には踊りもあり、仮面劇もあり、たぶん「面」もあったろうと思います。


 「面」は、すべて室町時代以後の「能面」ということは言えないと思います。


 この面も含め、7つの面の「木材の科学的検査など」、現代科学による分析をおこなっていただきたいと思います。少なくとも、この「古面」の木材年代を推測することは可能ではないでしょうか。





 現時点で、可能な推測を言うなら、ここ雄踏の地の水軍ともつながりを持つ、渥美半島先端の「伊良湖岬」付近の「いらこ里」の女性、もしかしたら「う志ん(うしん)」という名前の女性が「女面」を作らせ、この息神社に奉納したのでは、ないでしょうか。


 「う志ん参」は「う志ん参(うしん参る)」つまり、「う志ん」が息神社にお「参」りした)と解釈していいのでは?この「伊良湖里」の「う志ん」は、いったい何世紀の女性なのでしょうか?何才くらいの?どんな女性だったでしょうか?」




「遠州の遺跡・寺社・地名 西区雄踏町の息(おき)神社


 バス停「宇布見浅羽」からへ → 信号 → バス停「図書館」 → 信号を南へ → 1本目の狭い道路を左(東)へ入ると、息神社です。もう少し東には、室町時代からの豪族の旧家「中村家」があります。


 「延喜式神名帳」に載っている古い神社です。南向き。


 どうして「息神社」が「おき神社」なのでしょうか?「さっぱり、わからない」と思っていたのですが、現地に行って、少し分かりました。


 神社に立っていた説明版には、祭神が「志那都比古神、志那都比メ神、宇迦之御魂神、猿田彦神、大宮比メ神」の6神とありました。「主神夫妻」の志那都比古神、志那都比メ神」ですが、『古事記』の「国生み」の後の「神生み」の中に「風の神、名は志那都比古神(しつなひこのかみ)を生みたまふ」とあります。


 つまり「風の神」なのです。『古事記』では、ここに1回だけ名前が出てくるだけで、いっさい伝承がありませんが、風の神なら神社名の「息神社」と合っています。


 つまり「風の息」です。松本清張さんが『風の息』という現代史に題材を取った推理ドキュメンタリーを書いています。」







雨宮日記 2021年1月10日(日) お風呂に入る

2021年01月10日 20時39分53秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月10日(日) お風呂に入る


 寒い日が続いていますが、お風呂に入りました。右足が冷たくなっていたので洗面器にお湯をくんで右足をひたした。右足の甲はすぐ暖まったが、くるぶしから上が冷たいまま。冬季は体温調節がたいへん。


 お風呂から上がったら、則子さんが足の指のあいだに水虫をみつけてくれてクスリをゆけた。右足の小指と薬指のあいだ。そして左足の小指と薬指のあいだも。


 水虫は夏におきると思っていたので、こんな寒い冬にもあるんだと、ビックリ。則子さんも今、足の指のあいだに水虫ができて痛くてしかたないそうです。



 青い銀河とオレンジの花 断片資料 10 「勤通大 第2部 経済学へのコメント 20060129」 20210110

2021年01月10日 17時10分19秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 10  「勤通大 第2部 経済学へのコメント 20060129」 20210110




「勤通大 第2部 経済学へのコメント 雨宮智彦 2006年1月29日(土)




◎感想の都合上、第1部や第3部にも触れることになります。
 ながいあいだ、教科書をきちんと読んだことがなくて、久しぶりでした。




◎全般的に リアルな事実と感覚から始めてその謎を解明する理論が求められる


 残念ながら、資本論のような、良質の推理小説を読むようなときめきがない
 ぎりぎりまでのつきつめた「ここで飛べ!」「飛んだ!」という飛躍感覚がない


 解明ではなく、科学的社会主義の理論では「こうなっています」というだけでは
 こちらとしては「ああ、そうですか」と答えるしかない。


 
◎社会移行、「社会発展の原動力」(第1部第3章第2節)は何か


 p137「生産力は、総じてたえず成長し発展していく傾向をもちます。なぜなら、人間はふつう生活の向上のためにつねに生産の技術(技能)や組織に工夫と改良や発明を加え、それを社会的に蓄積していくからです」


 たとえば縄文時代末期のような、とくに縄文文化の栄えた東日本で遺跡数が衰退していくことは、考古学では自明のことです。どうして「総じてたえず成長し発展していく傾向」「つねに」とか言えるでしょうか。


 p137~138「その発展がある段階までくると、これまでの生産関係とくに所有関係は生産力発展の条件から桎梏(さまたげ)に変わります。こうして生産力と生産関係の矛盾は激しくなり、やがて生産力発展の桎梏となった生産関係、とくに所有関係の変更が歴史の課題として人びとの意識にのぼってくるようになります」


 ぼくのいまの段階での結論はこうです。


 石器時代の狩猟・採集時代から、農業が出現する時期の人類史の分析は、こうです。氷河時代の終了と小温暖期の急速な温暖化で、これまでの狩猟・採集の獲物が捕れなくなって、これまでの生産力と生産関係そのものが危機に面して、人類は新たな生産システムとして農業を採用した。
 揚子江の場合には、周辺に生えていた実が落ちる野生の稲の中から、実が落ちないような品種を栽培で作り出した。栽培種かどうかは、これで判断できる。
 人類のDNAは、チンパンジーのDNAに比べて、きわめて変異が小さい。
 したがって、これまでのシステムに固執して滅亡した部族もあったし、この危機を生き延びた農業を営む人類が、また違う時期に、都市文明を築いた。




◎原始共同体から階級社会への移行


 p143、生産力の発展と共同体同士の紛争が、私的所有と階級の発生をもたらしたのではなくて、逆に、たとえば3世紀の小寒冷期の危機が、近い共同体同士の連携と遠い共同体を従属させていく動きをつくりだしたのではないのか。
 メソポタミアの都市国家発生も同じ。寒冷化の危機に対して、大きな灌漑施設の建設と共同管理に移らざるを得なかった。




◎p264「資本主義の基本的矛盾」、わかりにくい


 「巨大な社会的生産力の発展と資本主義的生産関係の狭い枠内での矛盾」 
 「生産力を無制限に発展させる資本主義の傾向のなかに資本主義の没落の必然性が見いだされるということをしめしています」
 このどこに危機があるのか?
 のんきに聞こえる。


 危機なしに、なぜ、社会移行が起こるのか?


 第3部、p344~346で「資本主義社会の深刻な問題」として、次の3点をあげている。
 「第1に、資本主義国は、恐慌・不況を乗り越えられない」
 「第2に、南北問題が深刻になっている」
 「第3に、地球の生命維持装置が危なくなっている」


 ここでオゾン層などの破壊だけをあげているのは、もっと深刻な温暖化問題をのぞいている点で、のんきすぎるのではないか。


 炭酸ガス濃度が上昇していけば、温暖化だけではなく、ほ乳類の呼吸困難になるということが明らかになっています。


 いま、実際に目の前に起こっていることは、巨大な生産力の発展が問題なのではなく
 環境問題をみても、温暖化による人類の生存の危機、絶滅の危機ではないのか。


◎第6章「現代の資本主義」は段階論がきわめてわかりにくい


 どういう叙述構造になっているのか、とくに、第1節の最後、p297から「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」が出てきて、そのあと、第2節の「国家独占資本主義」が叙述されているが、どういう関係になっているのか理解できない。
 同じものなのか、違うものなのか。


 純粋に経済的な話ではないのだから、「今日の独占資本主義の到達点とその特徴」は、第3部に移動したほうがすっきりするのではないか。


 「現代の資本主義」より、不破さんのように、より広い「現代の世界」をきちんと叙述したほうが、わかりやすいのではないか。




◎第2部経済論から第3部政治論へ飛んでしまうので、マクロな社会論・運動論だけ
 ミクロな人間論・集団論を媒介しないと、直接、階級闘争へは行けません。


 人間論・組織論のない革命論はへんです。


 若者論も当然、必要ですが、資本主義と現代資本主義が生み出す「消費人間」について、きちんと語り、その対局として、人間がほんらい持っている豊かな体とゆたかな人間関係、豊かな自然環境について語るべきです。


 それがあって、はじめて、その豊かな人間集団が自発的に展開する革新的未来と資本主義の支配者達が対抗する日本政治の、第3部へ接続するのだと思います。




◎上記の対極として、資本主義社会が生む、資本主義的人間を対置するとわかりやすい


 というより、順番が逆で、資本主義に操作され翻弄される「消費型」人間に対して、革新的な、というより本来人間が持っているよきものを発揮した個人と集団を対置しないと、人間論・組織論として、不完全ではないでしょうか。


 それは、p167で,資本主義がきりひらいた進歩性で3点あげていますが、2点目の「人格的に独立した人間」が、いかに資本主義の教育やマスコミなどによって、ゆがめられ、操作されるかという叙述がありません。
 
 よりよき人間的なものは、民主主義革命や社会主義・共産主義の社会でしか実現されないものではないのです。というより、現代資本主義社会と人間がもっているよい面をより大規模に実現するものということ。




◎社会と環境問題


 生産・消費の観点だけではなく、廃棄物や社会循環の観点が、現代経済学には必要だと思います。
 正確に言うと「真の循環型社会」への道ということになりますが。




( 以下は中断しました 20210110 )



 青い銀河とオレンジの花 断片資料 9 「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行 20021003」 20210109

2021年01月09日 18時26分52秒 | 青い銀河とオレンジの花
 青い銀河とオレンジの花 断片資料 9 「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行 20021003」 20210109


 「平和・民主・革新の日本をねざす静岡県の会」が発行した文集『これでいい?いまの日本 パートⅢ』p19~20に投稿した文章です。


 文集は2002年12月15日に発行されました。


 則子さんの名前で発表していますが、例によって2人の合作の文章です。ボクが原案を書き、何度も2人で書き直して、この成案にしたものです。




「浜松基地で初めて小松基地F15戦闘機が訓練飛行      雨宮則子


 私は、航空自衛隊浜松基地の軍用機の飛ぶ直下の、私立の保育園【上島のたんぽぽ保育園】で保母をしてもう25年になります。我が家も保育園の近くに引っ越して11年。家も職場もその上空をT4ジェット練習機が毎日のように、騒音をまきちらして飛び回っています。


 数年前からAWACS(エイワックス 空中警戒管制機=空飛ぶ戦闘司令部)が4機配備され、浜松基地はそれまでの教育訓練基地から実戦基地へ様変わりしています。配備から試験飛行のあいだは公表していたAWACSの飛行回数も、今はいっさい発表しなくなりました。


 それまで鉄条網だけのフェンスで外周道路からよく中が見えた基地も、AWACSの近くだけ見えないように覆ってしまいました。なんという秘密主義でしょうっか。


 いま自衛隊は、米軍の指揮下での戦争準備と訓練を重ねています。浜松基地のAWACSも、米軍と空の共同演習を国内で2回おこなった上に、昨年6月に初めてAWACSが海外の米領グアム島での日米共同訓練に参加しました。これは『国内ではできない電子戦と戦闘訓練をおこなう』というもので、私たちは基地への中止申し入れと、緊急抗議行動をおこないました。


この間の有事立法やイラク問題等あっても北朝鮮と日本政府の交渉もあり、アジアでは緊張緩和なのかなと思っていた矢先でした。【2002年】10月3日(木)午前11時ごろ異様な飛行機の轟音が響きました。


 私は、ちょうど保育園の事務室にいて、頭の上をガアアッと通り過ぎる音で、落ちろのか!と思ってドキッとしました。25年間の保育園生活で体験したことのない爆音でした。


 外にいた保母さんたちは「2機のうち1機が急に低く下がってきて、こわいと思って思わず身をかがめた」「腹の底にひびくような音だった」「こんなに低く飛ぶ訓練をして、落ちたらどうするんだと思った」と口々に証言しています。


 私が浜松基地に電話したところ「小松基地のジェット機が飛んできている。小松基地が天候不良で着陸できない場合を想定して離着陸訓練をしている」と答えました。


 翌日の10月4日(金)に、「基地のない平和な浜松をつくる会」として浜松市へ申し入れをしました。豊田市民生活部長は「訓練はやめろと言っても、日本の防衛のためには、やむを得ない」と言ったので、私は「民家が密集しているところでの低空飛行はやめてほしい」と言いました。


 小松基地が攻撃された想定なのか、浜松基地を北朝鮮の空軍基地と見立てて攻撃訓練をしていたのか真相はわかりません。


 ぜったいに戦争をしてはいけない。騒音を我慢してはいけない。悲酸な戦争を起こさせないよう、日本が戦争に参加しないよう、同じ思いの人達と手をつないでいきたいです。」



雨宮日記 2021年1月8日(金) 右足は温冷感覚がほとんどない

2021年01月08日 21時40分34秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2021年1月8日(金) 右足は温冷感覚がほとんどない


 夜、寒いのでお風呂はやめて、足浴だけにしてもらった。


 両足をお風呂のお湯にひたしたら、自分でも驚くぐらい、右足は温冷感覚がほとんどないことが判った。左足は「お湯が熱い」ことをすごく感じた。


 右足もつかまれたり、叩かれたりするのは感じる。温冷感覚は違うらしい。おかしなものだ。